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特集 −旅日記−

奄美大島旅日記
<人と仲よくなれる島>

執筆者:M

第1章奄美大島――2回も植民地になった島

旅のテーマは「セレンディピティを楽しむこと」と「巡礼と鎮魂」

2023年5月19日(金)、奄美大島の旅が始まりました。
旅のテーマは二つ。
一つ目は、「計画は立てないで行き当たりばったりのセレンディピティを楽しむ」こと。
二つ目は、「巡礼と鎮魂」です。
「巡礼」とは宗教宗旨にこだわらない「魂への畏敬」の気持ち。旅のかたちとしては「聖地訪問」です。
「鎮魂」とは御霊(みたま)に敬意を表す心。なぜ奄美大島で鎮魂なのか。奄美は、いまでこそ亜熱帯の観光地として明るいイメージばかりですが、実は二度にわたって植民地になった過去があります。

江戸時代――薩摩藩に支配され奴隷労働をさせられた

まず江戸時代です。薩摩藩の支配下に置かれ、当時高価な貿易品として珍重されていた黒砂糖を作らされました。何しろ、米や野菜を作っていた畑の大半をサトウキビ栽培に転用することが強制され、搾取されて、島民たちは自分たちの食べる米にも不自由しました。明治維新の中心となったのは薩摩藩ですが、その経済力を支えたのは奄美のサトウキビから製造した黒砂糖です。薩摩藩は、奄美の古文書や家系図も焼却処分にし、奄美の人たちのアイデンティティを破壊して支配を強化しています。
薩摩藩といえば思い浮かぶのが西郷隆盛。奄美は西郷に学問する機会を与えました。教養のなかった西郷が奄美に流されたとき、することがなかったので『春秋左氏伝』や『資治通鑑(しじつがん)』を読んで勉強し、教養を身に付けました。薩摩藩は藩士が勉強ばかりするのを好まない藩で、西郷は藩の方針に従っていた。もし、奄美に流されなかったら、幕末の様相はもっと違ったものになっていたかもしれません。
奄美でひたすら勉強した西郷を、司馬遼太郎は、
「ここに来ることで西郷は教養を身につけた。奄美大島は、西郷にとって、いわば大学だったことになります」(1986.7.11に名瀬公民館で行った講演/『週刊朝日2022.9.16号』所収)
と述べています。
西郷が明治維新の立役者になれたのに奄美も一役買っているんです。にもかかわらず、島民は奴隷のような扱いを受けました。

昭和時代――第二次大戦後、アメリカに占領統治された

さて二度目の植民地はアメリカ軍によるものです。第二次大戦に敗戦した1945年から1953年まで奄美はアメリカ軍政府に占領統治されていました。奄美に着任したジョセフ軍政官は、奄美は日本から切り離されて軍政府の管轄下におかれている、この軍政府は決して民主政治だと解してはならない、と釘を刺しています。
いまは南国の明るいイメージが先行し、島の人たちも人懐こくて陽気に見えますが、時代を少し遡れば、苦労が絶えなかった歴史が見えてきます。無念のお気持ちで亡くなられた方、犠牲として亡くなられた方の御霊がお祀りされたところをお訪ねして、鎮魂の祈りを捧げ、礎になってくださったお礼を申し上げるのです。

奄美大島は種子島、屋久島の先で、沖縄の手前に位置します(丸カコミが奄美大島)よく伊豆大島に間違われますが全然別地域です(地図出典:国土地理院)
奄美大島は種子島、屋久島の先で、沖縄の手前に位置します(丸カコミが奄美大島)
よく伊豆大島に間違われますが全然別地域です
(地図出典:国土地理院)
人口は約6万人、広さは、沖縄本島(1,703㎢)、佐渡ヶ島(854.8㎢)に続いて3番目(712.35㎢)です(北方領土を除く)。よく沖縄県と間違われますが、鹿児島県です(地図出典:国土地理院)
人口は約6万人、広さは、沖縄本島(1,703㎢)、佐渡ヶ島(854.8㎢)に続いて3番目(712.35㎢)です(北方領土を除く)。よく沖縄県と間違われますが、鹿児島県です
(地図出典:国土地理院)

第2章羽田航空神社で旅の安全祈願

始まりはお参りから「羽田航空神社」にお参り

ということで、羽田空港に集合した一行8人がまず向かったのは、「羽田航空神社」です。第1旅客ターミナルの少し奥まったところにある神社で、御祭神は「航空殉職者6367柱」。航空界発展の礎となられた方々の御霊がお祀りされています。
旅は、鎮魂から始まりました。

  • 羽田航空神社は年に一度の例大祭の真っ最中でした
    羽田航空神社は年に一度の例大祭の真っ最中でした

写真だけ見ると何だか味気ない事務所みたいですが、右側に神主さんがいます。そう、実は私たちがお参りに行ったときは、神社は年に一度の例大祭の真っ最中だったのです。例大祭ですから、お祓いを受けている方々は恐らく羽田空港で重要な任務にいそしんでいる方々に違いありません。
「御自由に御参拝下さい」とガラスに書かれているように、いつもはこの扉はオープンで、正面に祭壇が鎮座しています。
私たちは外からお参りさせていただきました。中でお参りしても外側からでも、お守りいただく力に変わりがないことは言うまでもありません。

