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執筆者:マルハナバチ
灌仏会・花まつり特集

真舎利眠る、日泰寺
 ~花まつりによせて~

執筆者:マルハナバチ
執筆者:マルハナバチ

こんにちは!座右の銘は花より団子、主婦ライターのマルハナバチです。
いよいよ春本番、4月8日は花まつり。
今回は花まつりにちなみ、お釈迦様の生涯とそれにまつわるお寺をご紹介します。

1.まず、花まつりとは

仏陀生誕を祝う花祭り ※画像はイメージです
仏陀生誕を祝う花祭り
(※画像はイメージです)

花まつりの正式名称は、潅仏会(かんぶつえ)。
他にも、降誕会(ごうたんえ)、花会式(はなえしき)、浴仏会(よくぶつえ)などと呼ばれます。
一言でいえば、お釈迦様の誕生日をお祝いする儀式。
花まつりという名称は、実は20世紀に入ってからなんですって!

花まつりでは、花御堂(はなみどう)に収められた、童子姿の仏像(誕生仏)に甘茶をかけます。 幼稚園などで参加したことがあるよ、という方もいらっしゃるでしょう。

お釈迦様は生まれてすぐに七歩あるき、右手で天を、左手で大地を指し『天上天下唯我独尊』と言ったと伝えられていることは、ご存じの方も多いはず。
そこに龍神が現れ、甘露の雨を注いでお釈迦様の体を清め、誕生を祝ったと言われています。
花祭りで誕生仏に甘茶をかけるのは、その光景を再現しているのです。

潅仏会が行われるのは、4月8日。
旧暦なので、今の暦でいうと5月8日にあたり、日本でも4月に行うお寺と5月に行うお寺に分かれます。
最古の潅仏会は、なんと1300年前。

“聖徳太子存命中の推古14年(606年)に飛鳥の元興寺で、わが国最初の釈迦生誕祭として、『潅仏会』が執行されている”
(遠藤滋 『花まつり』 ~『仏教行事歳時記 4月花祭り』第一法規出版より)

この元興寺は、鬼の特集で取り上げた奈良市の元興寺ではなく、その前身である移転前の法興寺(現在の飛鳥寺)。
蘇我馬子が建立した最古の仏寺です。
その頃の潅仏会で誕生仏に注がれたのは、五種の香水(こうずい)でした。
香水とは、仏事に使われる伽羅や白檀などの香木を浸した水。
それが甘茶に代わっていったのは、江戸時代ごろと言われています。
甘茶は、ヤマアジサイの一変種であるアマチャから作られ、昔から体に良いとして飲まれてきました。
虫よけにもなるとの信じられ、アマチャを摺って卯月八日の歌を紙に書き、家の戸口に逆さまに吊るせば長虫(蛇)避けになる、または蛆虫の発生を防ぐ、などとされ、花まつりにそういったものを作る風習もあったようです。

だんだん、お釈迦様から離れた話になってきましたね。
これには理由があるのです。
仏教の、比較的新しくできた宗派にとって信徒の獲得は非常に大きな命題でした。
どうやって教えを広め、信徒を獲得するか。

  • 蕾がほころび始めている日泰寺の桜
    蕾がほころび始めている日泰寺の桜

“花まつりの風俗化は、浄土宗と浄土真宗の門徒拡大運動と関係がある。
(中略) 教えの大衆化と平俗化によって、ついには江戸の中心地、日本橋茅場町(東京都中央区)の薬師のように一日で八十石(約十四・四キロリットル)の甘茶を配るような人手を招くようになった”

(同上)

幅広い層に教えを広め、信徒を獲得していくには、誰にでも取り入れやすい形にする必要があります。
そして、『生活の中での楽しみ』となるようなものを織り込むのが一番。
キリスト教がその版図を広げる上で、自然信仰に端を発する冬至の祭りをクリスマスとして取り込んでいったのと同じです。
仏教でも、その地方の人々の暮らしに密着したものになっていく必要がありました。
花まつりでお参りにきた人に甘茶を振る舞うことが、信徒獲得のプロモーションとなったということでしょうか。 しかも、お釈迦様の誕生の際に降り注いだ甘露と、甘茶のイメージがうまく重なっていますよね。

