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執筆者:奈良野英太郎
臨済宗特集

臨済宗永源寺派大本山 瑞石山永源寺 取材レポート

執筆者:奈良野英太郎
執筆者:奈良野英太郎
紅葉にかこまれた山門
紅葉にかこまれた山門

大本山の観光と信仰の狭間

 永源寺は、臨済宗・黄檗宗の各派十五本山のひとつであり、永源寺派の大本山であり、全国に百二十七の末寺を擁し、坐禅研鑽と天下安全を祈願する古道場とされています。
創建は南北朝時代(1361年)、「近江守護職佐々木六角氏頼(うじより)公が、高僧のほまれ高い寂室元光禅師(じゃくしつげんこう)に帰依し、領内の勝景である雷渓(らいけい)を寄進し伽藍を創建したことに始まり……」(永源寺HP)とされますが、日本の仏教において、どんな位置づけになっているのか、簡単に整理してみることにしましょう。

 永源寺というと、いまは、紅葉がことのほか美しい寺院として有名なようです。たしかに境内には、紅葉の木がたくさん繁っていました。訪れたのは六月下旬の、まさに新緑の季節でしたが、五つの葉はまさに瑞々しくも美しい緑色が鮮やかでした。
 有名なのは紅葉だけではなく、四月には、八重桜と間違えられる遅咲きの、永源寺桜という珍しい桜が美しく咲く寺のようです。梅の木もありました。ちょうど訪問した時のこと、葦葺き大屋根の勇壮な「本堂」を左(北側)に見て、一つ奥に「書院」と「法堂」があります。その間に渡り廊下が南(右側)にある「禅堂」に通じているのですが、その渡り廊下の屋根の上で、樹木の剪定を行っている方がいらっしゃいました。

「この木は何ですか?」
「梅の木です」
「こうやって、境内のすべての木を剪定されているのですか?」
「いやいや、剪定するのは梅の木くらいです。紅葉はね。放置したままです」
「ええっ?」
「カミキリムシとか、そういう自然界のいきものが紅葉について、いらいな部分をカットしてくれるんですよ」
「はあっ」
「ムシを害虫として駆除するところがありますが、永源寺の紅葉につくムシは害虫じゃないんです。自然に剪定してくれる有用なムシとして、そのまま放置しています」
「へぇ~~~」
「しかし梅は手を入れてやらないと、茂りすぎて弱っていくので、剪定してます」

法堂正面
法堂正面

 屋根の上で剪定作業をされていらっしゃったのは、お坊様でした。が、この永源寺のお坊様ではなく、末寺から寺の維持管理のためにお手伝いで来られていた方でした。永源寺の寺の事務方(少数)は、みなさん通いで末寺などから来られているそうです。剪定されていた方のお寺は、永源寺本山からほど近い彦根市のあたりにある末寺と聞きました。
 境内は、ゴミ一つ落ちていないきれいな佇まいでした。早朝でもあり、オフシーズンでほとんど参拝者がいなかったからかもしれません。とはいえ、鄙びた木造の建造物は十棟以上もあり、勇壮な本堂は広大です。中を見ることができない南側にある禅堂も巨大です。この禅堂では、三十人ほどの禅の修行ができる大きさなのだそうです。それらの鄙びた木造の建造物の間を埋めつくすように、紅葉や梅、そして桜の樹木が生い茂り、背後に控える鈴鹿山脈の山々の自然に囲まれた巨大でしかも臨済宗の永源寺派の総本山というステータスにある「永源寺」ですが、最盛期の江戸時代から数百年を経過した現代、経営面や人材面という裏側に目を向けると、言葉にしにくい、悩ましい問題が浮き彫りになりました。

「一つ教えてください。いま現在、この永源寺本山の修行僧は、何人いらっしゃるのですか?」
「二人だけです」
「ええっ!」
「そこがとても悩ましいところなんですよ。年々、修行者のなり手が減少しています。修行をしようという者がいないのです。募集しているわけではありません。自発的に、禅の修行をしようという意欲をもつ人がいないのですよ。江戸時代には、武家がスポンサーだったですから、寺に修行僧があふれかえっていたそうです」
「それ、他の宗派でも同じなんですね。でも、檀家さんはいらっしゃるでしょ?」
「永源寺には、檀家はいません」
「では、どうやって?」
「観光収入のみです。入山で五百円……、それがすべてです」