2時間20分で奄美空港に到着

奄美へは2時間20分。飛行機はよく揺れます。
「飛行機は揺れておりますが、安全性はまったく問題ありません」という親切な機内放送が何度かあり、飲み物のサービスを受けているうちに奄美空港に到着。
天気予報は「梅雨入り」でしたが、現地は薄曇り。ちょうどいい旅日和です。ちなみに3日間の旅の間、ほとんど雨にあいませんでした。奄美は降雨量の多い島です。梅雨時の旅で毎日晴れなんて、まれなこと。祝福されているみたいでした。

さて、ここで旅に出た8人について紹介しておきます。
といっても、リーダーを除いた7人は、実は初対面なんです。羽田空港で待ち合わせたのですが、お互いがお互いを知らないので、リーダーが来るまではどの人が一緒に旅する人なのかわからない。もちろん、何をしている人なのかも知らない。リーダーが「奄美に行きたい人、いる?」と声をかけて、手をあげた人が集まったんです。
楽しそうですが、何となくお互いに距離感があるのが、写真から感じられるでしょうか?

  • 奄美空港。晴れてて「万歳!」
    奄美空港。晴れてて「万歳!」
  • 空港のロビーには島バスの案内図「無人の島バス案内所」(笑)が
    空港のロビーには島バスの案内図
    「無人の島バス案内所」(笑)が

レンタカーはでかいアメ車を3台

空港そばの「コーストランドレンタカー」で旅の足を調達。8人だからマイクロバスでも借りるのかと思いきや、リーダーが決めたのはアメリカ車3台。オープンのマスタング2台と、軍用ジープをベースにデザインしたハマーです。

縁起のいい紅白のマスタングです
縁起のいい紅白のマスタングです

「この際、左ハンドルの外車を体験しよう!!」と、ドライバーを決めたり、手続きしている間に、女性陣は併設されている奄美民芸品の店「和野商店」でお買い物。
奄美大島特産「大島紬」の小切れをあしらった髪飾りやピアス、デニムのキャップ、形の似た石を組み合わせたピアス、クバの葉の団扇などなど、奄美色が満載。奄美名物ハブの皮を張った奄美三味線もありました。

  • 和野商店の手作りアクセサリー。奄美色満載
    和野商店の手作りアクセサリー。奄美色満載
  • 奄美の海の貝とアクセサリー
    奄美の海の貝とアクセサリー
  • クバの葉で作った団扇(黄色の丸カコミ)や大島紬の糸で作ったピアス(赤色の丸カコミ)
    クバの葉で作った団扇(黄色の丸カコミ)や大島紬の糸で作ったピアス(赤色の丸カコミ)
  • 奄美三味線。売り物です
    奄美三味線。売り物です

旅の荷物はできるだけ少なくしたいので、帰りに寄ろうかと思い「日曜日はやってますよね」と尋ねると、意外や日曜日は休みだと言います。
ありきたりな土産物屋にはない「奄美のコアな商品」が並んでいる店だから、買い物したい人がいっぱい来るだろうに、この商売ッ気のなさ。
「日曜日にお休みなんて珍しいですね」
「集落の踊り大会の日だからね。お店を閉めて行くのよ」
仕事よりも集落の行事最優先――こんなシーンに旅のあちこちで出会いました。
これが奄美の特徴です。
何より近所つきあいを大切にし、人々のつながりが強い。集落の結束が堅い。その団結力で、二度の植民地時代を乗り切ってきたんだと納得しました。

  • 「お店より集落の踊り大会が大事。店、閉めて、行くよ! 楽しみにしてたんだ」と和野商店のお姉さん
    「お店より集落の踊り大会が大事。店、閉めて、行くよ! 楽しみにしてたんだ」と和野商店のお姉さん

第3章奄美の自然はドラマチック――不思議な手広海岸

干潮時には川が現れる不思議な海岸

不思議な海岸が見えてきました。
なんと、海岸に幾筋もの川が流れ、海に流れ込んでいます。
「川が見えるのは干潮のときだけだからね。満潮になると川は消える。ギリギリ間に合ったよ。あっという間に満潮になるから、いまのうちに海に入ろう!!」
リーダーは、戸惑うみんなを焚き付け「さあ、この瞬間を楽しむんだ!!」と、靴を脱いで海に入れと勧めます。

  • 干潮のときだけ川が現れる手広海岸
    干潮のときだけ川が現れる手広海岸
  • 海岸には案内板が。「サーファーの聖地」です。ハートロックは右上の丸カコミ
    海岸には案内板が。「サーファーの聖地」です。ハートロックは右上の丸カコミ

靴を脱ぎズボンをたくし上げて、海にじゃぶじゃぶ

それではと、全員、運動靴と靴下を脱ぎ捨てて、ズボンをたくし上げると、「束の間の川」と遠浅の海にじゃぶじゃぶ。
「いまの気分を漢字一字で表現してみよう」
リーダーが提案しました。

