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執筆者:にう
戦没者を弔う慰霊碑等の特集

図書館でのご縁と「忠霊堂のこれから」

執筆者:にう
執筆者:にう

こんにちは。神社仏閣や史跡を訪ねるのが大好き、47都道府県2巡目の、ライターにうと申します。
今回は、図書館での本との出会いから、思いがけず戦争の慰霊碑に思いを馳せることになったお話をいたします。
皆さんの住む街のお寺や公園などに「慰霊碑」があるのを見かけたことはありますでしょうか。
視界に入っても風景のひとつのような存在でいて、その奥には今まで知らなかった街の歴史があるかもしれません。
そんなお話となっていますので、少しの間お付き合いいただけると嬉しいです。

夕陽に照らされる忠魂碑
夕陽に照らされる忠魂碑

図書館で出会った「いそとせ」

「住んでいたりお仕事に関係があったりする場所は、自分とのご縁もきっと深いのでしょうね。
 そこにどんな歴史があるのか思いを馳せていきたいですね」

これは、ある日の知人の一言。
土地には神さまがいて、その土地を利用することのお許しを得るために地鎮祭をする、そんな話題から発せられたものでした。場所にもご縁があるのだと。
何気ない言葉だったもののなぜか気になってしまい、後日、図書館へと出かけました。

(毎日ご飯を食べてお風呂に入って眠っているこの街には、どのような歴史があるのだろう?
 我が家が建つ前、うちの土地は桑畑だったとは聞いているけれど・・・)

漠然としか知らないこの街の歴史をより深く知りたいと思ったのです。
図書館につくや否や、まっすぐに、郷土史のコーナーへ向かいました。

そこは図書館の一番奥。
ひとつ手前の漫画コーナーには何度か行ったことがありますが(図書館にある漫画って、どうしてビミョーに全巻揃っていないんだろう!)、郷土史なんて、普段は絶対にご縁のない場所です。
私のように街への関心が低い方が多いのでしょうか、郷土史コーナーには、私が入ってから出るまで、一人としてやってくることはありませんでした。

誰もいないことを良いことに、興味が赴くまま本を出してはしまう私の視界に飛び込んできた、不思議なタイトルの背表紙。

「いそとせ?」

手に取ってみると、昔、小中学校で作った文集のようなシンプルな本。
いそとせ、というタイトルのほか、「終戦五十周年記念 戦時体験集」と書かれていました。

美しい筆文字の表紙
美しい筆文字の表紙

「いそとせ」とは50年という意味だそうです。

私は神社仏閣やお城、史跡巡りを趣味としていますが、歴史的建造物ということで近世の戦争遺構を訪ねることもありました。
なので、もしかしたら福島県内に私が行ったことのない戦争遺構があって、その情報が載っているかもしれないと、大変申し訳ないのですが、そのときは気軽な気持ちで本をお借りしました。

冊子「いそとせ」が教えてくれた忠霊堂の存在

子ども、
奥さん、
弟や妹。
福島県遺族会により、戦後50年を記念して発行された冊子『いそとせ』には、それぞれの立場から、兵士として戦地へと赴き、そして喪われていった戦没者への思いが綴られていました。
ある方は格式のある文章で、ある方は話し言葉で。
和歌や詩としてまとめていらっしゃる方もいました。
その統一感のなさに始めは戸惑ったものの、それだけ、個人としての思いをありきたりの文章ではなく自分の言葉で綴っていらっしゃるのでしょう。
生まれる半年前に父を亡くした遺児の方の、母の苦労と共に成長したお話。
出征の朝、夫の準備が手間取り、何も話すことが出来ずに夫が出ていきそれきりになってしまったという遺族の方のエピソード。
ページをめくるうちに胸がいっぱいになり、なかなか読み進めることができませんでした。

先の戦争で徴兵された福島県民は約13万人、うち戦没者は6.2万人。
あまりの数の多さに、ともすると統計上の数字としてしか捉えられないかもしれません。
ですが、この膨大な数字のひとつひとつに、戦没者がどうやって生まれてそして戦地へ赴いていったのかですとか、家族へ向けた言葉にすることが出来ない感情など、一人一人の人生がぎっしりと詰め込まれているのだと思います。
冊子『いそとせ』はそんな6.2万人の尊い命のなかから、120名もの遺族の50年分の思いが本という形で圧縮されていました。
その行間からも溢れてくるような悔しさ、やるせなさ、むなしさ、それでも歯を食いしばり前を向いて生きていく姿に圧倒されつつも、私はある方の文章のなかから、気になる記述を見つけました。