 永源寺の維持管理のお手伝いをされている末寺のお坊様のお話を聞いて、私はふと気づきました。閑散とした境内に漂う、清潔できれいなのだけれども、どこか虚ろでもの悲しい寂しい風が流れていることを。

寺の本分――寺とは何か

 寺とは何か?
 仏教を奉じ、仏教を伝え、仏教を修する場として、寺はその意義を明かします。
 ブッダ、ダルマ、サンガ――この三宝を集約したところが、寺です。
 仏教寺院には、三宝が横溢していることが理想です。
 しかしいま、伝統仏教の現状はどうなっているのでしょうか?

 仏教というのは、いわゆるブッダの教えのことなのですが、日本で育って知っている仏教というのは,そのほとんどが葬式仏教です。
 「私の家は浄土宗だから」とか、「私のところは真宗だよ」だとか、曹洞宗、日蓮宗、真言宗、天台宗……素朴な疑問ですが、同じ仏教で、どうしていろいろな派閥があるのか、小学生的な疑問が、未だにぬぐえません。
 調べると、仏教の教祖のブッダが、インドの一地方で教えを説いたことから知る必要があります。それがいろいろな人の伝聞を通じて、長い歴史の時間のなかで、理論化され、分類され、翻訳されて、シルクロードという長い旅と台風にしばしばみまわれる海を渡って日本に伝来してきたことを考えただけで、大本のブッダの言葉がどう変節して伝わってきているかは想像に難くありません。
 大雑把に見ても、南伝と北伝の仏教は、表面的にはまったくの別物です。日本に伝わった北伝仏教は、中国大陸というフィルターで濾過されたものなので、とてもややこしいです。

日本仏教の流れのなかの栄西・臨済宗

 日本に仏教を招き入れたのは、聖徳太子とされています。
 仏教の初期、奈良時代の仏教(東大寺など)は、南都六宗といい、華厳宗や法相宗、律宗などがあり、それぞれ有名な本山はありますが、信仰としては形骸化しています。
 平安時代には、真言宗と天台宗という二つの密教が盛んになりました。真言宗は、空海があまりにも偉大だったためか、ずっとそのままいまでも信仰をされています。ところが、信長に焼き討ちに合った比叡山延暦寺を総本山とする天台宗からは、鎌倉時代に花開く法華経を主体とするさまざまな仏教の新派が誕生しました。日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、そして禅宗(曹洞宗、臨済宗)という流れになります。
 参考までに、それぞれの宗旨の祖を死亡年から順次比較してみると、次のとおりです。

 聖徳太子(574-622年):南都六宗
 最澄(766-822年):天台宗
 空海(774-835年):真言宗
 良忍(1073-1132年):融通念仏宗
 法然(1133-1212年):浄土宗
 栄西(1141-1215年):臨済宗(禅宗)
 道元(1200-1253年):曹洞宗(禅宗)
 親鸞(1173-1263年):浄土真宗
 一遍(1239-1289年):時宗
 隠元(1592-1673年):黄檗宗
 白隠(1686-1769年):禅宗の再興

 このように、聖徳太子(奈良時代)から最澄(平安時代)を経て、ほぼ現在の日本に深く浸透している鎌倉仏教(浄土宗、真宗、日蓮宗、禅宗)から現在に至るまでの、日本の仏教の大きな潮流を確認しました。

禅宗の基本「不立文字」

 永源寺は、禅宗の一つ、臨済宗の寺です。
 日本仏教における臨済宗は、曹洞宗と同様に禅宗です。日本で普及している仏教では、たとえば日蓮宗は「南無妙法蓮華経」、浄土宗や真宗は「南無阿弥陀仏」、天台宗や真言宗は密教ですが、さまざまな経文を唱えます。
 ところが、禅宗は、いわゆる坐禅が基本です。「不立文字(ふりゅうもんじ)」というのが禅宗の教義を表す言葉とされているように、日蓮宗や浄土宗のように、念仏を唱える教えがありません。
 それでは、臨済宗の寺院に参拝した時にはどうしたらいいのか、先のお坊様に聞きました。