  • コーディネーターのTさんは「楽」と描きました
    コーディネーターのTさんは「楽」と描きました
  • 「天」と描いて鳥の羽ばたきをまねるIさん
    「天」と描いて鳥の羽ばたきをまねるIさん
  • 「早」と描いて指さすYさん。どういう意味だろう
    「早」と描いて指さすYさん。どういう意味だろう

「ああああ、ハートロックが沈んじまった!!」

メンバーのなかに石マニアがいました。Fさんです。ハートロックが見られなくて、がっかり。「あああああ、残念~」と、ため息をついています。
ハートロックというのは、地図に赤丸を付けておきましたが、岩にハート型の穴ができていて、海の水が溜まるとハート型がくっきりと見える。奄美の海はミルク色と緑色が混ざったような色を見せることがあって、そのときのハートロックはとてもロマンチック。恋がかないそうな希望が湧いてきます。
Fさんの嘆きを目ざとく聞きつけたリーダーが「帰りに寄ろう。空港への通り道だから」と請け負いました。
コーディネータのTさんが、いつも手放さないスマホで、さっそく干潮時間を確認。「うん、大丈夫でしょう。寄れますよ」
Fさんはガッツポーズでした。

ひとしきり遊び、濡れた足についた砂を払いきれないまま、靴に足を突っ込んで向かったのは、洗礼を体験できる教会です。

第4章奄美の教会はフレンドリー

アメリカに占領されていたときキリスト教が普及した

奄美大島には教会がたくさんあります。車で街を走っていると、壁に白いマリア像が埋め込まれた教会や、十字架マークによく出会います。

車窓から見えた教会をパチリ
車窓から見えた教会をパチリ

アメリカに占領された1952年以来、キリスト教は奄美に普及していきました。キリスト教の慈善活動の一環として、戦後の荒廃した奄美に乳幼児院や障害児のための施設を開いたりしています。
島に二つあるタクシー会社の一つ「大島タクシー」は、自社のホームページのトップに、観光地として「カトリック名瀬聖心教会」を掲載しています。教会の建物が、鹿児島県「第5回かごしま・人・まち・デザイン賞」の都市デザイン部門の大賞を受賞したためでしょう。島の人々にとって、教会の敷居は低いのです。
東京や埼玉からやって来た私たちは、教会に行くというと身構えてしまいますが、奄美では感覚が全然違う。軽いんですね。

教会で「身代わり洗礼」を体験

さて、「巡礼」でお訪ねしたのは「身代わり洗礼」という洗礼が体験できる教会でした。
でも、キリスト教徒でもない私たちが、いきなり洗礼を受けるなんて、変ですよね。家の宗教がキリスト教で、生まれて何カ月かしたら洗礼を受けるとか、考えに考えてキリスト教徒になる決意をしたというのが一般的です。
牧師様のお話によると、天国に籍(地上での国籍のようなもの)を持つのが身代わり洗礼の目的だそうです。
「私たちはいつ死ぬかわかりません、今日死ぬかもしれません。ですからこの瞬間の出会いを大切に身代わり洗礼を受けてください。天国に自分の席をつくっておくことが大切です」

  • 「私たちはいつ死ぬかわかりません」と牧師様
    「私たちはいつ死ぬかわかりません」と牧師様
  • 教会のお手伝いをしているBさん。ラーメン屋を経営しています
    教会のお手伝いをしているBさん。
    ラーメン屋を経営しています

受洗する人の宗旨は問わないようです。牧師様の朴訥な話し方に引かれて、洗礼を受けてみました。
洗礼の様子はすべて、牧師様の奥様(この方も牧師です)によってスマホで撮影されていました。あらかじめ説明がなかったので、ちょっと驚きました。
洗礼後の説教では「私たちは兄弟姉妹になりました。これからは〇〇兄弟とお呼びします」とおっしゃっていました。

第5章居酒屋でシマ唄ライブを堪能

直会(なおらい)はシマ唄居酒屋

洗礼後の直会(なおらい)は、なんとシマ唄居酒屋。シマ唄歌手・豊山貴士(とよやま・たかひと)さんのライブが夜8時から始まります。
旅のコーディネータを務めてくれているTさんが「どうしても聴かせたいんだから、早く早く」とせかします。奄美三味線弾き語りのシマ唄が聴けるまたとない機会とあって、大急ぎで居酒屋へと急行しました。
シマ唄と奄美三味線の組み合わせですから、豊山さんはてっきり年配の着物姿の方かと思いきや、アイドルのようなイケメンがTシャツ姿で登場しました。

  • 茶髪にTシャツのシマ唄歌手・豊島さんから奄美三味線の手ほどきを受ける
    茶髪にTシャツのシマ唄歌手・豊島さんから奄美三味線の手ほどきを受ける

高いのに太さを感じさせる声で、奄美のシマ唄は裏声を使うのが特徴だと話してくれました。
「奄美のシマ唄は、どこのシマ唄とも違うんです。シマ唄はふつう裏声はつかいません。裏声はごまかしの声だという。でも奄美だけは裏声をつかいます。裏声をつかうと哀愁が表現できるので」
エキゾチックな顔立ちの現代的イケメンと、古代から受け継がれてきた泥臭いシマ唄のミスマッチが、新しいシマ唄の流れを感じさせます。
「シマ唄は節回しが難しくて、私はまだまだです」
と謙遜しますが、豊山さんの活躍の場は島内だけではありません。日本のあちこちからお呼びがかかって全国を巡っています。居酒屋だけでなくカフェで歌うこともあるとか。
「シマ唄の名人は『唄者(うたしゃ)』と呼ばれ、その上に『声者(くいしゃ)』と呼ばれる大名人がいます。とても無理ですが、目指してはいます」
と言う豊島さんは、新しいシマ唄を全国に届ける「覇者」になるかもしれません。

