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執筆者:マルハナバチ
戦没者を弔う慰霊碑等の特集

記憶を受け継ぐ手
~愛知県戦没者慰霊碑の今~

執筆者:マルハナバチ
執筆者:マルハナバチ
愛知県の慰霊碑の一つ、中之院軍人像
愛知県の慰霊碑の一つ、中之院軍人像

こんにちは!今回ばかりは大真面目、主婦ライターのマルハナバチです。
戦没者慰霊碑特集、今回は私が生まれ育った愛知県の現状をお伝えします。

1.愛知県の戦没者慰霊碑 2.受け継がれる記憶、平和地蔵尊 3.行く末いずこ、平和観音像 4.未来を見据えるまなざし、中之院軍人像 5.想いを受け継ぐ手

  • 愛知護国神社にある、第三師団の慰霊碑
    愛知護国神社にある、
    第三師団の慰霊碑
  • 戦艦大和慰霊碑。白いものは大和主砲の実弾
    戦艦大和慰霊碑。
    白いものは大和主砲の実弾

1.愛知県の戦没者慰霊碑

太平洋戦争での愛知県出身者の戦没者数は約10万人。
空襲での死者も1万3,000人にのぼると言われます。

 “名古屋は工業都市であり、三菱重工業名古屋発動機、同名古屋航空機、愛知航空機、愛知時計電機、陸軍造兵廠、住友金属工業、大同製鋼、神戸製鋼、日本車輌製造、名古屋造船、岡本工業、大隈鉄工等、多くの工場が立地していた。
 また、名古屋は航空機産業のメッカであり、とりわけ航空機生産の最大拠点である三菱重工業名古屋発動機は、東京の中島飛行機武蔵野工場とともに、米軍の日本本土空襲の第一目標であり、繰り返し目標爆撃の対象となった。”
(総務省HP 名古屋市における戦災の状況 より)

それだけに戦没者慰霊碑は多く、名古屋市だけで200以上存在します。(日清日露戦争の忠魂碑含む)
しかし高齢化も進む中、愛知県遺族会の人数は令和4年の時点で1万4,996名。
10年前の平成25年の2万9,192名の半数近くです。
それに伴い、他の地域と同じく戦没者慰霊碑の老朽化による管理問題も顕著になってきています。

  • 所属部隊ごとに並ぶ慰霊碑。胸が痛む
    所属部隊ごとに並ぶ慰霊碑。胸が痛む

国も、総務省の民間建立慰霊碑等管理促進事業として、令和5年度の予算案で5,400万円を確保しています。
①建立者、管理者が不明であるもの
②倒壊の危険があり、住民に危険を及ぼす可能性のあるもの
これらの条件を満たす慰霊碑について、自治体が移設や撤去を行う場合、費用の2分の1を負担する、という制度です。(上限50万円)
愛知県での実施例では、小牧市が撤去した慰霊碑6基のうち2基が対象となりましたが、市が負担した撤去費用は約340万円。
この数字だけでも、制度の対象になるハードルが高く、自治体の負担が大きいことがわかりますね。
今回の取材では、実際に慰霊碑の管理問題が浮き彫りになっている場所を訪れました。

2.受け継がれる記憶、平和地蔵尊

まず、私が訪れたのは名古屋市熱田区。
名古屋市内は、戦時中に第三師団の司令部が置かれ軍需工場も多く、実に63回もの空襲を受けました。
使用された投下弾は、判明している分だけでも1万4,500tを越えるといいます。
工場のある市街地はもちろん、旧国宝名古屋城、源頼朝の生誕の地である誓願寺も焼失、名古屋は文字通りの焼け野原となりました。

熱田区には、爆撃機の設計製造を担う愛知時計電機と愛知航空機の工場があり、そこを狙った熱田空襲によって動員学徒と近隣住民約2,000人が亡くなっています。
もともと、江戸時代に木工や金具職人が集まり、明治に時計を製造する会社として興った企業が時の流れによって軍からの発注をうけることとなり、戦争に巻き込まれていったのです。

ここには今でも愛知時計電機の本社が建っており、正門前には平和地蔵尊があります。
建立は昭和24年。
以来、遺族や近隣の方も参列して慰霊の法要が行われていたということです。
そして、こんな張り紙も。

