
奈良派爺さん
鬼に纏わる逸話と
年中行事を行う京都の廬山寺と奈良の薬師寺
◆ まえがき ◆
このブログ記事では、鬼に纏わる逸話や年中行事を行う京都と奈良の寺院の代表として、京都の廬山寺と、奈良の薬師寺について、その寺院と鬼に纏わる年中行事を紹介します。また、最後にそもそも鬼とは何かについても考えてみたいと思います。
廬山寺
廬山寺の沿革
比叡山天台18世座主である元三大師良源によって938年~947年の天慶年間に船岡山の南に与願金剛院を創建されたのが起源とされています。その後、法然に帰依した覚瑜が1245年に廬山寺を建立し、1368年には明導照源により、二つ寺院が合併し、四宗建学(円・密・戒・浄)の道場の廬山天台講寺と改称されました。
応仁の乱により、この廬山天台講寺は消失しますが、1573に正親町天皇の勅命で現在の場所に移転再興されました。現在廬山寺のある場所には、紫式部の邸宅があった地として知られており、源氏物語もこの邸宅で執筆されたと伝えられており、紫式部ゆかりの寺院として知られています。
廬山寺の見どころ
廬山寺の境内は、それほど広くはなく、山門を入ると正面に元三大師堂があり、その奥に本堂が棟続きで建っています。そして山門を入った右手に、小さな鐘楼がある程度です。
拝観受付をして、建物内に入るといくつかの部屋が並び、その一つが本堂となっています。本尊は重要文化財に指定されている阿弥陀三尊で、阿弥陀如来と左脇侍として観音菩薩、そして右脇侍として勢至菩薩が安置されています。
この本堂の縁側の南側に、紫式部の源氏物語から名前を取った源氏庭があります。この庭園は、決してそれほど古くはなく、昭和40年に紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑が建てられた際に、共に整備されたものです。この源氏庭は平安朝の庭園の趣を再現したもので、白砂と苔の庭コントラストを活かした庭園となっています。夏から秋にかけては苔の部分に、桔梗の鉢植えが並べられ、可憐な紫の花が、拝観者を楽しませてくれます。
また廬山寺と寺町通を挟んだ所には、明治維新に深くかかわった三條實萬公を御祭神を祀る梨木神社、また近くには火の神、竈神である三宝荒神尊を祀る最も古い清荒神と言われている護浄院があります。さらに寺町通の西側には京都御苑が広がります。合わせて、散策するのがお勧めです。
年中行事の節分会追儺式鬼法楽 (通称:鬼おどり)
この廬山寺の「節分会追儺式鬼法楽」は、京都の人が、節分の行事として真っ先に思い浮かぶ行事として挙げるほど有名な行事です。この行事の由来は、寺院の開祖と言える元三大師良源が、村上天皇の御代に宮中において300日に及ぶ護摩供養を行われた際に、三匹の鬼が現れ、この修行を邪魔したことによるとされています。ここで三匹の鬼と称されているものは、人間の善根を害する三種の煩悩(貪欲、瞋恚、愚痴)を指しています。節分の日に、この三鬼(三毒)を追い払い、開運を図り、新しい春を迎えると言う法会行事が、この「節分会追儺式鬼法楽」なのです。
この行事は2月3日に営まれ、具体的には下記の順序で執り行われます。最初に厄除け開運・福寿増長の護摩供の修法が本堂において管長が始めます。暫くすると、太鼓と法螺貝の音を合図に松明と宝剣を持った赤鬼と、大斧を持った青鬼と、大槌を持った黒鬼が大師堂前の広場に設けられた特設舞台に現れます。この三匹の鬼は、先に記した三毒を象徴したものです。鬼たちは、足拍子をとりながら特設舞台から堂内に入り、堂内で執り行われている護摩供の修法を妨げるように、その周りを踊ります。しかし、この三匹の鬼は、護摩供の秘法と追儺師が東・西・南・北・中央の5箇所に向い矢を射る邪気払いの法弓、そして蓬莱師と福娘によって撒かれる蓬莱豆及び福餅の威力で追い払われ、鬼は門外に逃げ去ります。そして、最後に邪気払いされた鬼により、病気平癒・身体健全を願い、参拝者の身体の悪い部分を加持し行事は終了します。
廬山寺は河原町通りを走る市バスの京都府立医大病院前のバス停から、西側の寺町通に進むとすぐにあります。境内に入るのは無料ですが、堂内に入り庭園などを拝観するには500円の入山料が必要です。(2月1日~2月9日は鬼踊りの関係から、庭園の拝観は出来ません)
薬師寺の花会式と鬼
薬師寺の沿革
薬師寺は、680年に天武天皇が光明皇后の病気平癒を祈願して発願され、697年の持統天皇の時代に完成をしました。往時の伽藍は龍宮造りと称される荘厳なものであったと伝えられています。718年に都が飛鳥の藤原京から平城京に移されたことに伴い、現在の地に移転され、南都七大寺の一つとして大いに栄えていました。