店のみんなを巻き込んで太鼓や踊りが始まった

何曲か唄ってくれたあと、「太鼓、叩いてくれる方、お願いします」と客の参加を求め、「奄美三味線、弾いてみませんか」と巻き込み、「踊りましょう」と踊りの振りをやってみせます。
そのあとの展開が奄美らしい。豊島さんの誘いで最初に踊り始めたのは髪の長い年配のおばさま、次は恰幅のいいおじさま、その次はほっそりしたおじさまなどが大きな振りで踊り始めました。手を揺らし腰を振って、まるでロックの踊り方。若い女性たちは見守るだけです。
私たちも負けじと踊りの輪に入りました。

誘われて太鼓で参加するIさんとFさん。「太鼓を叩きながら合いの手を入れるのはムズカシイ」とか
誘われて太鼓で参加するIさんとFさん。「太鼓を叩きながら合いの手を入れるのはムズカシイ」とか

シマの人たちの手の動きの柔らかさに比べて、私たちはカチカチ。体の動きもロボットみたいにギクシャクしていて滑稽です。へたくそでも、楽しい気持ちはシマの人たちと同じです。奄美三味線がベンベンベンと後押ししてくれて「なんでも体験」という旅のテーマをクリアしました。

第6章国立療養所で鎮魂の祈りを捧げる

「国立療養所 奄美和光園」を訪問

5月20日(土)。
ホテルのロビーに9時集合。向かったのは花屋さんです。百合の花を中心とした大きな花束を二つお願いしました。今日の最初の訪問先は、国立ハンセン療養所「奄美和光園」。鹿児島県で二つ目の国立療養所です。療養所は全国に13施設あり、奄美和光園は現在(2023年4月現在)、最も入所者が少なく、13人の方が生活しています。全員が奄美の出身者で、平均年齢は87歳。
ハンセン病は現在では治る病気で、感染力も弱いし、後遺症も残りません。かつてはひどい差別を受けていて、奄美ではアメリカ占領下にあったとき、アメリカの命令で、絶対患者を外に出さないようにと療養所の周囲に柵が巡らされていました。
私たちが祈りを捧げたのは納骨堂です。ここに療養所で暮らした方々が眠っています。リーダーが般若心経をお唱えし、他のメンバーは合掌して、無念の隔離生活を強要された方たちの心中に思いをはせ、冥福を祈りました。

納骨堂に花束を手向けてお祈りしました
納骨堂に花束を手向けてお祈りしました

入所者は死後の解剖が義務付けられた

その後、130メートルほど離れたところにある旧納骨堂にお参りするために、山道を登って行きました。雨の多い奄美は、その分、湿気も高く、風も通らず陽の光も射さない細い山道は濡れそぼっています。樹々は光を求めてくねるように枝を伸ばし、柵を超えて道まで侵食してきています。

旧納骨堂は130メートル先という案内標識。この納骨堂ができるまでお骨は落ち着く場所がありませんでした
旧納骨堂は130メートル先という案内標識。この納骨堂ができるまでお骨は落ち着く場所がありませんでした

旧納骨堂に向かっていると「霊安解剖棟跡」と彫られた黒御影石の石碑に行き合いました。案内板にはこう記されています。

「旧霊安解剖棟
入所者は入所する時、死亡した際の解剖承諾署名が義務づけられていた。昭和46(1971)年完成、平成3(1991)年7月までの約20年間使用された。この間、解剖された方々の数は74体と記録されている」

  • 霊安解剖棟跡と案内板
    霊安解剖棟跡と案内板
  • 火葬場跡と案内板
    火葬場跡と案内板

特定の病気に罹患しただけで死んだあとの解剖が義務づけられ、本人が生前に署名させられた。病気には本人が望んで罹るわけではありません。
感染を恐れたためか、遺体は併設されていた火葬場で荼毘に付されました。黒御影石に「火葬場跡」と彫られた石碑も祀られていました。

手入れされた原っぱには夥しい白い蝶が

旧納骨堂に至る山道には、ところどころ手入れされた原っぱが広がっています。夥しい数の白い蝶が、花も咲いていないその原っぱを、まるで自身が花であるかのように飛び交っていました。
地面近くを飛び、決してどこかに飛び去ろうとしません。
私たちがそばを歩いていても、執着しているように離れないのです。
何度かカメラを向けました。
白い綿毛のように見えるのが蝶々です。写真で確認できるでしょうか。亡くなった霊魂は蝶の姿をとる――そんな言い伝えがあります。

  • 原っぱには夥しい数の白い蝶が飛び交っていた
    原っぱには夥しい数の白い蝶が飛び交っていた
  • 「蝶は霊が姿を変えてやって来たもの」と言う言い伝えもある
    「蝶は霊が姿を変えてやって来たもの」
    と言う言い伝えもある