もともと、5月は農耕社会にとって田植えという大きな作業が始まる時期。
これから始まる田植えへの景気づけをかねて、この時期に山に入って山の神の力の現れであるシャクナゲやツツジなどの花々を堪能し、また、持ち帰って稲の豊作を祈る風習が各地にありました。
アマチャで作る虫除けのまじないもまた、その頃から活発になる蛇や虫の害を防ぐ生活の知恵だったのかもしれません。
そういったことが、だんだんと潅仏会に結びついていったのでしょう。

  • 5月に咲くシャクナゲの花
    5月に咲くシャクナゲの花

お釈迦様の誕生と、次々と花が咲き生命に満ちていく季節の訪れ。
ふたつの喜びのイメージが見事に重なり、今でも親しまれる日本独特の花まつりとなっていった…。
なんとも趣深く、人々の営みが愛おしく感じられる話ではありませんか。

2.人間としての仏陀の功績を想う

日泰寺の山門
日泰寺の山門

さて今度は、仏教という一大宗教をひらいたお釈迦様の人生にふれてみましょう。
本名は、ゴータマ・シッダールタ(またはシッダッタ)。
しかし、『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(馬場紀寿著 岩波新書)によれば、お釈迦様の個人名は初期の仏典には存在していないといいます。
また、シッダールタは『目覚めた人』という意味であること等から、後からつけられたものであり本名ではないという説も。

彼の人生を略年表にすると、このようになります。
・紀元前5世紀ごろ、釈迦族の王子として生まれる ・29歳 善を求め出家、師を変えながら修行を積む ・35歳 苦行によって悟りを得ることはできないと知り、菩提樹の下で座禅、悟りを得る ・80歳 喜捨された食事により食中毒、クシナガラで没

お釈迦様は悟りを開いたのち、45年を通して人々に仏道を説きました。
彼が説いた仏教の本質は、哲学とも呼べるもの。
唯一神の存在も創世神話もなく、ひたすらに輪廻からの解脱を目指し、生活の全てを捧げる非常にストイックなものです。
その頃の社会を支配していたバラモン教では、身分制度や性差別により、女性や隷属民が教典を教わることはできませんでした。(そして、現代でも差別は依然として残っています)
しかし、二千数百年前の時点で既に、お釈迦様は身分制度を否定し、隷属民の出身であるウパーリを出家順に扱い、自らの従弟(つまり王族)の兄弟子としています。
また女性の出家も認め、男性信者と平等に扱ったのです。
これらは、当時としては本当に驚くべきことだったでしょう。
そうして、お釈迦様は社会の価値観を覆しながら、在家信者からの寄進や托鉢によってのみ衣食を得て、80歳で亡くなるまで仏道を実践したのです。
宗教家というより、徹底的な実践哲学者という表現の方が、彼の本質に近いといって差し支えないでしょう。

  • 日泰寺の五重塔
    日泰寺の五重塔

お釈迦様の死後、彼の説いた言葉は数世紀に渡り、口頭での伝承で受け継がれていきました。
そして、古代インドで文字が生まれたのち、経典として形が整えられます。
さらに数世紀後、仏道の実践によって自己の救済を実現を目指した初期の仏教とは違い、一切衆生の救済を謳う大乗仏教が生まれ、それが中国を経て日本へ伝わっていくのです。

ひとりの実践哲学者として生きたお釈迦様の誕生が徐々に宗教的な装飾がされ、現代日本でも花まつりという形でお祝いするということになるなんて、なんだかとても不思議な気持ちになりますね。

3.真舎利眠る、日泰寺

日泰寺本堂
日泰寺本堂

さあ、最後に仏閣のご紹介です。
突然ですが、シャリと言われて浮かぶのは、白いご飯ですよね。
漢字では『舎利』、正式には仏舎利といって、お釈迦様の遺骨を指します。
白く輝くご飯を尊い舎利に例えているのですね。