  • 愛知時計電機本社正門前の平和地蔵尊
    愛知時計電機本社正門前の
    平和地蔵尊
  • 時流の変遷を感じさせる張り紙
    時流の変遷を感じさせる
    張り紙

今年度から慰霊式典は会社行事として行う旨の通知です。
ご遺族も高齢になり、コロナ禍前でも参列されるのは数十人になっていたとのことなので、少しずつ規模が縮小されていくのでしょうか。

そして、ここにはもう1か所、平和地蔵尊があります。
地蔵尊の背中には、空襲の犠牲となった方々の冥福を祈り平和を祈念する、と刻まれています。
建立は昭和33年。建立者には廣小路徳風會と一般有志者とあります。
正門前の平和地蔵尊と同じく、総務省HPに一般戦災死没者の追悼施設として載っているのですが、連絡先は不明となっており、他で調べてもそれ以上の情報は得られませんでした。

もう一つの平和地蔵尊。後ろが愛知時計電機本社
もう一つの平和地蔵尊。後ろが愛知時計電機本社

愛知時計電機に問い合わせてみたところ、こちらの地蔵尊の現在の管理者は把握していないものの、慰霊祭の日には供花を出しています、という回答を頂きました。
千羽鶴や手向けられた花を見ていると、今もご近所の方やご遺族が掃除などをされているようですが、いざ修復や移設等が必要となった時どうなるのでしょうか。
2体の平和地蔵尊が、この地に根付く企業とともに、これからもその記憶を刻み続けていくことを祈ります。

3.行く末いずこ、平和観音像

慰霊碑の中には、引き継いでくれる存在がなく、国の管理事業制度の利用すらできない例もあります。
そのひとつ、愛知県南知多町の平和観音像。
それは知多四国霊場第四十五番、泉蔵院の敷地内にあります。

小高い山の上に建つ泉蔵院はこじんまりとしたお寺で、平和観音像はその通用門の脇に伸びる狭い石段の上にあります。
先に泉蔵院にお参りし、お寺の方に平和観音像について伺うと、
「お参りできるかわかりませんよ。もう来る人もなくて、草がぼうぼうに伸びているので…」
ということでしたが、せめてひと目だけでもと向かいます。

  • 手すりを持たないと昇るのも怖い階段
    手すりを持たないと昇るのも怖い階段
  • 石段にもツワブキの葉が茂る
    石段にもツワブキの葉が茂る

平和観音は、泉蔵院の敷地を借りる形で、南知多町の内海遺族会が建立しました。
その遺族会は、高齢化によって2022年3月に解散しています。
令和4年6月15日の町議会議事録を見ると、残された慰霊碑の管理についての質問に対して、
『南知多町遺族会など、町を含めて各関係機関と話し合いを持って決めていくことが必要であると考えています』
という厚生部長の答弁と、ただちに倒壊する危険がないため、国の管理事業制度を利用することが難しい、という県からの回答があったことが記されています。

南知多町の公式によれば、令和5年4月末時点の人口は1万6,150人。(外国人含む)
日本医師会の地域医療情報システムJMAPによると、高齢化率は全国平均を大きく上回る38.8%。
過疎高齢化に悩む地方自治体のひとつであり、日本の縮図のようでもあります。

平和観音像への階段は細く、手すりがあるものの高齢の方には行くのも大変でしょう。
石段が終わると小さな広場があり、奥の木陰に平和観音像は建っていました。
広場は荒れていますが、有志の方がおられるのか、伐採された木の枝が積まれています。

管理者を失い、行く末が危ぶまれる平和観音
管理者を失い、行く末が危ぶまれる平和観音

観音像には碑文がなく、建立についての詳しい事情も知ることはできません。
よく見ると台座にひびが入っており、このまま進めばやがて倒壊してしまうでしょう。

  • ただそこで、静かな微笑みをたたえている
    ただそこで、静かな微笑みをたたえている

当初は観音像が見つめていたはずの海も、今は伸びている木立の隙間からわずかに見えるばかり。
戦争で失われた命を悼んで造られた観音像が、100年経たずに見捨てられてしまうのか。
この先が非常に気がかりです。

4.未来を見据えるまなざし、中之院軍人像

同じ南知多町の中之院にも、慰霊軍人像があるということで足を伸ばしました。
尾張高野山として天台宗から独立した岩屋寺からほど近い、中之院。
そこにたくさんの軍人の像が立ち並んでいるのです。
手前側は台座のないもの、奥の方の像はみな、台座の上に建っています。