「ただ、仏前に向かって合掌してください。それだけでよいのです。何も語る経文のようなものはありません。頼りないと感じるかもしれませんが、それが禅宗です」

臨済宗中興の祖・白院禅師

 歴史的事実において、禅宗のなかでも曹洞宗が地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の中央の武家政権に支持されました。そのため、政治・文化の場面で重んじられ、その栄華が江戸時代だったようです。
 永源寺は、戦国時代には僧兵などもいて戦火に焼かれましたが、江戸時代に復興され、栄華を極め、勇壮な伽藍を擁する大本山となりました。江戸時代の臨済宗の中興の祖といわれるのが、白隠禅師(1686-1769年)です。そこから臨済禅は「白隠禅」とも言われています。
 さて、臨済宗には現在十四の本山と、かつて臨済宗の一つであった黄檗宗の本山を足して十五の本山が存在します。残念なことに、江戸時代に武家に支えられた栄華は、いま残像のように残っていて、かつての仏教寺院としての生きた存在価値は、風化しつつあります。
 永源寺の立派な伽藍にいま修行をされていらっしゃる、お二人の修行僧の方が継承されたその臨済宗の教義は、永源寺派ということになるのでしょうか。

臨済宗の法嗣という師匠から弟子への伝法

 では、ウィキペディアによると「法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する」とあるように、師匠から弟子という伝法がなされているようです。
 永源寺の創建に招かれた寂室元光禅師の名がウィキペディアに次のように垣間見えます。

「無明慧性-蘭渓道隆(大覚派・建長寺派)-約翁徳倹-寂室元光(円応派・永源寺派)」

 この他に、どう判断したらいいのかたくさんの法嗣の記載があり、それが臨済宗十五の本山という流れになっていったのでしょうか?
 因みに、永源寺派はかつては「東福寺派」であったそうですが、明治になって独立した本山に転じたようです。臨済宗の歴史からすると、建仁寺派(1191年、中国・宋から帰国した栄西により始まる。本山は京都の建仁寺)、東福寺派(1236年、宋に渡り帰国した円爾により京都で始まる。本山は京都の東福寺)、と続きます。そして永源寺派は、1361年、寂室元光により始まり、明治13年(1880年)までは東福寺派に属したとされます。新しい本山ではありますが、元はといえば東福寺派だったわけで、古い格式がある本山といえるでしょう。

東近江市の永源寺へのアクセス

 臨済宗永源寺派大本山永源寺の所在地は「滋賀県東近江市永源寺高野町四十一」。
 ここに行くには、どうしたらいいのだろうか?

 鉄道の最寄り駅は、近江鉄道「八日市駅」からバスで35分です。
 近江鉄道は琵琶湖の東岸を走る鉄道です。新幹線では米原、JR線では彦根や近江八幡で近江鉄道に乗り換えできます。ただし、最寄り駅「八日市駅」に行くには、たとえば米原から乗り換えた場合、直通で行けるとは限りません。乗り換えが必要なこともあります。また、走行本数もけっして多くはありません。事前に十分に時刻表を確認してください。因みに米原から八日市駅までは、1時間以上かかります。
 八日市駅からは、近江鉄道バス(永源寺車庫行き)で「永源寺前停留所」下車となります。所要時間は35分です。

永源寺入口(正面)の手間にあるバス停
永源寺入口(正面)の手間にあるバス停

車利用の場合は、名神高速道路「八日市IC」から国道421号を東に約18km約25分、東名阪自動車道桑名ICから国道421号を西に約31km約50分。大安ICからならもう少し早くつけるでしょう。

永源寺温泉八風の湯――宿泊と日帰り温泉

 永源寺入口から約七百メートルほどにある、天然温泉施設です。永源寺入口まで歩いて十分ほどの立地で、広大な駐車スペースもあり、宿泊もでき、食事も楽しめる露天風呂もある立派な温泉です。もちろん日帰り温泉としても利用できます。
 泉質は、低張性で弱アルカリ性で、美肌の湯と呼ばれ、透明でサラリとしたまろやかな湯あたりです。露天風呂、寝転び湯、蒸し風呂、岩盤浴、サウナ、塩のサウナなど充実した温泉設備と、マッサージコーナー、リラクゼーションチェアなどのくつろぎの空間もあります。
 食事処としてもメニューが豊富で充実しています。
 日帰り温泉としての入浴料は、やや高めですが、夜の食事とのセットでの利用では、割安なプランもあります。  永源寺観光は、遠隔地から訪問する場合は、日帰り観光はちょっとたいへんです。この温泉で一泊すると、大自然も、また永源寺の奥にある永源寺ダムなどの観光も堪能できて、充実した観光になります。そのための拠点として、便利な温泉です。近江八幡からの無料シャトルバスも運行されているといいます。

