
記憶のバトンを次の世代へ
~丹賀砲台と忠魂之碑を訪ねて~

1.はじめに
第二次世界大戦が終戦し、今年の夏で78年目を迎えますね。
それでも、今でもこの戦争に対する評価は、それぞれの立ち位置によって大きく異なり、なかなか一致を見ないように思います。
先日も、岸田首相が靖国神社の春の例大祭に合わせて真榊を奉納したことがニュースで取り上げられていました。国家と靖国神社の関係については、従来から政治的・司法的な議論がなされているので、注視されている方も多いでしょう。
しかし、一方で、地域社会における戦没者慰霊の研究や書物は非常に少ないように感じます。
今回の特集では、多種多様な慰霊碑について考察した後に、私の地元・大分県佐伯市にある戦争遺構と慰霊碑についてご紹介したいと思います。
2.慰霊碑の系譜
「日本において最も有名な慰霊碑は?」と問われれば、多くの人が広島の「原爆死没者慰霊碑」を思い浮かべるのではないでしょうか。 石に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」というフレーズは、あまりに有名で、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。 長崎の平和公園にある「平和記念像」も有名ですね。独特のポーズをとった像ですが、天を指した右手は「原爆の脅威」を、水平に伸ばした左手は「平和」を、固く閉じられた瞼は、「原爆犠牲者の冥福を祈る」という想いを込められています。九州の小学生は、長崎の平和公園を修学旅行で訪れることも多いです。 特攻隊の基地があったことで知られている知覧には、「知覧特攻平和会館」があります。付近には、「特攻平和観音堂」があり、毎年五月三日に慰霊祭が執り行われています。また、2022年8月には長嶋一茂氏からの申し出と寄付により、知覧平和公園に「平和の噴水」が完成したそうです。 有名な慰霊碑を列挙しましたが、あまり知られていないもの、地域に溶け込んでいて、普段はあまり意識していないものもあるかもしれませんね。 実は、私の地元、大分県佐伯市にも、忠魂碑(慈眼視衆生)が存在します。母校・佐伯鶴城高校の駐輪場横にあるため、高校時代は毎日、目にしていたはずなのですが、恥ずかしながら手を合わせたことはありませんでした。 しかし、今年の2月、久しぶりに帰省した際に訪れてみると、観音様の元には、綺麗な花が手向けられていたのです! この観音様は、日清・日露戦争の戦死者を弔ったものだと母から聞きました。さすがに、日清・日露戦争ともなれば、直接の戦争経験者はこの世にいないでしょうから、お花を手向けていたのは、ご遺族の方なのでしょうか。 そもそも、この観音様を誰が管理しているのか(お寺さんなのか、遺族会なのか、聞いたことがありません)、耐震工事などもしているのか、気になりました。佐伯市役所に問合せてみましたが、回答は得られませんでした。 戦争死者の慰霊のために建立された「慰霊碑」は、全国各地に存在し、「忠魂碑」「忠霊塔」「招魂碑」等、様々な名称で呼ばれているようです。 慰霊碑の建立の母体や動機、様式は把握しきれないほど、多種多様ですが、おそらくその要因は、一口に「戦争死者」と括っても、その死の原因が一つではないからではないかと思います。主なものを挙げてみます。(注1)
・地域社会における戦争死者の慰霊碑 ・護国神社境内に建立されている戦闘部隊の慰霊碑 ・出撃基地などに建立されている記念碑・慰霊碑 ・空襲等による戦没者慰霊碑 ・沖縄県糸満市に集中的に建立されている、各府県単位の慰霊碑 ・海外で激戦が行われた地域に建立されている慰霊碑
以上のように分類していくと、戦死者を慰霊する施設の多くが、国家や靖国神社という枠組みから離れ、各地域で自主的に作られたものだと感じます。
3.佐伯市と佐伯海軍航空隊
「かつて軍港として栄えた街は?」と問われれば、きっと多くの人は呉や横須賀、佐世保、舞鶴を挙げるでしょう。これらの都市は、旧海軍の鎮守府として島国である日本の周辺海域を防備していました。四都市は、今でも海上自衛隊の基地があることで広く認知されています。
一方で、今ではあまり知られてはいませんが、太平洋戦争において重要な役割を果たした街があります。それが、私の生まれ故郷・大分県佐伯市です。
佐伯は、昭和6年(1931)2月の町議会において、海軍航空隊の誘致を満場一致で決定しました。翌年には佐伯航空隊建設のための工事が始まり、昭和12年(1937)、佐伯海軍航空隊が開隊しました。