ひとりひとり顔立ちが違う軍人像
ひとりひとり顔立ちが違う軍人像

この違いはなんでしょうか。
立て札によれば、これらの軍人像のほとんどが昭和12年の上海上陸作戦に駆り出された名古屋第三師団の少年兵であるとのこと。
『緊急の出動で名古屋城内の兵営より夜間13キロの徒歩での行軍のすえ、野間沖に停泊した巡洋艦・駆逐艦に乗りわずか26時間で揚子江河口付近から敵前上陸し、半月足らずでほとんど全滅した』
と立て札は語ります。
その数、実に68基。

台座に刻まれた、彼らの短い人生
台座に刻まれた、彼らの短い人生

これらの軍人像は、遺族が故人の写真をもとに昭和12年から18年の間に造らせたもの。
彼らの戦死への一時見舞金を充てての建立だったそうです。
台座のひとつひとつに名前と、彼らの短い人生が刻まれています。
その中でなんとか読みとれたものを原文のまま引用します。(○は風化により判読不能な文字)

『昭和五年 名古屋中学校卒業
昭和九年三月 同志社大學髙商部卒業
同年十二月 歩兵第六聯隊ニ入○○満州派遣
匪賊討伐二参加 兵功ニヨリ勲八等ヲ賜ル
昭和十一年五月 凱旋除隊 昭和十二年八月応召出征ス
昭和十二年九月七日上海呉淞鉄道倉庫附近
○○浦二於テ戦死ス 享年二十五才』

この方は、陸軍歩兵伍長。台座がある軍人像は下士官階級の人たちなのかもしれません。
とすれば、左の台座のない像が少年兵たちのものでしょう。
最後の年はみな昭和12年。
無謀な敵前上陸作戦で、この68名の命は奪われたのです。

立て札には、建立後のことも語られています。
戦後に進駐軍がこれらの軍人像の取り壊しを命じた際のこと。ある僧侶が、
『国の為に死ぬということは日本でもアメリカでも変わりはない。日本人の手であれを壊すことはできない。どうしても壊すというなら、我々を銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろう』
と強く抵抗し、そのおかげで破壊を免れたとあります。

軍人像は、名古屋市千種区の日泰寺の軍人墓地からここに移転されました。
進駐軍の命令を拒んだ勇気ある僧侶は、日泰寺の方かもしれませんね。
若くして戦死した彼らを悼む人々がいたからこそ、この軍人像たちはこうして今ここに佇んでいるのです。
彼らは無言で何を見つめているのでしょうか。 それは、この国の行く末かもしれません。

5.まとめ 記憶を受け継ぐ手

個人的な話になりますが、私の祖父は33歳で戦死しています。
遺骨すら戻らず、祖母は女手一つで苦労して父を育てました。
夫の祖父は、戦地で頭に銃弾を受けた直後に終戦を迎え、治療を受け生還しました。
しかし時は経ち、私の祖母と父は既に亡く、夫の祖父も鬼籍に入っています。

人の記憶も、それを形にした慰霊碑も、引き継ぐ人がいなければやがて失われてゆきます。
次の世代から伸ばされる手が必要なのです。

2023年3月7日の名古屋市議会で、空襲で名古屋城が炎上した5月14日を『慰霊の日』に制定することを、名古屋市長が提案しました。
これは、名古屋市名東区の東邦高校生徒会が中心となって提出された請願を受けての動きです。
東邦高校の前身は、東邦商業学校。
戦時中は三菱名古屋発動機製作所大幸工場に勤労動員されており、空襲で生徒と教師22人が犠牲となっています。
毎年、犠牲となった19回卒業生の同期会を迎え『東邦学園慰霊の日』として式典を行っており、そこから生まれた取り組みなのです。
このように、記憶を受け継ぐ手がこれからも次々と挙がっていきますように。
私自身も、自分に何ができるか考えようと思います。

いかがでしたでしょうか。
ウクライナの今の状況をみてもわかるように、戦争は今でも身近にあります。
過去のことではなく未来に続いていくものとして、私たちは平和について考え続けなければなりません。
各地に建つ戦没者慰霊碑が、この国の行く末を見守っています。