旧納骨堂は、渓谷沿いに流れる川の向こうにありました。橋が渡されていて、いつでもお参りできるよう周囲の草はきれいに刈り取られています。巨大な墓石のように見えます。名瀬出身の彫刻家・基俊太郎(もとい・しゅんたろう)が設計し、建築費用は浄財で賄い、工事は入居者399人と職員36人の勤労奉仕によるものだったということです。

  • 渓谷沿いに流れる川の向こうに旧納骨堂が見える
    渓谷沿いに流れる川の向こうに旧納骨堂が見える
  • 旧納骨堂はそれ自体が墓石のような形だった
    旧納骨堂はそれ自体が墓石のような形だった

第7章亜熱帯特有のマングローブで
カヌー下り

マングローブとは海水と淡水が混じり合う地域に広がる植物群(森)

療養所のある山を下っていきます。
しばらく走ると、そこは別世界でした。
亜熱帯特有の樹々や花々の庭園が広がり、その奥にはマングローブをいただく「黒潮の森マングローブパーク」に到着です。
療養所とのギャップに人生の理不尽を噛みしめつつ、それでも楽しむのが自分の仕事だと、言い聞かせます。

ここで体験できるのは、両岸にマングローブを見ながらのカヌー河下り。
マングローブとは、熱帯・亜熱帯の海岸や河口など、海水と淡水が混じり合う地域に広がる植物群(森)の総称です。植物たちは、海水のある環境で生きるために、塩分を処理する特別な能力を持っています。現在のところ110種類くらい。
よく間違われますが、「マングローブ」は、一本の樹の名称ではありません。

  • 覆いかぶさる樹々。幹から根っこを生やす(気根という)タコノキのそばに「黒潮マングローブパーク」の道路標識が見える
    覆いかぶさる樹々。幹から根っこを生やす(気根という)タコノキのそばに「黒潮マングローブパーク」の道路標識が見える
  • 洒落た黒い建物は「道の駅」。マングローブはこの裏の庭園を抜けたところ
    洒落た黒い建物は「道の駅」。マングローブはこの裏の庭園を抜けたところ
  • 庭園にはタコノキの巨大樹が。みんなで気根にぶらさがってみた。タコノキによく似た樹にアダンがある。タコノキみたいに気根がまっすぐではなく曲がりくねっているので、こんなことはできません。タコノキは仲間になった象徴みたいだ
    庭園にはタコノキの巨大樹が。みんなで気根にぶらさがってみた。タコノキによく似た樹にアダンがある。タコノキみたいに気根がまっすぐではなく曲がりくねっているので、こんなことはできません。タコノキは仲間になった象徴みたいだ
  • 両岸をマングローブに囲まれた河。ここをカヌーで下っていく
    両岸をマングローブに囲まれた河。
    ここをカヌーで下っていく
  • カヌーを操るのは簡単そうに見えますが…
    カヌーを操るのは簡単そうに見えますが…
  • マングローブの樹々は「生きてやるぞ!!」と叫んでいるみたいに力強い
    マングローブの樹々は「生きてやるぞ!!」と
    叫んでいるみたいに力強い
  • 海水にさらされる厳しい環境なので、貪欲に根を延ばしてサバイバル
    海水にさらされる厳しい環境なので、
    貪欲に根を延ばしてサバイバル

マングローブで生息する樹は、葉っぱから塩分を吐き出します。だから葉っぱは塩辛い。
緑色から黄色に変色して地面に落ちた葉を拾い、口の中で噛みしめると、じわ~と苦みのある塩味がにじみ出てきます。ぎしぎしと歯で噛んで飲みこむと、海の味がします。
南洋諸島やアフリカが主たる生息地ですが、日本では沖縄にもあります。北限はここ奄美大島。
さて、マングローブの真ん中を突っ切って流れているのは幅10メートルくらいの河です。ゆったりと流れているようでいて、ところどころが急流。油断はできません。何しろ海へとつながっていく河ですから。

岩場や流れが急なところはガイドさんがサポート
岩場や流れが急なところはガイドさんがサポート

一人乗りカヌーで四苦八苦

カヌー下りはスリリングです。
「黒潮の森」のカヌー体験は、船頭の親方が観光案内しながら乗せてくれるのではなく、自分で漕ぐというハードルの高いもの。しかも一人乗り。いったん河に出ると誰にも頼れず自力で漕いで岸まで戻らなくてはなりません。
「マングローブのアマゾン河を一人で漕いで下るんだ~!! 」
体育会系のメンバーはノリノリで叫びつつ、目をキラキラさせています。
皆がライフジャケットを装着していると、真っ黒に日焼けしたガイドさんが「これからパドルの使い方を説明します」とレクチャーを始めました。
「パドルの文字が書かれたほうを自分のほうに向けます。まっすぐ進むときは左右交互に動かしてください。右に行きたいときはパドルの左の櫂を水の中に入れて漕ぎ、左に進みたいときは右側の櫂を河に入れて水をかきます。そうすると行きたいところに行けます」
 わずか3分ほどのレクチャーが終わると「では一人一隻で乗ってください」と船着き場へ。
いざ乗ってみると、方向を定めるのが難しい。何隻ものカヌーが入り乱れているので、あちこちで衝突事故(?)が発生しています。そのたびにガイドさんが駆けつけ、ダンゴになった3、4台のカヌーを整理整頓して、行くべき方向に押し出してくれます。
中洲に上陸して一休みしたあとは、流れが急になるからと、ガイドさんがロープで何隻かカヌーをつなぎ、船着き場まで引っ張ってくれました。