近郊の道の駅と永源寺の駐車場事情

 車利用の場合、八日市方面から「道の駅あいとうマーガレットステーション」(滋賀県東近江市妹町184番)があります。四日市方面からは、国道421号を西に走り、長さ4キロを越える石榑トンネルを抜けてすこし走ったところに、「道の駅奥永源寺渓流の里」(滋賀県東近江市蓼畑町510番地)があります。それぞれの道の駅から永源寺までは、車で30分くらいです。

 永源寺に参拝するために、駐車場がいくつかあります。
 まず、永源寺の入口にある赤い欄干の旦度橋のそばの案内所のところの広場は、無料で駐車できるスペースがあります。十台くらいは大丈夫でしょう。また、すぐ近くと、旦度橋を渡ったあたりには、有料駐車場がいくつかあります。
 永源寺の裏手、東方向の山の中になりますが、そこにも無料の駐車場が確認できました。

永源寺前のバス停の先の案内所と売店
永源寺前のバス停の先の案内所と売店

永源寺の背景――湖東三山:百済寺、金剛輪寺、西明寺

 琵琶湖の東岸と鈴鹿山脈の西側の山中には、「湖東三山」といわれる著名な寺院があります。永源寺の近くにあるのが、百済寺です(滋賀県東近江市百済寺町323)。天台宗の寺院で。山号は釈迦山。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子とされます。金剛輪寺(滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874)も天台宗の寺院で、山号は松峯山。本尊は聖観音菩薩。西明寺(滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26)も天台宗の寺。山号は龍應山。平安時代、仁明(にんみょう)天皇の勅願により三修上人が開山したと伝えられます。

 「湖東三山」とともに、滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地には多賀大社、近江八幡市には、安土城跡(織田信長の居城として築城された城)があります。永源寺の東方向には,永源寺ダムがあり、奥永源寺の道の駅から山中に入ると、惟喬親王像がある神社が山の上にあります。この近辺は、惟喬親王の伝承が色濃く伝えられ、おもしろいエピソードとして、木地師発祥の地としての伝承に、惟喬親王が関与していると伝えられています。それによると「東近江市の東部小椋谷で隠棲された惟高親王は、ある日、転がり広がるお経の巻物と、池の水面で回転するドングリの帽子をみて、ろくろを回して椀を作ることを思いつかれたといいます。早速親王は、このことを村人に伝え、木地作りが始まったのです」という話があります。ここから全国各地に木地師の技法が伝わったとされます。

永源寺への入山口広場、バス停、駐車場、トイレ

 国道421号から永源寺の標識がある道を北に入り、赤い欄干の旦渡橋で愛知川(えちがわ)の深い渓谷を渡ったすぐ右の広場前にバス停があります。ここから、愛知川の渓谷を右に見て、東方向に永源寺の小高い山が感じられます。ここには、案内所とトイレ、売店があり、売店前の広場には無料で十台くらいの駐車スペースがあります。
 入口には、参拝時間として9時から16時と案内がありました。
 車の場合の駐車場ですが、ここの広場が満車の場合は、近くや旦渡橋の南側あたりに、いくつか大きな有料駐車場があります。1日500円くらいのはずです。
 バス停の時刻表を見てみました。近江鉄道バスで、八日市駅行きだと思います。だいたい朝の7時代から夜の7時代くらいまでで、本数は1時間に1本(2本)くらいです。かなりの山の奥地に入るところですから、これでも十分なところでしょう。1本乗り過ごすと1時間のロスタイムとなりますが、周辺の自然や軽食もあります。
 もう一つ、東近江市公共交通政策課が運営している「ちょこっとバス」というバス停もありました。時刻表は2時間に1本くらいで、どういう経路を走っているのか不明でした。一般の観光では利用できないかもしれません。
 入山前には、トイレを利用したいものです。ここのトイレは男子用(数名)と多目的用(一人用)しかありませんでした。女性用が欲しいところですが、入山すればありますので心配は無用です。ここのトイレの入口に、小さな張り紙があり、こう書いてありました。

