
嘘か真か落人の里、霙ヶ谷龍神洞

こんにちは!嘘つきはライターの始まり(?)、主婦ライターのマルハナバチです。
エイプリルフール特集の今回は、平家の落人伝説のある霙ヶ谷(みぞれがたに)龍神洞をご紹介します!
全国にある落人伝説の里の中でも、非常にマイナーなこの場所ですが、真偽はいかに。
さて、落人伝説というからには、平家物語をおさらいしておかねばなりませんね。
平家物語は、冒頭があまりにも有名。古文の授業で習ったこと、皆さま記憶にあるかと思います。
“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり
娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらわす
奢れるひとも久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ 偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ”
(『平家物語(一)』 梶原正昭・山下宏明校注 岩波文庫)
このあと、『遠く異朝をとぶらへば…』と続いていくのですが、この冒頭部分は世の無常を、仏教用語を散りばめて言い表したもの。
ワタクシ的には、日本史上で随一の名文だと思っております。
祇園精舎とは、インドにあった精舎(僧院)であり、仏陀が説法を行った場所の一つ。
娑羅双樹は芳しい白い花が咲く高木で、釈迦がその下で入滅したと言われています。
無常観に貫かれた序文の通り、平家物語は一族の勃興から終焉までを描いたもの。
平清盛が、異例の出世で昇殿を許された父のあとを継ぎ、たった一代で太政大臣にまでのしあがり、娘の徳子を天皇に輿入れさせ、天皇の外祖父となるまでに出世。
高倉天皇を傀儡にして、政権を掌握し、『平家にあらずんば人にあらず』と言われるほどの繁栄を極めます。
その一方、その強権的な政治に反発も多く、平家一族に対する不満が燻っていきます。
そして、幼い頃命を助けた源義朝の嫡男、頼朝の挙兵により源氏との全面戦争へとなだれ込み、だんだんと西へ西へと追い詰められていきます。
さらに劣勢の中、一族を率いてきた清盛が病死。
ついに山口県の壇ノ浦の合戦で敗れ、清盛の妻、二位尼(にいのあま)は三種の神器とともに孫である安徳天皇を胸に抱いて入水するのです。(ただし、この三種の神器は形代だったとのこと)
安徳天皇、享年8歳。
歴史というのはむごいことをするものです。
こうして、時代は鎌倉幕府成立へと続いていくわけですが、歴史を変えたこの合戦は物語として世に長く残り、意外なところにその影響は残されています。
例えば、赤白帽や紅白歌合戦。
赤い旗印は平家、白い旗印は源氏。
赤と白に分かれて勝負をするのは、源氏と平家になぞらえているのです。
モモやウメなど一部の植物でも、紅と白の花が同じ木に咲くものを源平桃や源平梅と呼び、またそういう咲き方を源平咲きと言ったりします。
また、弱い者や敗れた者を哀れに思い、肩入れする気持ちを『判官びいき』と言ったりします。
この判官は、源義経のこと。義経が左衛門の判官である左衛門尉(さえもんのじょう)だったことからきています。
平家物語の成立時期は定かではないものの、鎌倉時代末期にはすでに存在していたといいます。
作者は不明。
吉田兼好は『徒然草』の中で、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)という人物のことを書いています。
信濃前司行長は、よく学問を修め博識なことで有名でしたが、帝の前である失敗をし、そのことであだ名をつけられていたことを知り、学問を捨てて遁世してしまいます。
“この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教えて語らせけり”
(『新訂 徒然草』 西尾実・安良岡康作 校注 岩波文庫)
入道というのは、仏門に入った人のこと。
信濃前司行長説には異説もあり、平家物語の作者が誰だったのかは確定していません。
いずれにしても、非常に学識に富み、文章の才に恵まれた人物であったことは間違いないですね。
吉田兼好の書いた通り、平家物語は、盲目の人が生業として琵琶を爪弾きながら語るものでもありました。
彼らが平家物語とその曲は、平家琵琶、平曲などと呼ばれます。
