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執筆者:マルハナバチ
感動特集

時は春、心動かす日々の彩り

執筆者:マルハナバチ
執筆者:マルハナバチ
水面に映る影までも美しい桜並木
水面に映る影までも美しい桜並木

こんにちは!年々涙もろくなるお年頃、主婦ライターのマルハナバチです。
季節は春。
終わりと始まり、出会いと別れの季節ですね。
今回は、ワタクシが過ごす一週間を日記代わりに綴っていきたいと思います。
このドラマティックな春という季節、どのような心動かす出来事が起こるでしょうか。

月曜日

春眠暁を覚えず。
週の始まりは、フレッシュな気持ちより憂鬱さが勝つ。
そんな朝の日課は、庭の見回り。

美人に例えられる芍薬の花
美人に例えられる芍薬の花

私は芍薬の花が好き。
立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は百合の花。
蕾がふんわりと開き、馥郁(ふくいく)たる香りを放ちながら咲くさまは、まさに美人の例えにふさわしい。
園芸店で、小さな棒苗を買って植えたのが去年の春。
葉っぱは生えたものの、いつのまにか姿が消えてがっかりした記憶がある。
好きな植物が、自分の庭で生き残れるとは限らない。
ブルータスお前もか、といった気分だった。

我が家の家庭菜園に、5年ほど前に植えたアスパラガス。
根っこを買ってきて、タコの足のように広げて逆さに埋め、冬は、肥料を施した土寄せをして寒さから根を保護。
1年目はこうして根を太らせてやると、翌春からぴょこぴょこと芽が出るようになる。
それを収穫すると、断面から水分が滴るほどにみずみずしくて、甘い。
けれどこの冬は、例年になく寒さが厳しかった。
土寄せが足りなかったのか、土をどけると凍結して中身がダメになった根っこがたくさん出てきた。
中身を抜いたストローの袋のようになっている根をすべて取り除く。
下の方はまだ生きていることを信じて肥料をやり、今年は回復のため休ませることにしたのが一週間前。

久々に朝の庭の見回りをした月曜日。
見つけたのは…1本だけ、しっかりと土から顔を出したアスパラガス!
そして、芍薬もいつのまにかしっかりと葉を広げていた。
寒さに耐え、環境の厳しさに耐え、生き抜こうとする植物の逞しさを見習いたい!
そう思った朝だった。

  • どうかこのまますくすくと育って…
    どうかこのまますくすくと育って…

火曜日

知り合いの方からの手紙を受け取る。
去年卒寿を迎えたその方は、私の祖母の習字教室の生徒さんだった。
彼女は60歳になってから初めて、読み書きを覚えたのだ。

そんなことあるの?日本人の識字率はほぼ100%でしょう?
と思われるかもしれない。
彼女は、そのほぼ100%の『ほぼ』に含まれない側だった。
子沢山の農家に生まれ、女が学を身につける必要などないという両親のもと、ずっと弟たちの世話と農作業の手伝いに終われて育ち、小学校へも通えなかったという。
戦前のことだ。
そして、早くに結婚し、子供たちを懸命に育て上げた。
買い物や、計算が必要なことはご主人が代わりにやっていたという。

いい悪いの話ではないし、気の毒であるというだけの話でもない。
文字を読めない人生とは一体どういうものか、私たちには想像することさえ難しい。
介護業界で仕事をしていた時にも痛感したけれど、にわかに信じられないことが現実には起きている。
彼女のケースはその一つだ。

彼女が還暦を過ぎた頃、ずっと生活を支えてくれたご主人を亡くし、ご家族の勧めで習字教室に通い始める。
齢60にして、新しい知の扉を開いたのだ。
祖母の小さな教室の長机の前に正座して、ひたむきに字を書いている彼女の姿を思い出す。
力を入れすぎて前のめりになってしまうのを注意され、慌てて直す姿も。

そして30年ほどが経ち、祖母が亡くなった後も彼女はこうして時々手紙をくれる。
その字はずいぶんと達筆になり、私の字など比べようもなく美しく綴られている。
時候の挨拶から始まり、日常のたわいない報告、こちらの健康への気遣いと結びの言葉。
読み書きを入口として、彼女が知的活動の旅を続けているのが鮮やかに伝わってくる。

何かを始めることに、年齢など関係ない。
いくつになっても知の扉は私たちの前に開かれている。
そのことを、彼女の手紙はいつも教えてくれる。

新しい筆と便箋で、返事を書こう
新しい筆と便箋で、返事を書こう

水曜日

6時すぎに朝の散歩。
我が家は地方都市の周辺、だんだんと市街地に浸食されつつある田園地帯にある。
ここに引っ越してきて、初めてアマガエルを見て、雲雀の囀りかたも知った。

雲雀ってこんな鳥。雀より少し大きい
雲雀ってこんな鳥。雀より少し大きい

ネズミを狙うのか、イタチも住んでいる。
農家さんと接する仕事をするうちに、休耕田が多い理由も米を作ることの大変さもわかった。

今、市内で田んぼを埋め立てて工業団地化する工事が進んでいる。
この田園地帯も、やがては無味乾燥な倉庫や工場地帯に飲み込まれてしまうのだろう。

  • 地上で囀る雲雀。どこにいるでしょうか?
    地上で囀る雲雀。どこにいるでしょうか?