「ここは滋賀県一きれいなトイレです。美しく使って、清々しい気分でご参拝ください」

「滋賀県一きれいなトイレ」と書かれている案内所となりのトイレ入口
「滋賀県一きれいなトイレ」と書かれている案内所となりのトイレ入口

 決して豪華ではなく広くもありませんが、とても清潔できれいなトイレでした。ただし、男子用はウォシュレットなしですが、多目的用はウォシュレットです。とてもありがたい配慮を感じました。混雑しなければよいですが……。

 案内所を覗いてみると、いくつかパンフレットなどが並んでいますが、その中に、すぐ近くの温泉施設、八風の湯の「入館料300円割引券」がありました。参拝したら、日帰り温泉を割安で堪能できます。充実した施設の温泉ですから、癒やしには絶好です。

参拝路:和泥水~大歇橋~百十段越えの石段、そして十六羅漢像

 さて、ここから入山するには、まず、石づくりの大歇橋で深い渓谷を渡ります。ここが聖域との明確な境界線といえます。この橋の手前に「和泥水(地蔵尊)」という手水(ちょうず)場がありました。
 この手水場には、杓もおいてあります。コロナ騒動以降、あちこちて杓が撤去されているのに、昔ながらの杓があることだけで、嬉しい気分になりました。
 「和泥水(わでいすい)」の説明文を引用します。

「和泥水(和泥合水)と申しますは、道元禅師のお言葉で「泥まみれになって尽くす」という意味であります。善悪の別け隔てなく、一切衆生を漏れなく救済せんとされる、仏様の尊い慈悲の御業(みわざ)を表すお言葉で御坐居ます。此處(このところ)にお祀りいたします地蔵菩薩は、弥勒仏来迎までの長き濁世(じゃくせ)を見守り、六道至るところに衆生済度に向かわれます。擦り切れた衣を纏うて、蓮華の台(うてな)にも休まれず、行脚(あんぎゃ)されるお姿は、正しい和泥合水(わでいがっすい)の菩薩行であります。(大本山永源寺)」

大歇橋手前の手水場の「和泥水(地蔵尊)」の説明文
大歇橋手前の手水場の「和泥水(地蔵尊)」の説明文

これを読むだけで、心洗われるすがすがしくも気高い気持ちになるではありませんか。

  • 永源寺入口にある石づくりの大歇橋
    永源寺入口にある石づくりの大歇橋
  • 大歇橋から総門に向かう石の長い石段(数えたら111段ありました)
    大歇橋から総門に向かう石の長い石段
    (数えたら111段ありました)

 期待がグワンと膨らんで、いよいよ聖域に踏み入れる大歇橋を渡ります。左にV字に刻まれた渓谷の鋭い流れを感じて前を見あげます。
 ドカンと巨大な、そして長い石段が上へと誘って見えました。
 山の中の聖域に入るには、平坦な道はありません。ヒトは、二本の脚で歩けないとそこに辿り着くことができません。足腰が弱っている方には過酷な現実です。都市で広がるバリアフリーなるものは、残念ながら山の聖域には届きません。車椅子の方は、どなたかお二人以上の補助が必要となります。
 この、総門に至るまでの石段、かなりゆったりと造られていて斜度はきつくはありませんが、私が数えたところ、百十一段ありました。標高で三十メートル弱のぼるわけです。蒸し暑い時期では汗だくになってしまいます。  苦労をして登り詰めると、そこに大きな岩に彫り込まれたたくさんの造形が現れます。疲れたと呼吸を荒らげてぜいぜい言っている暇はありません。何やらそこには、仏像のようなものが、荒々しく参拝者を見つめているようです。見守ってくれているのか、喝を入れてくれているのか、怒られているのか、戸惑うほどの圧力がありました。
 十六羅漢像が彫りだされて参拝者の迎えてくれていると考えましょう。
 数えてみました。きちんと羅漢と分かるものもありますが、若干、わかりにくい像もありました。彫りかけてやめてしまったものもあるような……。「十六……ン?、十七?」と私には十七体の像があるような?

