
大阪の慰霊碑巡礼

各地に太平洋戦争で亡くなられた軍人や一般市民の慰霊碑が残されています。この記事では、大阪の慰霊碑の巡礼を行い、その歴史に触れ、後世に伝えるための課題等を考えてみました。
慰霊碑と忠魂碑の違い
慰霊碑は戦争で亡くなられた軍人や、太平洋戦争における本土爆撃で亡くなられた市民の霊を慰めるために建立された碑です。石碑に刻まれている文字には慰霊の文字や、それ以外にも色々なものがあります。
一方、忠魂碑は戦死した軍人の慰霊碑の中で、忠魂の文字が刻まれているものを指す呼称です。忠魂の意味は「天皇陛下に忠義を尽くした魂」といった意味で、広い意味では忠魂碑も慰霊碑と言えます。
先に記した忠魂の意味から、太平洋戦争後の進駐軍は、慰霊碑に忠魂と刻まぬように指導したそうです。したがって、日清・日露戦争で亡くなった方の慰霊碑には忠魂の文字が刻まれているものの、太平洋戦争後に建立された碑には忠魂の文字が刻まれたものは、極めて少ないと言われています。
大阪市住之江区にある大阪護国神社の慰霊碑
戦死者の慰霊の話題で、真っ先に想い起こされるのが全国の道府県にある護国神社です。大阪在住ですが、地元の大阪護国神社を訪れたことはなく、今回初めて訪問しました。大阪護国神社は大阪市住之江区にあり、大阪メトロ四ツ橋線の終着駅である住之江公園駅を地上に上がったすぐの所にあります。
この神社は、国ために戦死した英霊を祀ることを目的に昭和15年に建立され、現在は日清・日露戦争、太平洋戦争等で戦死した大阪府在住者や関係者十万五千余柱の英霊が祀られています。
幹線道路に面した鳥居の先には本殿が見え、そこに至る境内の石畳の参道の両側に、沢山の慰霊碑が建っているのが目に飛び込んで来ます。本殿に向かって右側に陸軍関連の慰霊碑が建ち並び、左側に海軍関連の慰霊碑が建てられていました。海軍らしい錨をあしらった慰霊碑や飛行機をデザインした慰霊碑なども見られます。陸軍の慰霊碑も、海軍の慰霊碑も連隊や部隊別などに、太平洋戦争後に建立されたものが多く、忠魂の文字が刻まれたものは見当たりませんでした。
大阪護国寺は、そもそも戦死者を祀るために建立された神社であり、多くの慰霊碑は綺麗に維持管理されている様に見受けられました。しかし、この神社を支える尊崇会の会員は300名弱で、その内遺族会員は40名程となっているそうです。大阪府民880万人、祀られている戦死者10万5千柱を考えると、余りも心細い状況だと言えます。
街中に残された戦死者の慰霊碑
戦死者を祀る目的で建立された大阪護国神社の慰霊碑以外に、街の中に建てられた慰霊碑や忠魂碑を求めて、まず歴史があり下町風情のある近鉄八尾駅周辺を探索しました。
最初に河内音頭発祥の寺院として知られている「常光寺」を訪れました。ここには、二つの慰霊碑がありました。ひとつは昭和13年に中国北京郊外で編成されたある大隊の第四中隊で無事に帰国された有志の方により昭和58年に建立された碑です。ここには、「万世和平」との文字が刻まれています。もうひとつは小さな墓地入り口に建っており、少し古そうで、高い位置に慰霊碑的な文字が刻まれており、慰霊碑であることは分かりますが、詳細は分かりませんでした。
また次に、この寺院の近くにある「八尾神社」に立ち寄りました。ここには「従軍記念碑」との文字が刻まれた慰霊碑がありました。
大阪護国神社にも、八尾の小さな寺院や神社にある慰霊碑にも忠魂の文字はなく、どうしても忠魂碑も見たいと、ネットで調べて大阪市天王寺区の真田山公園に出かけました。
この地には太平洋戦争以前から「騎兵第四連隊」があり、その連隊の戦死者を悼む碑が建てられているのです。この碑の下の二段は昭和2年に建立されたと刻まれていますが、最上段に設けられた忠魂の文字が刻まれた石は、戦後に付け足されたものだとのことです。なんとなく全体のバランスが良くないのは、このためだろうと推察されます。