しかし、時代と共にその勢いは衰え、度重なる火災等により、荘厳な伽藍も東塔以外は全て消失していまいました。
こうして、豊臣家によって本格的な再建前に建てられた仮の金堂と、東塔のみが残された寺院として往時の荘厳さは見る影もない状態が昭和の時代まで続いて来たのです。しかし、1967年に当時の管主であった高田好胤師が、奈良時代の伽藍の復興を目指し、まず金堂再建に向けて、百万巻の写経勧進を始め、テレビに出演して寄付を募り、ついに1974年春に金堂の復興が果たされました。その後も好胤師の遺志が受け継がれ、西塔・講堂の復元も達成されたのです。そして、唯一の奈良時代の建造物である東塔の解体修理も終え、現在は奈良時代の荘厳な伽藍の再興が完了し、美しい姿を見ることが出来るのです。
薬師寺の見どころ
古色蒼然として味わいのある国宝の東塔、朱塗りも鮮やかな西塔、金堂、講堂の伽藍は素晴らしく、また金堂に安置された国宝の薬師三尊像など、見どころは多数あります。ちなみに、薬師三尊像は黒光りをしていますが、これは火災により溶ける寸前になっていた痕跡だとされています。また、境内に佇めば、まるで別世界に居る雰囲気を味わうことが出来、これも素晴らしいポイントと言えます。もちろん、この薬師寺は世界文化遺産の「古都奈良の文化財」の構成要素の一つです。
同じ西ノ京には、鑑真和上が開いた世界遺産の唐招提寺もあり、奈良公園周辺の神社仏閣とはまた違った大和路の風情を楽しむことが可能で、一度は訪れられることをお勧めします。
薬師寺の花会式(修二会)の鬼追い式
奈良時代には朝廷の庇護を受けた南都七大寺を中心に、国家安寧・五穀豊穣・万民豊楽を願い修二会が営まれており、今日まで連綿とその行事が続けられてきました。修二会とあるように、この行事は旧暦の2月後半に執り行われており、東大寺では2月に現在も行われていますが、薬師寺では旧暦の2月に当たる3月に営まれています。東大寺では、修二会のハイライトが二月堂のお水取りと松明であることから、通称お水取りと称されています。薬師寺では、10種の色鮮やかな造花が金堂内の本尊に供えられることから、通称花会式と呼ばれているのです。
この10種類の造花は、梅・桃・桜・椿・山吹・牡丹・藤・楉若・百合・菊で、これは1107年に堀河天皇が皇后の病の平癒を薬師如来に願い、幸い回復した皇后が女官に命じて造花を作り、薬師如来にお礼として供えたのが始まりとされています。
花会式は3月25日~31日に僧侶による薬師悔過法要が毎日6回行われます。薬師悔過とは、人間が無自覚を含めて犯した罪を薬師如来に悔過する法要です。経を静かに、そして時には声を張り上げて唱えて礼拝する行です。
こうして31日に結願の日を迎えます。その最後に、金堂の前で「鬼追い式」が執り行われます。人間の煩悩を象徴する5匹の鬼が松明を持って激しく暴れまわります。この鬼を薬師如来の力を受けた毘沙門天が鎮めます。これは、薬師悔過の罪を反省し、正しい生き方に改めることを視覚化した行事だとされています。
2月に行われる神社や寺院の鬼追い式に参加できなかった方は、1か月以上も後で、春本番を迎える季節に行われる薬師寺の花会式の結願の日に、薬師寺を訪れられる手もあります。もちろん、2月3日の節分の日には、奈良では興福寺、東大寺境内にある東大寺を守護する手向山八幡宮、元興寺等で鬼追い式が行われます。
薬師寺は近鉄奈良線の大和西大寺駅で橿原線に乗り換え、西ノ京駅下車で直ぐの場所にあります。拝観料は、時期によって異なり、白鳳伽藍のみが拝観できる時期は800円で、玄装三蔵院伽藍も拝観できる時期は1100円です。
そもそも鬼とは
鬼に纏わる伝承や行事から推察できること
日本の各地には、鬼に纏わる色々な伝承や行事があり、鬼が象徴するものも様々です。しかし、一般的には以下の様に考察できるのはないでしょうか。
まず、今回紹介した様に、寺院で行われている鬼追い式では、「鬼」は「人間自身の煩悩や悪い心」を象徴していると言えます。
また、都の鬼門(北東)から、鬼が侵入するのを防ぐために、平城京の場合には鬼門の抑えとして東大寺が建立され、 京都の平安京では比叡山延暦寺がそれを担っていますが、ここでは「鬼」は「人間ではどうすることも出来ない自然災害や疫病等」を象徴していると言えるでしょう。
さらに、豆まきで一般的に叫ばれる「鬼は外!福は内!」では、「鬼」は「家族に災いや不幸をもたらすあらゆる事柄」の象徴とされていることが推察されます。
こうした「鬼」とは何かを考えつつ、鬼追い行事に参加されると、さらに興味が増すだろうと思います。