『鬼』に関連する神社仏閣特集
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執筆者:まる執筆者
まる

『運慶作の鬼面が躍動する!瀧山寺(愛知県岡崎市)』

瀧山寺本堂。地元名物の味噌樽が!
瀧山寺本堂。地元名物の味噌樽が!

今回は、愛知県岡崎市にある瀧山寺(たきさんじ)をご紹介します。
天台宗吉祥陀羅尼山薬樹王院という、非常に由緒ありそうな山号と院号をもつお寺です。
ここでは、毎年二月に、運慶の作とされる面をつけた鬼が炎の中から登場し、天下泰平と五穀豊穣を祈願する、という鬼祭りが行われます。
そう、運慶。
東大寺金剛力士像をはじめ、興福寺北円堂弥勒仏像ほか数々の作品で知られる、あの仏師運慶です!
節分会が行われるお寺は数あれど、運慶の面をつけての鬼祭りは全国でここだけなのではないでしょうか。

運慶の鬼の面舞う鬼祭り

瀧山寺では、旧暦の元旦から七日の間、本堂において五穀豊穣を祈る修正会(しゅしょうえ)が行われます。
その最終日の夕方が鬼祭り。
鬼といっても、瀧山寺の鬼は邪気を祓う鬼神です。
それゆえ、鬼面を被る僧は祭りの前の七日間、斎戒沐浴して別室で起居します。
斎戒沐浴とは、神事や仏事にたずさわる前に穢れを祓い精進すること。肉を口にしない、女性との接触も禁止、などたくさんの戒律があり、徹底して自らの心身を清めるのです。
そして迎える鬼祭り当日。
燃え盛るたいまつの炎の中、重いもので7㎏はあるという運慶作の面を付けた鬼が本堂に現れます。炎が踊り、法螺貝や半鐘が打ち鳴らされるなか、祖父面、祖母面、孫面というそれぞれの面をつけた三人の鬼が乱舞するさまは、まさに邪を祓う鬼神と見る人の目に映ることでしょう。
(鬼の面は瀧山寺の許可を頂いて撮影しています)

  • 祖父面。今にも動き出しそうな力強さ
    祖父面。今にも動き出しそうな力強さ
  • 祖母面。角はないがまさに鬼の形相
    祖母面。角はないがまさに鬼の形相
  • ちょっとかわいい孫面
    ちょっとかわいい孫面

この瀧山寺の鬼祭り、なんと源頼朝の祈願によって始まったというから驚きです。
え?なぜここで源頼朝?と思いませんか。運慶に続き、二人目の歴史上の有名人の登場ですね。
いえいえ、瀧山寺は他にも歴史的人物との縁が深―いお寺なのです。
では、瀧山寺の歴史を簡単に紐解いてみましょう。

瀧山寺と天下人たちとの縁

瀧山寺の傍らを流れる青木川の瀧
瀧山寺の傍らを流れる青木川の瀧

瀧山寺の開創は奈良時代。
役行者(えんのぎょうじゃ)が青木川の滝壺より拾い上げた仏像を手彫りの薬師如来の体内におさめ、吉祥寺という寺を建てたのが始まりです。
役行者は、鬼神を使役するほどの神通力を持っていたといわれる、奈良時代の修験道の開祖。
数々の霊場を開いたというだけでなく、続日本紀や日本霊異記に『人心を惑わすとして流刑された伊図の嶋(伊豆大島)では、昼間は刑に服して島で修行を行い、夜には海上を陸のように走り、駿河の富士山の頂に登り修行をし、その頂きから飛び去る様は鳳凰のようだった』など人智を超えた力を振るう記述がみられ、現代の文芸作品にも数多く登場します。安倍晴明が平安時代の呪術界のスーパースターならば、奈良時代の呪術界のスーパースターは間違いなく役行者である、と言えるでしょう。
さてそんな役行者が開創した吉祥寺も、平安時代後期になるとすっかり荒廃してしまいます。
そこに訪れたのが、天台宗の比叡山の僧仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいぐ)。薬師信仰を広めるため、物部氏の保護のもと吉祥寺を再興し、瀧山寺と名を改めます。その後、地元の熱田大神宮司を大檀那に迎え、心強い後ろ盾を得たのです。
またその縁から、熱田大宮司季範(すえのり)の孫、寛伝(かんでん)が瀧山寺住職になります。
寛伝上人は、源頼朝公の従弟。そういうわけで、頼朝公が本堂を建立するなど、瀧山寺は鎌倉幕府の手厚い庇護を受けることとなりました。

大変なことになっている家系図
大変なことになっている家系図

ご覧ください。家系図が大変なことになっています。
頼朝公の没後、その遺髪と遺歯を胎内におさめた聖観音菩薩、梵天、帝釈天を運慶・湛慶父子が造像します。
その後は、家系図にもある足利家の準菩提寺ともなり、3代将軍義満の時には本堂建立の援助もあったそうですが、室町時代以降の戦乱の世に、瀧山寺も巻き込まれることとなり、しだいに勢力は衰えていきました。
しかし、江戸時代になると瀧山寺は再び脚光を浴びることに。
徳川家3代将軍家光公は、寛永寺の天海僧正に深く帰依し、寛永寺を菩提寺としましたが、その天海僧正の弟子である亮盛上人が瀧山寺の兼任住職となったのです。