佐伯は、もともと「佐伯の殿様、浦で持つ」と言われていたほど、海の幸が豊富です。それは、リアス式海岸と呼ばれる、複雑な地形による恵みでしたが、日本海軍はここに目を付けました。
佐伯は、ハワイの真珠湾に入り江の形が似ていたことから、大規模な軍事演習が繰り返され、山本五十六も視察に訪れています。
実際に、昭和16(1941)年11月18日、真珠湾攻撃に向かう艦隊は、佐伯から出撃し、北海道択捉島の単冠湾に集結後、ハワイへ進撃しました。
今では、佐伯海軍航空隊兵舎の跡地に、佐伯市平和祈念館やわらぎが開館しており、軍都であった佐伯市の歴史を学ぶことができます。また、平和祈念館の近くには「連合艦隊機動部隊真珠湾攻撃発進之地」の記念碑が建てられています。
4.戦争遺構「丹賀砲台園地」と忠魂之碑
上記のように、佐伯市内には今でも様々な慰霊碑や戦争遺構が残されています。
私は小学校から高校を卒業するまで、地元の公立校に通っていたので、郷土の歴史について、一通りは知っているつもりでした。
しかし、今回の特集記事作成にあたって、より深く情報収集をしたところ、珍しい戦争遺構が残されていることを知りました。それが、丹賀砲台園地です。
① 丹賀砲台の歴史
丹賀砲台園地は、その名の通り、砲台の跡地です。
昭和2(1927)年6月に起工し、4年の歳月をかけて構築された丹賀砲台は、豊後水道一帯を守る要塞として重要な役割を果たしました。
しかし、昭和17(1942)年1月11日、戦闘に備えて実弾による試射を行った際に、最後の一発が砲身の中で爆発しました。右砲身は折れ、砲塔は大破、約200メートル離れた集落までも鉄片等が飛び散ったそうです。砲台から離れていた場所にいた兵士も吹き飛び、16人が死亡、28人が重軽傷を負いました。
② 丹賀砲台へのアクセス
丹賀砲台は、佐伯市内から車を40分~50分ほど走らせた、鶴見という場所にあります。
佐伯から鶴見へと続く海岸線の道は、非常にくねくねしています。この記事をお読みになって、行ってみようと思われた方は、先に酔い止めを飲んでおかれることを推奨します。
佐伯市内から離れるにつれて「この先に、人が住んでいるのかな?」と不安になってくるような道路状況ですが、車とはすれ違います。コミュニティバスも、しっかりと走っていました。
③ 戦争遺構「丹賀砲台園地」を訪れて
丹賀砲台については、インターネットで検索すると、訪れた方による写真が沢山アップされています。しかし、写真を見てみても「いったい、中はどうなっているの?」と上手くイメージできずにおりました。
「砲台というからには、山の頂上に設置されているのだろう」くらいには思っていましたが、実際には、山をくり抜いているのです。砲台なので、敵に見えないような構造になっているのです。
入園料を支払った後に、管理人の方に案内してもらい、砲塔井へ行くためのリフトに乗ることができます。
このリフトは後付けで、兵隊さんたちは、急勾配の階段を上り下りしていたそうです。どのくらいの勾配かと言うと、最大傾斜角度は45度、階段は、160段以上もあるそうです。
そこから更に、中央にある螺旋階段を上ると、コンクリートに刻まれた爆発事故の痕跡を見ることができます。屋外に出ると、一瞬、日差しの強さに目が眩みました。
外は、展望公園になっていて、晴れた日には佐伯湾を望むことができます。
素晴らしい景色を見ていると、悲しみの記憶など、別世界のことのように思えてなりません。
しかし、実際には、81年前、この地を揺るがした出来事なのです。
④ 忠魂之碑と平和の塔
爆発事故で亡くなったのは、内藤中佐以下16名。
当時は戦死ではなく事故死と判断を下されて、何の補償もなかったと言います。砲台は結局、一度も実践には使用されませんでした。
丹賀砲台園地には、その16名の名前を彫った忠魂碑があります。忠魂碑は、生き残った兵士たちが遺品を集めて、建立したものだそうです。
石碑の前には、当時の実弾が飾られていました。
隣接して、太平洋戦争で亡くなった旧鶴見町の人々465名の名前が刻まれた平和の塔があります。
丹賀砲台には終戦直後、金属回収業者が押しかけ、鉄材を根こそぎ持ち去ったそうです。
事故の記憶は薄れて行っていたところ、平成3(1991)年2月に、砲塔部分にドーム型の屋根を作り、観光施設として整備したとのことでした。