ようやく船着き場に帰還
ようやく船着き場に帰還

第8章ハブは奄美の守り神

奄美観光ハブセンターでハブを見る

カヌーでエネルギーを使い果たしたあとは、「奄美観光ハブセンター」でハブ見学とエネルギー補給です。なぜ、エネルギー補給かというと、ハブ粉末の練り込まれたキャンディをお盆に盛って、「どうぞ、どうぞ」と勧めてくれるから。ハブ粉末が入っていると言われただけで精力がつきそうです。あっさりした甘さで、ハブっぽい味(?)はしませんでしたが、疲れがとれました。

奄美観光ハブセンター
奄美観光ハブセンター

展示室には、捕獲した大きなハブのホルマリン漬がいくつも置かれています。大小いろいろです。ハブセンターの女性が、どうやって捕獲するかなどの説明をしてくれます。
生きていなくても十分コワイのですが、実は生きたハブもいます。地下にある大型のケージで飼育されている。
ハブセンターの方によると、ハブには、無毒のものと毒を持っているものがいて、展示されているのは両方だそうです。アカマタハブ(無毒)、ヒメハブ(毒ヘビ)、トカラハブ(毒ヘビ)、それに、ハブではありませんがウミヘビも一緒に飼っているそうです。

  • ハブセンターで飼育されているハブたち。後方に見えるのがハブ神社
    ハブセンターで飼育されているハブたち。後方に見えるのがハブ神社
  • ハブセンターにお祀りされているハブ神社
    ハブセンターにお祀りされているハブ神社

「お世話をされていて、咬まれることはないのですか」
「めったにありませんが、仮に咬まれたとしても、いまは血清がありますので死に至るようなことはありません。かつては、毒を吸い出して、全身に回らないように脚を縛って止血し救急車を待ちましたが、いまではその必要はなくなりました」
脚を縛って、というのは、咬まれるのはたいてい脚だからです。
「DVDで解説しておられた中本先生は、ハブを素手でつかんでいましたね」
「中本も6回くらい咬まれたことがあります。でも、適切に処置しましたから大丈夫でした。いまでは、ハブで咬まれて亡くなる方はほとんどいらっしゃいません」
ということで、私たちが考えるほどコワイものではないようです。しかしながら、油断はできません。ハブセンターには「ハブ神社」がお祀りしてあり、訪れた観光客が安全祈願できるようになっているからです。小さな赤い鳥居に、本坪鈴(ほんつぼすず)まで設置された、ミニチュアとはいえ本格なものです。
どうして、ハブセンターにハブ神社があるのか。
「ハブは山の守り神です。でも、外からいらしたお客様はハブについて詳しくありません。奄美の山の中なんかを散策していて、ハブと鉢合わせしたり、咬まれたりしないよう、ハブセンターにいらしてくださったお客様には、私たちが注意事項をご説明いたします。さらに、お客様ご自身がご祈願できるようにということで、ハブ神社をお祀りしたのです」
確かにケージでゆっくりと身をくねらせているハブは、かなり不気味。それは、ハブセンターに見学に来る人が共通して抱く思いでしょう。そんな観光客の応対をしていて、質問に答えたりなどしているうちに生まれた措置のような気がしました。

ハブセンター入り口
ハブセンター入り口

「ハブ狩り」と「ハブアタリ」が集落の結束を強くした

奄美名物といえばハブ。ハブといえばコワイ毒蛇。
そんなイメージがありますが、奄美の人たちは、ハブは守り神だといいます。
ハブに咬まれるのを恐れて、うかつに山に入らない、河を汚さない、それで奄美の自然環境が守られました。
そればかりでなく、ハブは集落の人たちを結びつけるのにも一役買っていました。
『復刻奄美生活誌』(惠原義盛著、南方新社)では、ハブが人々をやや強制的に結びつけた集落の行事についてこんな説明しています。
かつては「ハブ狩り」といって、集落でハブを捕獲する共同作業がありました。ハブが活発に活動する4月、5月に行われ、数え年15歳から60歳の男全員が参加しなくてはなりません。朝食を済ませると、手に手にコンボウや竿、鎌を持って集まり、いくつかのグループになってハブのいそうなところで待機します。見つけたら、「いたぞ」と叫んで知らせると、その近くにいるものが集まって共同作業でハブを捕獲する。1グループで必ず一匹取るという責任が課されていたそうです。
同書には、「ハブアタリ」についても書かれています。ハブアタリとは、ハブに咬まれることです。もし、一人で屋外にいるときにハブに咬まれたら、大声で助けを求めます。それを聞いて、村の人たちが必ず助けに来る。そういう約束になっています。自分を咬んだハブを捕まえると傷が浅くて済むという言い伝えがあるため、救助に来た人は病人の介抱よりまずハブ退治から始めます。その後、咬まれた人をおぶって家まで運び、重傷の場合は医者に連れていく。交通の便といえば馬か船という時代のことです。医者に行こうにも、いまのように車などありません。だから、共助が発達しました。馬を飼っている人は馬を提供するし、船を持っている人は、咬まれた人を乗せて街の医者まで運んだということです。
他人のためにそこまでやるか、と思ってしまいますが、奄美は山が険しく道が細いという地形で、それぞれの集落は孤立していましたから、村の中での自治と共助を強固にするという知恵で生き延びました。
マイナス転じて福となすと言われますが、厳しい地形が共助を強くし、仕事を休んでも、集落の行事を優先する習慣ができた。共助には強制力と必然性が必要で、甘い楽しいだけではないことがわかります。