進駐軍の命により、戦後の慰霊碑には忠魂の文字が刻まれたものは非常に少ないとされていますが、ここで初めて所謂忠魂碑に巡り合うことが出来ました。この忠魂碑は公園の隅に立っていますが、供養は近くにある「三光神社」が行っていると書かれていました。
以上、街中の寺院や神社に建てられている慰霊碑や忠魂碑を巡りましたが、いずれも現在のところ管理に問題はなさそうでした。
しかし、特定の部隊を慰霊する碑は、関係者が少なく、立地している寺院や神社が、どこまで支援できるのかは疑問に思われました。
京橋大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑
戦争で亡くなった方には、戦地に赴き戦死した軍人以外に、爆撃により亡くなった一般市民も多数おられます。沖縄や原爆が投下された広島や長崎には、こうした市民を悼む大規模な慰霊施設が存在します。
しかし、それ以外の大都市でも、東京や大阪は大空襲に見舞われています。そこで今回は大阪の大空襲で、終戦前日の8月14日の京橋大空襲の慰霊の場所を訪れました。大阪市内では6回の大空襲があり、終戦前日にはB29が145機襲来し、現在の大阪城駅と京橋駅間にあった陸軍の砲兵工廠をターゲットに650発もの1トン爆弾を投下したのです。この爆弾が近くのJR京橋駅をも直撃し、駅舎が吹っ飛び500~600人の市民が亡くなられたのです。身元が分かっているのは、僅かに210名だとのことです。
慰霊の場所はJR京橋駅に南口のすぐ側にありました。そこには、最初に建立された南無阿弥陀仏と刻まれた仏式のお墓、そして納経塚が祀られていました。またロータリークラブによって近年設置された平和を願う像も建てられていました。
毎年行われる慰霊行事には、もちろんJR京橋駅も参加しており、この慰霊の場所が風化することはないと感じられました。
自治体が管理運営する慰霊施設
以上のように今回巡礼した慰霊碑は、現在のところ倒壊の恐れや、荒れ果てた感じはなく、危機的状況にはありませんでした。しかし、太平洋戦争の終戦からすでに78年が経過しており、戦死者の遺族は子供の代から、孫の代になっており、しかも減少を続けています。
戦死者を含め、最も小規模な慰霊の場とも言えるお墓は無縁化が進み、これを回避するために永代供養の納骨・埋骨施設が増えているのが実態です。
そんな中で、慰霊碑だけが長く問題なく維持できるとは、到底考えられません。それを回避する手段は、軍人と一般市民の両方の戦没者の慰霊と共に、平和を祈念する自治体の慰霊場所・慰霊碑を設置し、維持管理する以外ないのではと思われます。
そんな自治体の慰霊施設として、東大阪市の慰霊施設を訪れました。この施設は昭和38年に、旧布施市が設けたもので、アリーナもある東大阪市が管理する八戸ノ里公園の一角にあります。建設されたのは、主に爆撃により亡くなった一般市民の慰霊が目的であったようです。しかし、戦地で亡くなられた方のご遺族が慰霊することももちろん可能です。
施設には前に拝殿風の建物があり、その奥にもう一棟の建物があり、そこに大きな慰霊碑が建てられた構造でした。開門は毎月1、2度で残念ながら、当日は内部で慰霊することは出来ず、また内部がどの様になっているかを知ることも出来ませんでした。
この様に自治体が維持運営する慰霊施設は、一般市民の戦没者を慰霊する目的で建てられているケースが多いようですが、徴兵されて戦地で亡くなった方々を、もっと手厚く同じ施設で慰霊すべきでしょう。
東大阪市の様な立派な施設でなくとも、小さな町や村なら、役場の敷地の一角に慰霊碑を建て、役場が維持管理し、終戦記念日等に慰霊祭を行うだけでも良いでしょう。決して費用が掛かり過ぎて設置できないことはないはずです。
太平洋戦争に対しては、色々な評価や考え方があり、また政治利用されることも少なくありません。しかし、職業軍人も徴兵されて軍人として戦地に派遣された方も、爆撃を受けた市民も、戦争で亡くなられた全ての方を、分け隔てなく慰霊し、平和を願う場所を市町村が提供することに、何の問題もないと思います。