「昭和18年に建立された小田山忠霊堂は、福島県施設として運営されている全国にも稀な遺族支えの御堂」

会津若松市に、戦没者の忠霊堂があるとのこと。
福島県に忠霊堂があることはまったく知りませんでした。
その文章によると、戦後、GHQが発した「神道指令」により神社と国家との係りが分離され、それに伴い忠魂碑などの建造が禁止されたそう。
この小田山忠霊堂も取り壊すよう要請されたものの、遺族会の必死の訴えにより現状維持することができたとのことです。
それだけの困難を経ながら続く忠霊堂。
「ぜひお参りしたい」と心が沸き立ちました。
ただ、この冊子『いそとせ』が発行されたのは戦後50年。
現在は終戦78年を迎えようとしていて、『いそとせ』発行から30年近くの月日が流れています。
その間、東日本大震災や福島県沖地震があり、なかには残念ながら倒壊してしまった歴史的建造物もあります。
「慰霊堂は倒壊せずに残っているのだろうか?」と不安を思えつつも、いてもたってもいられず、一路会津へと向かうことにしました。

忠霊堂で出会った御厚意

現地に到着したのは夕暮れで空がオレンジに染まりだした頃。
高台の、お寺と住宅地が混じり合ったなかに、小田山忠霊堂はありました。
一見、街中のどこにでもある公園のように見えました。
ですが遊具はなく、赤いお堂のほかには古い石碑が松や桜の木のなか点在しているのみでした。
小さな女の子が、お母さんとおばあちゃんらしき人と一緒に遊んでいました。

  • 入口が閉じられた忠霊堂
    入口が閉じられた忠霊堂
  • 忠霊堂の敷地で遊ぶ女の子
    忠霊堂の敷地で遊ぶ女の子

「どうされました?」

駐車場に車を停めようと、車止めのフェンスをどかしていた私に、近くのお宅からおじいさんが出てこられました。

「遺族会の冊子を読みまして、ぜひ手を合わせたいと思ってやってきました」

私が住んでいる街を伝えると、「わざわざ遠くからご苦労様」とねぎらっていただき、自分は遺族会の人間ではないので分かる範囲になるけれど、とおっしゃりながら忠霊堂の説明をしてくださいました。

この小田山忠霊堂は福島県の施設であり、遺族会が委託を受けて管理を行っていること。
忠霊堂内には1万8,000もの戦没者の御遺骨などが納められていること。
御遺骨とはいいつつも、壺の中には紙切れしか入っていないものもあること。
堂外には日清戦争や日露戦争などの忠魂碑があること。

穏やかな雰囲気で話すおじいさんは、口調に似合わないジャージ姿。
その不思議な違和感に心のなかで首をかしげていると、おじいさんも気が付いたのでしょう、

「実は、さっきまでここ(忠霊堂)の草刈りをしていまして」

ご自身のラフな格好について、少し恥ずかしそうに話されました。

「今日は天気が良かったから暑かったでしょう、草刈り」

「ええ、5時間かかりました」

「ごじかん!?」

5時間という時間にも驚きましたが、その草刈り、おじいさんの御厚意で行っているそうです。
私なら、お金をいただいたとしても1時間ですら作業していられません。

「自分の庭だけ綺麗にしていても、と思い、草刈り機で時々草を払っているんですよ。近所に住んでますしね」
「そうなんですか・・・」

おじいさんのボランティア精神に胸が熱くなり、言葉にすることができませんでした。

感謝の祈りと忠霊堂のこれから

おじいさんに送り出され、私は堂外に建てられた碑ひとつひとつにお参りすることにしました。
歴史を重ねたものはさすがに古く苔むしていて、日露戦争の忠魂碑は文字が読み取れないほど古く、石が崩れている箇所も。

  • 日露戦争の忠魂碑
    日露戦争の忠魂碑
  • 忠魂碑にはお花の代わりに赤べこの石が
    忠魂碑にはお花の代わりに赤べこの石が

また、ところどころ切り株があるのですが、先ほどのおじいさんがおっしゃるには「以前は松が植えられていたものの、葉っぱが落ちて片付けが大変なので伐採した」とのことです。
肝心の忠霊堂は、管理を行っている遺族会の方が月曜・水曜にしかいらっしゃらないとのことで中に入ることはできず、外から手を合わせました。
(無事に伺うことができました・・・!ありがとうございます)
(どうか安らかにお眠りください)
閉じられたシャッター越しのお参りでしたが、少しは気持ちを届けられたかなと思います。