ハブとマングースの壮絶な戦いを見る(ただしDVD)

ハブがもたらしたのは、共助だけではありません。ハブの生命力が健康に、また大島紬という芸術に、貢献しました。
ハブの成分を抽出してハブ酒やハブ油、ハブ粉末、ハブの肝など健康食が作られました。大島紬の柄はハブのウロコの模様です。ハブのウロコは人間の指紋と同じで二つと同じものがありません。それだけオリジナルなデザインになります。
ハブセンターが設立されたのは1974年です。建物はちょっと古びてきていますが、2007年には鹿児島県知事から薬事功労賞を受賞するなど、島の人々や観光客の健康への貢献が評価されています。
センターで上映されるハブについてのレクチャーと、マングースとハブの壮絶な戦いの記録は、リアリティがありました。DVDですが、古びていない。
ハブ一筋の中本英一が、白衣を着て、名調子でハブについて語ります。ハブは水だけで1年以上生き抜く生命力を持つこと、その生命力を人々の健康に役立てることができることなどです。そのあと、ハブとマングースの戦いの映像が流れます。どちらも強い。と、戦いが佳境に入ったところで、生臭いにおいが漂ってきました。ぎょっとしました。実はこれはお店のサービス(?)。よりリアルに感じてもらいたいという演出でした。

  • 奄美ハブセンターのパンフレット。写真はDVDに登場して、ハブの解説をしてくれた中本英一先生。ハブを素手でつかんでいました
    奄美ハブセンターのパンフレット。写真はDVDに登場して、ハブの解説をしてくれた中本英一先生。ハブを素手でつかんでいました
  • ハブセンターのパンフレット。ハブの芸術性と生命力をアピール
    ハブセンターのパンフレット。ハブの芸術性と生命力をアピール

ハブラーメンを食べてみた

「店を開けて待ってますから、絶対来てくださいね!!」
そう言ってくれたのは、旅の一日目におうかがいした教会でお会いしたBさんです。
Bさんは永田橋市場という小さな店が集まった食堂長屋でラーメン屋さんをやっています。土曜日は教会の仕事があるので店はお休みです。でもこの日は、私たちのために夕食時だけ開けてくれるというのです。これは行かねばなりません。

  • 永田橋市場入り口。小さな店が並んでいてカウンターやテーブルは通路にあります
    永田橋市場入り口。小さな店が並んでいてカウンターやテーブルは通路にあります
  • 「島ラーメン ハレルヤ食堂」。カーテンの奥が厨房です
    「島ラーメン ハレルヤ食堂」。カーテンの奥が厨房です
  • 通路がそのまま食堂に。椅子をかき集めて自分たちでセッティングします
    通路がそのまま食堂に。椅子をかき集めて自分たちでセッティングします

名物は奄美名産黒豚チャーシューの厚切りが積みあげられたラーメン。そして、かのハブラーメンです。ハブ酒を飲むとあとで効いてくるといいますが、ラーメンはどうでしょうか。
そのハブラーメンを注文したのは、意外や女性陣のみ。
理由は不明。

  • 黒豚チャーシューがたっぷりの島ラーメン
    黒豚チャーシューがたっぷりの島ラーメン
  • 「ハブラーメン
    ハブラーメン

お味のご感想は?
「わりとあっさりしているのが意外。おいしい。ただ小骨が多いので食べるのに時間がかかってしまって」
とか。
「骨を取るのに時間がかかって麺が伸びてしまった」
という声も聞かれました。
最近「骨取りサバ」とか「骨取りアジ」がスーパーに並んでいる。同じようにして「骨取りハブ」を売り出せば売れるのではないかと、起業家を目指すメンバーが半ば本気で言っていました。
デザートはパッションフルーツ。「これはサービスだよ」と、オシャレな貝のお皿に盛りつけられて出されたフルーツは、見た目はちょっとグロテスク。でも、味は真逆。甘くてさわやか。種まで食べられました。

パッションフルーツ。見た目はちょっとグロテスク。濃厚な甘さなのにしつこくなかった
パッションフルーツ。見た目はちょっとグロテスク。
濃厚な甘さなのにしつこくなかった