三大東照宮のひとつ、瀧山東照宮
三大東照宮のひとつ、瀧山東照宮

それにより、瀧山寺は412石の寺領を幕府より賜ったということです。
また家光の命により、久能山、日光に続きゆかりの深い岡崎に東照宮を作るということで、瀧山寺に三つめの東照宮が建立されました。それにより、神領として200石が加わり、あわせて612石となります。
成人男性が1年間に食べる米の量が1石といいますから、当時の瀧山寺は600人以上を養えるだけの領地を持っていたということでしょうか。
こうして瀧山寺は、鎌倉幕府に続き、江戸幕府からも庇護を受けていたのです。
しかし運命はまた反転します。

瀧山寺山門、瀧仁王門
瀧山寺山門、瀧仁王門

明治維新後は禄高が没収され、最盛期には六坊あった僧房が、現在残っているのは一つのみとなりました。
瀧山寺から車で5分ほど下ったところに瀧仁王門がありますが、以前はそこからが瀧山寺の境内であり、その広さからかなりの権勢を誇っていたことが伺えます。
こういった神社仏閣の歴史をたどると、いかに時の権力者との関係が神社仏閣の命運を左右するかを痛感します。
ともあれ、これで瀧山寺の凄さを知っていただけたかと思います。

瀧山寺にて鬼を巡る

本堂をはじめ瀧山東照宮、日吉神社、水体薬師如来など、知れば知るほど魅力あふれる瀧山寺ですが、今回のテーマ『鬼』に絞って見どころをご紹介します。

鬼の面。運慶の作品がこんな近くに!
鬼の面。運慶の作品がこんな近くに!

★宝物殿
瀧山寺にお参りするなら、ここは絶対に!外せません!
鬼の面だけではなく、運慶・湛慶親子作の聖観音、帝釈天、梵天の三体の仏像をはじめ、狩野探幽斉筆の昇り龍、降り龍の掛け軸、信長から家康への書状など、本当にお宝がいっぱいなのです。

鬼の面。運慶の作品がこんな近くに!
御朱印(各300円)。聖観音と薬師如来

私が訪れたのは平日だったので、宝物殿にも人気がなく施錠されており、『拝観・御朱印の方は鳴らしてください』という張り紙がインターホンとともにありました。
インターホンを鳴らすと、お寺の方が本坊から出てきて宝物殿のカギをあけてくださるので、中を拝観します。
御朱印二種もお願いしました。
鬼の面は撮影許可を頂けましたが、もちろん他の仏像などは撮影禁止です。こじんまりとした宝物殿にぎっしりつまったお宝を、ぜひ実際に訪れて見て頂きたいと思います。

山伏たちが父母面とともに眠る鬼塚
山伏たちが父母面とともに眠る鬼塚

★鬼塚
ひっそりと、本堂脇にある苔むした塚と薬師如来像。
古い墨書きの立て札は雨風に晒されまったく読めない状態ですが、瀧山寺のHPによれば、これは鬼塚といいます。
宝物殿には祖父面、祖母面、孫面の三つしか現存しませんが、言い伝えによれば、もともとは父面母面もあり、全部で鬼の面は五つ。
むかし、旅の山伏ふたりが斎戒沐浴を怠ったまま父面と母面をつけて祭りを行ったところ、鬼の面が顔からとれなくなり、そのまま息絶えてしまった、という伝説があります。
その山伏たちを埋葬し、供養したのがこの鬼塚。
それ以来、父面と母面は失われて、鬼の面は三つになってしまったということです。
穢れを祓わないまま神事に臨んだことへの罰なのでしょうか。運慶の面が本当に生きているような躍動感を持っているだけに、その話の凄みが胸に迫ります。

足を伸ばして岡崎城へも!

瀧山寺を堪能した後は、岡崎城へもぜひどうぞ。
徳川家康公出生の地であり、別名、龍ヶ城とも呼ばれています。
築城の日、天守閣にいた当時の城主西郷弾正左衛門稠頼の前に清らかな乙女が現れ、『我はここに幾久しく棲む龍神である。我を鎮守の神と崇め奉らば、永くこの城を守護し繁栄不易たらしめん』と告げたといい、城の井戸が勢いよく噴き出て降り注ぎ、以来天守閣に龍神をお祀りしていたとのこと。
また、家康公の生誕の際にも、城の上に黒い雲が渦巻き、黄金の龍が昇天したと伝えられるそうです。そんなわけでお城の脇には龍城(たつき)神社もあり、黄金の龍の絵馬を受けることができます。
大河ドラマ『どうする家康』放映中ということもあり、岡崎城はリニューアルオープンし、ドラマ館ができました。瀧山寺とのつながりを想いながら、岡崎城を楽しんでください。

  • 茶店には戦国武将スイーツが…
    茶店には戦国武将スイーツが…
  • 岡崎城。意外とこじんまりとしています
    岡崎城。意外とこじんまりとしています

まとめ

瀧山寺、いかがでしたでしょうか。
2023年の鬼祭り開催は2月11日。
炎の中で躍動する運慶の鬼の面を見るもよし、後日、宝物殿で他の宝物とともにじっくりと堪能するもよし。
知れば知るほど奥の深い瀧山寺に、ぜひおいでん!