総門前の長い石段を上がったところに聳え立つ、巨岩に彫り込まれた十六羅漢像
総門前の長い石段を上がったところに聳え立つ、巨岩に彫り込まれた十六羅漢像

彦根藩主井伊家の霊廟

 永源寺総門に入山する手前北側の山面、十六羅漢像が彫り込まれた岩の裏側の上のあたりに行く別け道があり、そこには「彦根藩主井伊家の霊廟」という説明文がありました。
 東近江市埋蔵文化財センターのブログ(https://ebunkazai.shiga-saku.net/e1343339.html)に、「永源寺の国史跡『彦根藩主井伊家墓所』の調査が行われました」という2017年6月の記事がありましたので、一部を引用します。

「歴代の彦根藩主のお墓は、彦根市の清凉寺、東京都世田谷区の豪徳寺、そして東近江市永源寺に所在します。永源寺には、四代当主直興公(1656-1717)とご側室の墓石3基が築かれました。直興公が、永源寺第八十六世南嶺慧詢(なんれいえじゅん)に深く帰依していたためです」

 臨済宗が、武家に重用されていたことを示す、文化遺産と言えるでしょう。
 昔ながらの歴史を感じさせる墓石が、苔むしているところもあります。家臣の方々の墓所でもあったのでしょう。いまでもお参りされているのでしょうか。半ば風化しかかっているところも、風情と言えなくもありませんが、一抹の寂しさも感じないわけではありませんね。

総門~入山手続き~山門~受付

 いよいよ入山となります。がっちりとした門構えは、かつての戦国時代のバリアーとしての構造でしょうか? 左手前の手水場で、まずは祓い清めの山水を杓に酌んで、左手、右手、そして口と濯ぎ、じっと山水が手水(ちょうず)の器に注ぎ込む音を聞きます。

総門手前の手水場。「洗耳水」と説明されています
総門手前の手水場。「洗耳水」と説明されています

 この手水場には「洗耳水(せんじすい)」と立て看板がありました。どうして「洗耳水」なのかの説明はありません。禅宗ならではの「感ぜよ」あるいは「観ぜよ」という言葉の解釈を避けた表れかもしれません。こう私がこのように、ぐたぐた書いていること自体が、禅では避けるべき、拒絶するべき行為となるのかもしれません。
 とまれ、手水場で手と口、そして耳を清めて総門に向かいます。
 気づきました。ぐたぐたと言葉の説明をつづけます。「洗耳水」で聴覚を濯ぐと、心が清まった気分になるのです。
 私は独り、体験的に納得したのです。禅とは、体験の世界です。口でごちょごちょ言う世界ではありません。そう体感しながらも、私はしかし、言葉でごちょごちょすることを止めることができません。それではレポートを書けないのです。所詮文章なんて、そういうものなんですが、禅というものの前に向かうと、文章書きの業の深さを感じないわけにはいきません。禅定の世界からすると、文章などというものは、愚の骨頂の最たるものとなるかもしれません。

 総門を入る前に、こんな「定」が目につきました。

総門から入山する前の注意書き。ペットは抱いて入山可。三脚をたてなければ撮影自由。
総門から入山する前の注意書き。ペットは抱いて入山可。
三脚をたてなければ撮影自由。

 一、境内は静かに
 一、ペットは抱いて入山のこと
 一、草木の採取禁止
 一、境内では喫煙所以外禁煙
 一、許可なく山門よりは、三脚・ドローン使用の撮影禁止

 これによると、ペット連れは禁止ではなく、人が抱いていれば参拝できるということです。気になるのは写真やビデオ撮影ですが、三脚やドローンを使わなければ禁止ではなく、自由に撮影できるということになります。十分に良心的な説明です。
 総門を入ると、左に入山の券売機がありました。五百円です。チケットを手ににぎりしめ、いよいよ山門に向かいます。
「でっかいぞ、この門は」
 思わず口から言葉が洩れました。巨大な山門、まさにこれは、戦国時代の名残の要塞です。かつて、僧兵が門を守っていた歴史があるはずです。山門の上には、見張り台のようなスペースがあるようです。高さ三十センチ以上もありそうな、高い敷居を踏み越えて、入山しました。