供養塔の後ろには、ガダルカナルでの突撃時刻を差した「想い出の塔」
供養塔の後ろには、ガダルカナルでの突撃時刻を差した
「想い出の塔」

「遺族会の方もね、皆さん80歳を超えているんですよ」

お参りを終え帰り支度をしていると、再びおじいさんがお宅からやってきて話しかけてくださいました。

「それじゃあ、草刈りもなかなか出来ないですよね・・・」
「地元の婦人会の方が月に2回ほど来て草むしりしてくれるんですけどね」
「夏場なんて雑草がすぐに伸びてしまって、月に2回じゃあ間に合わないですね」

そう言いながらも、ふと、疑問に思ったことをおじいさんに伝えてみました。

「大変失礼ですが、おじいさんはお幾つなんですか?」
「私?75歳です」
「えっ、それで5時間も草刈りを?お若いですねーー!」

私の拙い誉め言葉がお世辞に聞こえてしまったのか、それには何も答えず、おじいさんは忠霊堂を眺めながら言いました。

「各地の遺族会も、高齢化で継続が大変らしいですよ」
「ニュースで見たことがあります」

北陸のとある慰霊碑が、遺族の高齢化で管理できなくなり撤去されたというニュースを目にしたことがありました。

「ずっと、続くといいですね」

忠霊堂の階段では、先ほど見かけた幼い女の子が、お母さん・おばあちゃんと手をつないで遊んでいました。
明るくはしゃぐ声に、微笑ましさと、もどかしさがごちゃまぜになりました。

地域に溶け込む忠霊堂
地域に溶け込む忠霊堂

次は月曜日か水曜日にいらしてください、というおじいさんの言葉を背に、帰路につきました。
帰宅したのちに地元テレビ局のホームページで調べてみると、この小田山忠霊堂では、遺族会の高齢化のため終戦の日の慰霊祭も取りやめているとのこと。会員は年々減っているとのことでした。
県の施設なので完全に廃れてしまうということはないと思います。
ですが、もしもあのおじいさんが御厚意を続けることが難しくなったら・・・遺族会の継続が難しくなったら・・・と思うと、何とも言えない気持ちになります。

冒頭にお伝えした話題ではありませんが、場所にもご縁があるのだとすると、この忠霊堂や忠魂碑は1万8,000もの戦没者と、その遺族の方たちの思いを一身に受け止めてきた、地域にとって大切な場所と言えます。
もしも忠魂碑のように思いを向ける場所がなくなってしまったら、その思いはどこに行ってしまうのだろう?消えてしまうのだろうか?
忠霊堂で見かけた幼い女の子が小学生になって、このお堂の歴史を学ぶこととなるまでは、せめてこのままであって欲しい、できればもっと、ずっと長く。

そんなことを考えました。

最後に

「漠然としか知らないこの街の歴史をより深く知りたい」、そんな思いで図書館に足を踏み入れた結果、思わぬ経験を積むことができました。
また、日本で生きている以上、「街の歴史」には戦争の記憶がついて回るものだとも気付きました。
学校での歴史の授業はどうしても縄文時代から現代に向かっていくので、戦争のあたりになると学年末となり駆け足となってしまうので、きちんと学ぶ機会もありませんでした。
ですが、今回の経験により、どこかの街で「慰霊碑」「忠魂碑」を見かけるたびに、日本にはかつて戦争があったこと、そしてあのおじいさんとの出会いを思い出すこととなりそうです。

また、遺族会の高齢化により、この小田山忠霊堂だけではなく、全国各地の慰霊碑などの管理がますます難しくなっていくと思われます。
安全のために撤去したほうがよい、自治体に管理をお願いしたほうがよい、など様々な意見や考え方があると思います。
その在り方について、私は知識を持ち合わせていないのでどうしたら良いのか分かりませんが、せめて、ご縁があって旅先などで慰霊碑を見かけた際には、手を合わせて、無事に過ごせていることへの感謝をお伝えし、戦没者の皆さまが安らかにお眠りいただくこと、その地が穏やかであることを願おうと思います。

あなたの街では慰霊碑を見かけたことはありますか?
何気なく建っていたとしても、もしかしたら、その土地ならではの歴史や、今回、私が経験したような背景がその碑にはあるのかもしれません。
もしよろしければ、その慰霊碑の歴史や背景に思いを向けてみてはいかがでしょうか。

  • 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
    最後までお付き合いくださり、
    ありがとうございました!
参考資料

・いそとせ 戦後五十周年記念 戦時体験集(財団法人 福島県遺族会) ・福島県史 第15巻(福島県) ・「会津若松市の小田山忠霊堂で戦没者を慰霊」(福島中央テレビニュース)