雲雀は、野原に巣を作る。
なわばりを主張するために、地上で囀り始め、しばらくすると飛び立つ。
その小さな体が点に見えるくらいの高さまで昇り、懸命に羽ばたいて絶え間なく囀り、疲れると降りて来る。その繰り返し。
まだ寒い2月の末から鳴き始める、春の訪れを告げる鳥だ。

彼らの姿をいつまで見ることができるのだろう。
それとも、澄んだ水辺にしか生息しないと言われ、一時はほとんど姿を消してしまったカワセミのように、意外とたくましく環境に順応し、都市部の公園などに戻ってくるようになるだろうか。
祈るような気持ちで囀りを聞く。

木曜日

朝晩の気温差にやられたのか、調子が悪い。
体だけでなく心も疲れてしまっているようだ。
桜が散ってしまう前に公園に行きたい気持ちもあるが断念し、早々に寝る。

金曜日

3月最後の日。
自転車での通勤の途中、前の職場の新人くんに偶然会う。
「○○さーん!」
と私の名前を呼んで彼は手を振り、駆け寄ってくる。
人懐こく素直で、ちょっと不思議な発言で周囲を戸惑わせたりしつつも、厳しい先輩の指導に耐え仕事をこなしてきた新人くん。
一時期は体調を崩し、辞めることを考えたこともあった。
私たち職場の女性陣は、彼の親御さんとほぼ同世代だった。思い返せばみんなで保護者のように見守っていたなあ。
「異動が決まりました!今まで本当にお世話になりました」
実質私ができたことなどないのだけれど、律儀な彼は礼を述べた。
色んなことが思い出されるのか、ちょっと涙ぐんでさえいる。
理不尽なことが多い部署で苦労が多かったから、この異動は彼にとって望ましい結果になるだろう。
「大変だったよね。新しい部署でも頑張って!」
気の利く言葉は持ち合わせていないが、心からそう言った。
「はい、頑張ります。○○さんもお元気でー!」
彼は大きく手を振り、元気よく走っていった。ああ、その先は未来だ。
勇気づけられたような気持になって、私も自転車のペダルを踏み込んだ。

素直であること、懸命であることは、まぎれもなくひとつの才能だ。
どこにいっても、その美点は周囲に受け入れられるだろう。
彼の前途が明るいものでありますように。

土曜日・日曜日

那谷寺の春、枝垂れ桜が映える
那谷寺の春、枝垂れ桜が映える

調子はまだ戻らないが、我が推し寺である石川県小松市の自生山那谷寺へ。
行く道々で、あちこちの川岸や山あいで、桜が見事に咲いていた。
北上するにつれ、ほぼ散っているところ、満開、咲き始め、と時間を巻き戻していくような感覚になる。
それを眺めながら思う。桜はなぜこんなに愛されるのだろう。

入園式や入学式、誰かと見上げた桜、帰り道に見かけた公園の桜、そういう過去の記憶までも重なるからだろうか。
見事に咲き誇っている桜並木の、植えた人や世話をする人の苦労、楽しみに春を待つ人たちの期待に無意識に共感しているのだろうか。

動橋川。桜のある風景はみな美しい
動橋川。桜のある風景はみな美しい

散り際まで美しい花というのも、珍しいからなのかもしれない。
風が花びらを舞い上げ吹雪のように散らしていく光景には、美しい以上に心を動かされるものがある。
花火の一瞬の光に人が歓声を上げるように、死を背景に生が輝く風景だからなのか。

『願わくは 花の下にて春死なむ その如月の望月のころ』 と詠んだ西行法師の気持ちがわかる。 西行法師は彼の望んだ通り如月(現在の三月)の満月の日に亡くなった。
それは彼が望んだ、お釈迦様の入滅と同じ日。
武家に生まれながら仏門に入り、旅に生きた西行法師も愛した桜という花。

永平寺町。川沿いの桜と山々
永平寺町。川沿いの桜と山々

ちょっと真似して俳句を詠んでみる。

桜ひとひら 名もなき春の絶景かな (いろいろ字余り)

桜がそこに咲いたなら、そこがどんな場所でも絶景となる。
そんな力が桜の花にはある。
人が心動かされるのは、まさに桜が放出する生命そのものを浴びているからなのかもしれない。
そんなことを考えた帰り道、心も体もすっかり回復している自分がいた。

いかがでしたでしょうか。
やっと訪れた春の日々を彩る、小さな感動の数々。
感動とは、心の琴線に何かが触れ震わせること。
ならばそれはどんな生活にもたくさん散りばめられているはずです。
生きている限り、私たちの心は動き続けているのですから。