
しろすずめ
鬼も内!金峯山寺の節分会
鬼もよろこび踊る「鬼火の祭典」
「福は内、鬼は外」
節分といえば、お決まりのこの掛け声。
福は家々に招かれ、鬼は豆を撒かれて追い祓われます。
では、こうして追い出された鬼たちは一体どこへ行くのでしょう?
実は、この「追われた鬼たちを受け容れて改心させる」という、全国でも大変珍しい神社仏閣が存在します。
奈良県吉野山にある金峯山寺(きんぷせんじ)も、その一つ。
「福は内、鬼も内」と、鬼たちも招き入れるのです。
なぜ、このお寺では鬼を追い祓うのではなく、受け容れるのでしょうか。
そもそも、私たちが追い祓っている「鬼」とは一体どのような存在なのでしょう。
今回はそんな疑問にお答えしつつ、この金峯山寺の一風変わった節分行事についてご紹介します。

節分の豆撒きで追いやられる2体の鬼たち。
部屋の奥では、福の神である恵比寿と大黒が鯛を肴に酒を酌み交わしてくつろいでいる。
【葛飾北斎『北齋画譜上巻;ホクサイガフジョウカン』国際日本文化研究センター蔵】
金峯山寺とは
まずは、金峯山寺についてご紹介します。
金峯山寺について
金峯山寺は、桜で名高い奈良県吉野山の中腹に位置する、修験道の総本山の寺院です。
1300年もの歴史を誇り、国宝である本堂「蔵王堂」は世界文化遺産にも認定されています。
吉野駅で近鉄電車を降り、徒歩で吉野山に登ります。駅からすぐのところからロープウェイに乗ることができますし、横道から自力で歩いて登ることもできます。
ちなみに金峯山寺には、専用の駐車場はありません。
吉野の絶景を楽しみながら山道をてくてく進んでいくと、30分ほどで金峯山寺に到着です。
青空に粉雪が舞う1月の昼下がり、境内は静かで清浄な雰囲気に包まれていました。
本堂でお線香をあげ、手を合わせます。高さ34mの豪壮なこの建物は、東大寺大仏殿に次ぐ大きさとのこと。
高い天井からは、「蔵王堂」の文字が書かれた巨大な赤い提灯がドーン!と下がっています。小学校の運動会で使った大玉ころがしの玉より、二まわりほども大きなサイズで大迫力です。
正面の棚にはお札や護摩木などが並べられ、右の方にはおみくじが、左のカウンターでは御守りや御朱印をお授けいただけるようになっています。
三体のご本尊は秘仏ですが、本堂には他にもたくさんの尊像が安置されています。拝観料を納めると本堂内を拝観できます(大人800円)。
金峯山寺の開祖・役行者と三体のご本尊
金峯山寺を開創したのは、修験道の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ・役小角(えんのおづぬ)とも)です。
はるか昔の奈良時代、役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で「金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)を感得し、修験道のご本尊とされました。そのお姿をヤマザクラの木に刻み、吉野山にお祀りしたのが金峯山寺の始まりと伝えられています。
ご本尊は、お釈迦様・千手千眼観世音菩薩様・弥勒菩薩様の三仏様です。秘仏であるこれらの仏像は、全身が青黒く塗られた7mほどもある巨大な仏像。
荒んだ世の中の悪病や災厄から人々を力強く救うため、見る者を圧倒するような忿怒の形相をしています。恐ろしい見た目ですが、本来は慈悲と寛容に満ち溢れた優しい仏様と言われています。
金峯山寺「鬼は内」の節分会
それではいよいよ、金峯山寺の三大行事の一つである節分会(せつぶんえ)「鬼火の祭典」をご紹介しましょう。
この行事は、金峯山寺の開祖である役行者が荒ぶる鬼を仏法の力で改心させた、という言い伝えにちなんだお祭りです。
節分会「鬼火の祭典」
節分会「鬼火の祭典」の大まかな流れは以下のとおりです。
まずは本堂内で、修験者たちによる日々の感謝や厄除けの読経が行われます。
その後、参加者たちも祈祷を受けに本堂内へ。すると、節分で全国から追われてきた赤鬼・青鬼・黒鬼たちも、金棒片手に本堂内をうろつき始めます。
寝っ転がったり修験者にちょっかいを出したり、参加者のカメラを勝手に使ったり…勝手気ままにいたずらしてまわります。
やがて、鬼たちは修験者たちに取り囲まれ、お経と参加者たちの撒く豆によって邪悪な力を失っていきます。最後には豆だらけの畳にひれ伏し、降参します。
そして舞台は屋外の境内へ。大護摩の炎が焚かれ、改心した鬼たちが炎の周りでダンスを踊り、仏の道に入った喜びを全身で表すのです。
最後はお寺の関係者と鬼が一緒になって「福は内!鬼も内!」の掛け声とともに、小袋に入った豆を参加者に撒いていきます。
このように、鬼を追い祓うのではなく「受け容れて改心させる」というのが、このお寺の節分会の大きな特徴です。
お寺の関係者の方のお話によると、金峯山寺で現在行われているこの節分会のシナリオは、昭和以降にお寺の方々によって作られたそうです。
ですが、このお寺と鬼との関わりの歴史はもっと古く、開祖である役行者の「鬼にまつわる説話」に由来すると言います。