総門を入った左側にある受付。自動販売機で入山チケットを購入
総門を入った左側にある受付。自動販売機で入山チケットを購入

 受付は左側、御朱印所というところで、そこでチケットを渡すと、案内の印刷物が配布され、参拝できる状態になりました。
 受付の方(恐らくお坊様)に撮影のこと、聞いてみました。

「三脚はですね、紅葉の時なんかにはものすごく混雑して、三脚の広げた脚がみなさまの動きの妨げになるので、禁止しています。つまり、三脚ではなく、一脚であれば使ってもよいですよ」

 何とも納得できる、良心的な説明で、ちょこっと感激しました。役所的な事務的ではない、人としての信頼関係を重視する配慮が行間に垣間見えたからです。
 もう一つ、おまけのように、御朱印所の脇に、真っ赤な昔ながらの郵便ポストがありました。簡易郵便局も兼ねているようで、ちょこっと笑える、微笑ましい気持ちになりました。

境内の施設:なんと圧倒的な本堂と、トイレ、喫煙所事情

 境内はそれほど大きいわけではありません。ほどよい庭と紅葉の樹木、苔むした石、しずまりかえった小池が、ほどよい距離、十メートル、二十メートル程度の間隔で配置されています。庭をちょこっと散策するにはほどよい程度。

巨大で勇壮な本堂の屋根は葦葺き
巨大で勇壮な本堂の屋根は葦葺き

 まず目につくのは、南の広い庭に面した本堂の巨大な外観です。何と屋根が葦葺きです。素朴でシンメトリーな美しいフォルム。勇壮であり、圧倒的な存在感、自由なくつろぎを楽しめます。庭の南側は愛知川の深い渓谷に落ちこんだ急斜面です。観光という視点からすると、この庭にベンチがあったら、何時間でも座ってくつろいでいられるかもしれませんが、考え違いをしてはいけません。ここは、禅寺です。禅定の修行の場。そんな神聖な場を、観光のくつろぎの場にしてはいけません。
 庭の南の一角に、鐘楼がありました。
 ちょうど私が庭を歩き回っていた時のこと、梵鐘の音が響きました。私のために、どなたかが鐘を突いてくださったわけではないのでしょうが、まさにグッドタイミング。美しい鐘の響きをいくつか堪能できました(私はことのほか、音や響きが大好きです。ありがとうございます)。

  • 本堂の前の庭の脇にある鐘楼
    本堂の前の庭の脇にある鐘楼

 この鐘楼の脇の本堂から遠い南の一角に、トイレと喫煙所があります。喫煙所は、この日閉鎖されていましたが、トイレ(お手洗い)はもちろん利用できました。男子用は数人程度ですが、ウォシュレット付き、多目的トイレも同様で、すべてがきれいに整えられていて清潔できれいでした。女子用の内部は確認こそできませんが、ほぼ同様と推測できます。

本堂の前の庭の鐘楼のそばにあるトイレ(写真は多目的用)
本堂の前の庭の鐘楼のそばにあるトイレ(写真は多目的用)

 トイレはというと、実は本堂の内部(向かって左の西側)にもあります。ここは本堂に靴をぬいであがって利用できます。多目的用はなかったと思いますが、男女別にあり、男子用は職員兼用ですが、数人利用でき、しかもウォシュレット。清潔できれいなことは言うまでもありません。

本堂のなかにある職員兼用のトイレ(すべてのといれが清潔)
本堂のなかにある職員兼用のトイレ
(すべてのといれが清潔)

境内の建物と庭と池の逆さ文字の洒落

 本堂から奥、つまり東の方向になりますが、左に書院、法堂、開山堂、その奥に含空院と連なっていました。本堂庭から東方向の右側(南側)には、庭からは内部が伺いしれない禅堂、その奥に経蔵、納骨堂、標月亭などが連なっていました。それぞれが渡り廊下で繋がっています。これらの建物は、外からは眺めることができますが、中を見ることができるのは、法堂くらいで、他の建物は、中の様子がわかりません。
 この日、一番東の奥にある含空院から読経と木魚の響きが流れてきました。ここはかなり豪華に見える建物で、奥行きがあります。受付でいただいた案内の印刷物に、「含空院」の英訳を見ると「Chief priest's quarters」とありますので、それからここは、永源寺管長の宿舎と分かりました。つまり、お坊様の生活の場ということになります。