小泉八雲の作品『耳なし芳一』はまさに、盲目の芳一が、彼の平家琵琶の素晴らしさ故に平家の怨霊に魅入られてしまい、体中に経を書きつけてもらうことで辛くも難を逃れるというお話です。
文字に書かれた平家物語としては、現在残っている主な写本は二つ。
・延慶本(えんぎょうぼん)…一番古い形を残しているとされる(東京都世田谷区の五島美術館所蔵)
・長門本(ながとぼん)…長門赤間関(現在の山口県下関市)の安徳天皇を祀る赤間神宮が所蔵。
他にも、平家物語に大幅に挿話を加えた源平盛衰記など、様々な本が存在するのですが、そのひとつに菟角本(うがくぼん)というものがあります。
菟角本は、平家の血を引くある人物が逃げ延びて、ある里にたどり着きそこで一生を終えたという、いわゆる落人伝説を語っています。
その人物とは、平通盛(たいらのみちもり)の娘、依姫(よりひめ)。
家系図をご覧ください。
平通盛は清盛の甥にあたり、武将として戦い、一の谷の合戦で討ち取られています。
妻の小宰相(こざいしょう)は宮中一と言われる美女で、通盛の死後、身ごもっていたにもかかわらず後を追い身投げしています。
しかし菟角本によれば、小宰相は死の直前に子を産んでおり、乳母がその子を連れて、出家していた中納言律師忠快のもとに身を寄せたことが描かれています。
そして、忠快が手を尽くして依姫は須磨から讃岐に逃され、ひっそりと霙ヶ谷という里で暮らしていたというのです。
依姫からみれば、清盛は大伯父にあたります。
清盛から見れば…なんて言うのか調べてみましたら、甥の子供のことは、姪孫(てっそん)というそうです。
霙ヶ谷龍神洞は、香川県の小さな島、鷲島にあります。
愛知県からだと距離がありますので、早朝に出発。船でしか行けないので、船着場を目指します。
一日に2本しか連絡船がないので、乗り逃がしたら大変!
小さな島で観光地といった感じではなく、過疎化も進んでいるようです。
町の奥へ行くほど無人となり、朽ちかけている家がたくさんありました。
霙ヶ谷龍神洞は、細長い小さな島の先端近くにあり、そこへ行くには山道を通っていくしかなく、ひたすら歩きます。
山頂は風も強いけれど、景色はとてもよく、目指す岬を見下ろせます。あそこまで飛んでいきたい…。
登りの次は、ひたすらに降ります。帰り道のことを考えてはいけません。無心で降りていきます。
振り返れば、降りてきた山は海に向けて崖になっており、荒々しい岩がむき出しで波に洗われています。
ここが乙女岩。
依姫は毎日この崖に立ち、西の方を向いて平家一族の菩提を弔っていたのだとか。
池のほとりに、目印のようにぽつんと植えられた枝垂桜が満開の花をつけていました。
龍神洞は湧水があるのか、清らかな水が滴っています。
龍神は水の神ですから、その名前にふさわしいといえるでしょう。
しかしこれで終わりではありません。
なんと、この奥に依姫を祀る神社があるというのです。この奥に入るの、ちょっと怖い!
地下への階段は、思ったよりきちんと整えられており、小さなお社にも電気がついていました。
上で見た龍神洞の湧き水が流れてくるのか、社から水路が洞窟の奥へと続いています。
実はこの洞窟は外へと繋がっており、依姫はそこから鷲島に上陸したと言われているようです。
依姫は、わずかな供を連れてこの地に逃れてきました。
菟角本でも、依姫のその後については詳しく書かれていませんが、見も知らぬ土地で慣れない暮らしを強いられたことでしょう。
そんな日々においても、毎日西に向かって祈っていたという依姫の姿を想像すると、なんだか切なくなってきませんか。
薄暗い社の中、運命に弄ばれた依姫のことを想いながらお詣りしました。
さて、地上に出た時、ちょっとびっくりすることが起こりました。
桜が咲くほどの気温だったのに、急激に空が暗くなり雪が降ってきたのです。
霙ヶ谷という名のとおり、みぞれではなかったのがちょっと残念(?)。
すぐに止みましたが、なんだか不思議な気持ちで社を後にしました。
霙ヶ谷龍神洞、いかがでしたでしょうか。
歴史は常に勝者の味方です。
勝てば官軍、負ければ賊軍。平家物語の結末は、まさにその通りになりました。
語られるのは、生き残った者にとっての『真実』であり、事実とはまた違うもの。
真実の中に嘘があり、嘘の中にもまた真実があると言ってよいのかもしれません。
霙ヶ谷龍神洞に眠るという依姫の話もまた、嘘と真実どちらなのかを見極めることは、ワタクシのような凡人には難しく、読んで下さった方に委ねるしかないのです。
信じるか信じないかは、あなた次第です。