鬼夫婦を改心させた役行者
金峯山寺の節分会の内容は、役行者が「鬼を説教し、改心させた」という以下のような言い伝えが元となっています。
昔、生駒山には前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)という鬼夫婦が住み着き、人の子を攫って食べていました。役行者は鬼夫婦の5人の子どものうち末子を隠し、戸惑った鬼たちに「子を攫われる親の悲しみ」を説いたといいます。
教えによって改心した鬼夫婦は、それから役行者の弟子となり、付き従いました。
まさに金峯山寺の節分会の原型と言えますね。
節分の起源 鬼にされた正義の味方「方相氏」

疫病を追い祓う4つ目の方相氏と、それに従う子どもの侲子(しんし)たち。正義の味方だったはずが、やがて鬼とみなされるように。
【葛飾北斎『都年中行事画帖(ミヤコ ネンチュウ ギョウジ ガジョウ)』国際日本文化研究センター蔵】
ここで、そもそもなぜ節分に鬼を追い祓うようになったのか、その起源を見てみましょう。
節分の起源と考えられているのは、平安期の頃から行われていた「追儺(ついな)」という風習です。
古代中国から伝わったこの行事では「方相氏(ほうそうし)」と呼ばれる役目の人が主役です。盾と矛を持ち、黄金4つ目の怖い面を被って、目に見えない疫病や災厄を追い祓います。
いわば方相氏は正義の味方!だったのですが…、敵である疫病や災厄は目に見えません。
やがて姿なき敵の存在は忘れられ、代わりに見た目が恐ろしい方相氏そのものが「退治される悪い鬼」とみなされるようになっていきました。
今日、私たちが節分で追い祓っている鬼は、かつては正義の味方だったというわけです。
何とも気の毒な話ですね。
ちなみに、この方相氏が登場する追儺式の節分祭は今でも行われており、京都の吉田神社などが有名です。
鬼の正体
こうして、節分で追い祓われるようになった鬼ですが、その正体は時代や文化と共に次第に変化していきます。
鬼の起源
鬼の語源は「隠(おぬ・おん)」、つまり「姿が隠された、得体の知れない恐ろしいモノ」を意味する音でした。それがなまって「オニ」となり、現在の鬼の字が当てられたと言われています。
かつて鬼とは、そうした目に見えない疫病や災厄を指していましたが、時代を経るにしたがって、
・恨みや嫉妬など、人間の内部にある邪悪なもの
・大陸からの渡来人や、ムラの外から来たよそ者
といった、異質で受け容れがたいものに対する恐怖の象徴となっていきました。
そうした鬼を受け容れるとは、すなわち「異質なものを受け容れる」ということなのです。
鬼を受け容れるとは
金峯山寺は修験道の寺院です。
修験道とは、人間本来の自然崇拝に密教や道教、陰陽道などさまざまな宗教の要素を取り込み融合させて生み出された、日本独自の宗教です。
日本は古来より異質なものを「鬼」とみなし、共同体の外に追い祓うことで安全を守ってきました。
ですが、鬼を悪と決めつけて排除するのではなく、役行者のように共に生きる道を探ろうとする姿勢は修験道の精神に通じ、それが今日の金峯山寺の節分会にも体現されているように感じました。
「鬼も内」とは、鬼を生み出した人間自身の心の弱さや醜さと向き合うことであり、目には見えない物事の本質に目を凝らそうとする勇気ある姿勢と考えられるでしょう。
まとめ 金峯山寺の最大の魅力とは
いかがだったでしょうか。
今回の取材にあたり、お寺の関係者の方にはお忙しい中、節分会や修験道などについて詳しくご教示くださり、心より感謝申し上げます。
この金峯山寺の一番の魅力は、個人的には「人」だと感じています。
修験道や山伏のイメージから勝手に厳しそうな印象を抱いていた金峯山寺ですが、実際に訪れてみると、お寺の方は皆様ほんわかと心優しく、とても気さくに接してくださいました。
お寺の見どころは国宝である蔵王堂や三体のご本尊、節分会のような催事など挙げればきりがありませんが、鬼も参拝客もあたたかく迎え入れてくださる懐の深さに感銘を受けました。
吉野を訪れた際には、金峯山寺もぜひ参拝してみてください。
◆参考文献
・八木透監修『日本の鬼図鑑』2021年発行・青幻舎
・阿部泉著『史料が語る年中行事の起源』2021年発行・清水書院
◆参考サイト
・金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺
・オマツリジャパン「鬼火の祭典」鬼も内!鬼がおどる世界遺産金峯山寺
◆画像出典元
※すべて「二次利用フリー(申請不要で自由に利用・転載可能)」の画像です。
【画像1_節分の様子】
・葛飾北斎:『北齋画譜上巻;ホクサイガフジョウカン』
・所蔵者:国際日本文化研究センター
【画像6_役行者に付き従う前鬼と後鬼】
・葛飾北斎『北齋画譜中巻;ホクサイガフチュウカン』
・所蔵者:国際日本文化研究センター
【画像7_追儺の方相氏】
「吉田神社追儺(よしだじんじゃついな)」1926頃
・『都年中行事画帖(ミヤコ ネンチュウ ギョウジ ガジョウ)』
・所蔵者:国際日本文化研究センター