Bさんの働き方は奄美ならではのもの。店には、こんな貼り紙がはってあるんです。

「ただいまるすにしております。電話したら5分で来ます。
思い切って、どうぞ
シマラーメン B」

厨房から顔を出すBさん
厨房から顔を出すBさん

確かにこのほうが合理的かも。
奄美では、こういうお店を時々見かけます。
こんなことがありました。知り合いに聞いた話です。夕方、商店街を散歩していて、欲しかった太鼓が窓越しに見えた、奄美三味線も壁に掛かっている。ちょっと見せてもらおうかと思ったら「午後8時以後に電話してください」という貼り紙があって、引き戸の入り口が開きません。電話番号をメモして、いったんホテルに戻り、一休みしてから電話をしました。無事につながってお店まで行き、話もはずんだのですが、結局買わなかった。わざわざ店を開けてもらって申し訳なかったのですが、太鼓を叩いたときの感覚が、「ちょっと違うな」という印象だったのだそうです。楽器は触ってみないとわかりません。お店の人ももちろん嫌な顔などせず、むしろわざわざ来てくれたことを喜んだということです。
反対に、最近、増えてきたファミリーマートは、奄美の文化に流されることなく24時間営業です。お客さんはたくさん入っていてレジに行列ができているし、込む時間帯は駐車場に交通整理のおじさんがいて誘導してくれます。
確かに便利で、なんでも売っているけど、あんまり浸透してほしくないなあ、というのは観光客のエゴなんでしょうね。

第9章リベンジのハートロックへ

ハブの出そうな熱帯植物のトンネルを通って、海へ

5月21日(日)。
いよいよ旅の最終日です。
行ったのは、もちろん、ハートロック。
初日は海の中に沈んでいて見られず、Fさんが嘆き悲しんだあの岩場です。
「いまは干潮だから大丈夫」とコーディネータのTさんが太鼓判を押してくれました。
案内標識に導かれて、うっそうとした植物のトンネルに入ります。

案内標識に導かれてうっそうとした熱帯植物のトンネルへ
案内標識に導かれてうっそうとした熱帯植物のトンネルへ

だれかが手入れしてくれているのでしょう。道はくっきりした一本道が維持されていて、植物に侵食されていません。
もし、この道がなければ、富士山の樹海を彷彿とさせる風景です。
ハブも出そうでドキドキです。
草むらに潜んで草や土と一体化しているので気づきにくいとか、とぐろを巻いているのが電光石火のごとく一本の棒になって咬みつくという話も聞いていました。道の草をきれいに刈ってあるのは、ハブ対策かもしれません。
ハブは直射日光に弱いので、とにかく明るいところを歩くようにしました。道は長く感じられました。

  • ハブと遭遇しそうな道が続きます
    ハブと遭遇しそうな道が続きます
  • ハブと遭遇しそうな道が続きます

ハートロックがあった!!

トンネルを抜けると、海が広がっています。
ありました!
ハートロックです。
本当にハート型です。バランスの取れた見事なハート型。
どんな波に削られて、いったい何百年かかって、こんな姿になったのでしょうか。この写真は砂浜から撮ったものですが、ドローンで上から撮りたかった。左右対称の正統的なハートが撮れたことでしょう。
Fさんは大感激。
岩を伝って、すぐそばまで行き、手を浸して「ハートの海」を味わっていました。

ありました!ハートロック。ドローンで撮りたい!
ありました!ハートロック。ドローンで撮りたい!

締めくくりは一面のサトウキビ畑で記念撮影

時間の許す限り海を堪能し、最後は奄美の名産サトウキビ畑に行くことにしました。
よきにつけ、あしきにつけ、奄美を支え続けているサトウキビ。空港まで走る道の両側に広大なサトウキビ畑が見えます。
といっても、畑には、農作業している人は誰もいません。さすが奄美は日曜日は全休だと思いきや、収穫時期は12月から4月下旬まで。すでに収穫が終わっていたのです。
サトウキビは2メートル以上の高さに育ち、収穫するのは茎の部分です。茎に甘い汁がたっぷり溜めこまれています。
収穫された茎は製糖工場に搬入し、細かく砕いて圧搾機で汁を搾りとり、黒糖へと加工していきます。黒糖になるのはもとのサトウキビの14~15%だそうです。

  • 一面のサトウキビ畑。収穫後なので背の高いサトウキビ畑とは感じが違います
    一面のサトウキビ畑。収穫後なので背の高いサトウキビ畑とは感じが違います

羽田航空神社に旅のお礼参り

飛行機は定時に出発。予定通り羽田に着きました。
羽田航空神社に、お礼のお参りをしました。
それぞれ、いろいろあって、充実した旅のお礼を申し上げたあと、ご祭神の前で記念撮影です。
「ハードだったけど、おもしろかった」――みんなそんな顔してますよね!!
行きの羽田空港で初対面した8人です。
でも、そうは見えないでしょう。
奄美空港での、ちょっと戸惑ったよそよそしい感じがなくなっています。
たった3日間、一緒に旅して、こんなつながりができました。
それ、写真からわかりますよね。
みんなが仲良くなれる奄美大島。
あしたは月曜日。街を見る目がちょっぴり変化しているかもしれません。

(ライターM)

羽田航空神社で旅のお礼を申し上げました。「ありがとうございました」
羽田航空神社で旅のお礼を申し上げました。「ありがとうございました」