庭から望める含空院の正面外観
庭から望める含空院の正面外観

 法堂の側に、小さな池がありました。何となく見てみると、違和感がありました。

「あれっ、何じゃ? 文字がぎゃくじゃね?」
 近くで庭の梅の木の剪定をしていたお坊様に、再三再四になりますが、聞いてみました。
「あの看板の文字、逆さになってますけど、直さないんですか?」
「ああ、あれば地元の観光協会の方が設置したものです。遊びですよ,遊び……」
「寺が意図してやったものではないのですね」
「そうです。観光協会の方が、おもしろがってやったものです」

 そう言われてあらためて見直してみると、小池の水面に写る「永源寺」の文字が、正立して見えました。洒落が効いている、なかなかユーモアもある寺の配慮に、考案禅を標榜する臨済宗の寛容な一面が感じられる仕掛けです。

法堂の横にある小池の逆さ文字
法堂の横にある小池の逆さ文字

本堂:歴史のオーラを上がって座って見て感じ取れる室内

 歴史的建造物が十を越える境内の中で、唯一、靴をぬいで室内に入れるのが本堂です。ここは、通常の家で言えば、応接間にあたる機能となるのでしょう。恐らく詰めれば百人ほどが上がって座れるだけの、大きな畳敷きの空間です。
 ここには、永源寺の案内ビデオが流れ、さまざまなお守りなどの小物が陳列されています。
 畳みに座ると、墨絵の見事な襖絵の迫力があります。
 この本堂、実は創建時(14世紀)のものではありません。戦国時代に一度ならず兵火、火災で消失したそうで、現在の建物は、1766年(明和2年)井伊家の援助により建立されたものとされます。
 そして特徴的な寄せ棟の屋根ですが、一見して茅葺きだと思ってしまいましたが、調べてみたら、茅葺きではなく、葦(よし)葺きなのだそうです。葦葺き造りとしては国内最大級の大きさだということも分かりました。

  • 本堂内
    本堂内
  • 本堂の巨大な木魚
    本堂の巨大な木魚
  • 本堂から法堂に向かう渡り廊下
    本堂から法堂に向かう
    渡り廊下
  • 本堂内
    本堂内
  • 本堂の襖絵(作者名未調査)
    本堂の襖絵
    (作者名未調査)
  • 本堂の襖絵(作者名未調査)
    本堂の襖絵
    (作者名未調査)
本堂から南庭を見たところ
本堂から南庭を見たところ

この本堂のご本尊は、世継観世音菩薩(秘仏)だそうです。  本堂に上がって、畳で禅の真似事もできます。南面する庭を眺め遣り、ここに二千の僧侶が参集したと言われる数百年以上も前の創生期、栄西が普及した禅の教えは、仏教の歴史のなかでは新しい教説でした。仏教は、戒律を中心にしたものから、唯識などの論理を極めたものや、念仏により大衆に開けたもの、そして秘密の行法から奇跡を発動させるものにまで変転しました。禅宗は、禅という瞑想による悟りを旨とします。
 つまり曹洞宗や臨済宗そして黄檗宗などの禅宗は、禅定という瞑想行を中心にすることにより、大本のブッダが菩提樹の下で成道した原初仏教の根本に立ち返った教説とも言えるものかもしれません。
 永源寺の本堂に座して、創建期に意識をフォーカスすれば、それは直ちに、菩提樹の下に座したブッダの境地の一端を垣間見ることができるインナートリップにワープできるかもしれません。

「ハッハッハ、お前はバカか。そんなもんはお前の妄想だが、ちょこっとだけおもしろかったよ。たまには冗談もおもしろい」

 緩い風が吹いて、緑のまんまの紅葉がこすれ、そんな声になって私の耳の奥底に聞こえました(う、うそです)。

(取材日時:2023年6月21日9時~12時)