通常、仏塔に納められている仏舎利は、もちろん代替品です。
インドやタイにある、本物の仏舎利が眠るストゥーバの前で、宝石(石英や水晶などの石、中にはダイヤモンドも!)などを供養したもの。
本物の仏舎利は、真舎利または真身舎利などと呼ばれます。

日本において、真舎利が収められている仏閣はただひとつ。
名古屋市千種区にある、覚王山日泰寺。
開創は明治37年(1904年)。随分と新しいな、と思った方、正解です!
そう、日泰寺は真舎利を奉納するために建立されたお寺なのです。

  • タイへの感謝の念が刻まれた石碑
    タイへの感謝の念が刻まれた石碑

東本願寺が設立した仏教大学である大谷大学HPでは、仏舎利の発見についてこう記されています。

“仏陀釈尊のご遺体は火葬に付され、そのご遺骨が八部族の仏弟子たちに分配された。
そのできごとを「舎利八分」と言うことは『涅槃経』の伝えるところである。
そのうちの一つ、カピラヴァットゥ国にもたらされたものが一八九八年フランス人ペッペによって発掘され、釈尊の歴史的実在性を証明する有力な証拠になったことは有名な話である。
そして、仏舎利を崇拝、供養するために、舎利塔(仏塔)や舎利殿が建立され、舎利会(講)が営まれることになった“
(大谷大学HP 教員エッセイ 『読むページ 生活の中の仏教用語―[188] 』 仏舎利の項より)

1898年。当時のイギリス領インドで駐在官ペッペが発見した遺骨は、それによって釈迦の実在が考古学的に立証された後、当時シャム国であったタイに譲渡されました。
そして国王ラーマ5世は、仏教国であるビルマ(現ミャンマー)とセイロン(現スリランカ)に分け与えます。
それを知った駐タイ弁理公使の稲垣満次郎の懇願により、日本へも友好の証として仏舎利が贈られたのです。

  • 敷地外には、覚王山八十八か所霊場
    敷地外には、覚王山八十八か所霊場
  • 本殿に比べなんと素朴なことか
    本殿に比べなんと素朴なことか

これは大変なことだったでしょう。
当然、その真舎利を巡って各宗派のお寺が名乗りを上げ、熾烈な争いになったとのこと。
その結果、13宗56派での会議が行われ、仏舎利を奉納する寺を新しく造り、どの宗派にも属さない単立寺院として、主な宗派の僧が3年ごとに交代で住職を務めることになりました。
それが日泰寺なのです。
泰はタイを表します。つまり日本とタイの友好を記念してつけられた名前です。
ちなみに、創建当時はまだシャム国だったので、寺の名は『日暹寺』(にっせんじ)だったそう。

お参りした日は春のお彼岸で、立派な本堂で法鼓が打ち鳴らされ、たくさんの僧侶の方の読経が響いていました。
仏花を抱え、親戚で連れ立ってお墓参りをされる姿や、小さな子がはしゃいで走るのを追いかける親御さんの姿立っても微笑ましく、コロナ禍が終わりつつあるのを肌で感じることができました。

真舎利が収められている奉安塔は、私のほか姿はなく、感慨に浸りつつお参りしました。
お釈迦様が亡くなった後、世界の三大宗教のひとつにまで成長した仏教。
インドから中国、そして日本に伝わりこの国に根付いた自然信仰と融合しつつ、いまも変容を続けています。
ここに眠る真舎利と同じく、遠い遠い旅をしてきたのです。

  • 人気のない奉安塔への道
    人気のない奉安塔への道
  • 一般参拝者が近づけるのはここまで
    一般参拝者が近づけるのはここまで

花祭り特集、いかがでしたでしょうか。
ワタクシも、保育園での花祭りで小さな仏様にお茶をかけ、甘茶を頂いたのをおぼろに覚えています。
こういった催しはいつの時代も、子どもの心に思い出として積み重なり、豊かにすることでしょう。
そして、折にふれて思い出し、感謝の気持、よりよく生きる意志が芽吹いていくのでは、と信じています。
あなたもぜひ、花まつりに近所のお寺を訪れてみませんか。