施設は何度か、閉鎖されていた時期もあったようですが「後世に残すべきだ」という地元の声もあり、今は再開されています。
5.戦争の記憶と歴史
終戦から78年を迎えようとしている今、戦争経験者はどんどん減少しています。慰霊碑などの老朽化が叫ばれ、今後は、維持や管理が困難になってくるものも増えていくことが予測されます。
後世に生きる私たちは、この事実にどう向き合うべきなのでしょうか。
ともすれば、お金の話になります。国や自治体が支援するべきだ、という声もありますが、お金さえあれば、充分なのでしょうか。
展示パネルの中に、幸いにも一命を取り留めた方の言葉がありました(注2)。
「惨めだった。死者の名誉のために今まで言わんできたが武器を扱う者の宿命かもしれん。やはり伝えなければいけないことだが、悲しい」
事故から61年が経過した際の証言に、私はふと胸を突かれる思いがしました。
先にも書きましたが、丹賀砲台の死者は戦死ではなく事故死とされました。当時は、軍のことなど、悪く言えない時代だったのです。そして、終戦後は終戦後でまた、言えなかったのでしょう。
この事実は示唆に富んでいるように感じます。私は、戦争の記憶は、流動的なものだと思います。その時代、時の政治、メディア等、あらゆる事象によって影響を受けるからです。同じ人の記憶であっても、時代によって過去の見方は変わるでしょう。
一方で、共通の記憶が人々の結びつきを強固なものにしてきたことも事実です。
私たちは記憶を受け継いでいくだけでは、足りないのだと思います。「記憶」と「歴史」の二つの視点が必要なのです。私たちは注意深く「記憶」に思いを馳せ、「歴史」を学ばなければなりません。
流されないこと。怯まないこと。自分の頭と良心でよく考えること。
歴史に対する評価は一つではありませんが、自分の意見を持つことがより重要な時代になってくるのではないでしょうか。
戦争遺構「丹賀砲台」と慰霊碑を訪ねて、私はその思いを強くしました。
6.終わりに
私が子供の頃、佐伯市では、毎年8月6日は毎年登校日と決まっていました。8月6日は、8時までには着席していないといけませんでした。教室に集まって、全員で黙とうをするためです。8月9日も、8月15日も、市内では必ずサイレンが流れていました。私は何をしていても、その時間だけは、手を合わせました。
また、夏になると「戦争経験者の話を聞いてくる」という宿題を学校からよくもらいました。今は亡き私の祖父も戦争経験者だったので、私は祖父から話を聞きました。
口数は多くなかったですが、祖父は晩年、戦地に赴いた夜のことなど、思い起こすように書き記していました。今でも、その手記の一つと写真は、祖母の家の応接間に飾られています。
しかし、戦争の経験者から話を聞く機会は今後、ますます減少していくでしょう。私の娘が大きくなったころ、戦争の話を体験者から直接聞く機会はもうないかもしれません。だからこそ、私は記憶を繋いでいきたいと思います。それが、私たちの世代の使命ではないかと思うからです。
最後になりますが、美しい鶴見の見晴らしにインスパイアされて、二篇の詩を作ってみたので、ここに記したいと思います。
-
海へ
吐く息が白かった
ある霜月の朝
海は あの人を連れて行った
遠く 深い森の奥地へと幼子を抱えた私に
何ができたと言うのだろう
私は追うことも すがることも
死ぬこともできずに
ただ 海を眺めていた
高揚する人だかりの中で曲がりくねった坂道を駆け上る
見慣れた稜線の向こう側に
いつか あの人と見た海が 見える
すきとおるほど 青い
静かな 私たちの好きな海だお願いだから 海よ、
あの人を返して下さい
私の好きなあの人を返して下さい誰もいなくなった灯台で
私は今日も祈りを捧げる -
祈り
久しぶりの夢を見た
遙かな隔たりにも阻まれず
あの人に 呼ばれたような気がしていた幾千の夜が 闇に消えただろう
幾億の言葉が 波に呑まれただろうあの人を待っていた
その記憶もまた、
いつか 泡となって消えていくのだろうかでも今 私には見える
あなたは 光のつぶつぶになって
海に降り注いでいるのでしょう
私のすぐそばで誰もいなくなった灯台で
私は一人
忘れたことの 許しを祈ったあの日と同じように
ただ 海を眺めながら
注釈
1)孝本貢「戦後地域社会における戦争死者慰霊祭祀 慰霊碑等の建立・祭祀についての事例研究」村上興匡・西村明編「慰霊の系譜」森話社
2)2001年8月20日 毎日新聞朝刊 丹賀砲台展示パネル