
桜の名所「野崎観音」でお花見と古き良き大阪を楽しもう

大阪府大東市にある慈眼寺、通称「野崎観音」をご存知ですか?落語の「のざきまいり」、東海林太郎の「野崎小唄」などで全国的にも知られていますが、古くから大阪庶民に愛され、歴史を感じることができるお寺です。そんな野崎観音は桜の名所としても有名で、参拝をしつつお花見を楽しめます。大東市に住む私が、野崎観音のお花見スポットについてお寺の歴史や魅力と合わせてご紹介します。
野崎観音とは
野崎観音は、大阪府大東市野崎にある慈眼寺(じげんじ)という禅宗のお寺です。ご本尊である観音さま(十一面観音菩薩)をお祀りされていることから、"野崎観音"と呼ばれています。
今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749〜757年)に開基したとされ深い歴史を持つお寺としても知られています。ご利益は縁結び、安産、子授け、開運、厄除けなどです。
野崎観音は飯盛山の麓にあり、本堂は100段以上ある長い石段を登った先にあります。飯盛山はハイカーに人気のハイキングコースが複数あるため、野崎観音は多くのハイカーが参詣しています。
そんな自然豊かな立地が特徴の野崎観音は、春には桜がお寺を彩り、大阪府内でも「桜の名所」として有名です。
野崎観音のお花見スポットをご紹介
野崎観音の境内には約200本のソメイヨシノが植えられており、春には美しく開花しお花見を楽しめます。
ここでおすすめのお花見スポット5つをご紹介します。
*お花見スポット*
①桜のトンネル
本堂へ続く長い石段の両脇には桜が咲き乱れ、「桜のトンネル」として有名です。石段を踏み外さないよう注意しながら桜を楽しんでください。
②山門越しの桜と大阪平野
野崎観音の境内からは大阪平野を一望できますが、春には桜も合わさり素晴らしい景色を楽しめます。
③本堂を取り囲む桜
④南側の山門から望む桜
境内の南側にある山門の向こうにはすぐ下に続く石段があります。ここにも多くの桜が咲き、山門の中から見るととても美しい景色が広がっています。
⑤風情豊かな池と桜
ここからは、野崎観音にまつわる面白い歴史や野崎観音の魅力をたっぷりご紹介します。
知れば知るほど面白い野崎観音
野崎観音は、元禄時代から続く伝統的な行事である「野崎まいり」でも有名です。
●野崎まいりとは
野崎まいりは毎年5月1日から8日までの期間中に行われる法要で、有縁無縁のすべてのものに感謝するお経をささげるものです。参道には約200店もの露店が出て賑わいます。
私が大東市に移住した2022年はコロナ禍で残念ながら露店は出ていませんでしたが、開帳は規模を縮小して行われていました。
この野崎まいりの様子は東海林太郎の「野崎小唄」や落語の「のざきまいり」でも知ることができます。
●「野崎小唄」で知る野崎観音と古き良き大阪
野崎観音は昭和初期にヒットした東海林太郎の「野崎小唄」という民謡の舞台となったことで全国的に知られています。
ですが、平成生まれの私は「野崎小唄」を知らず、大東市に移住してから見かけるようになった「野崎小唄」に興味があり調べてみました。すると面白い"古き良き大阪"を発見したのでご紹介します。
✳︎歌詞:「野崎小唄」(1番抜粋)
野崎まいりは 屋形船でまいろ
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人
※「野崎小唄」は3番まであります。
1.江戸時代、野崎観音は屋形船で参詣していた? 「野崎小唄」は歌の1番から3番まで『野崎まいりは 屋形船でまいろ』というフレーズから始まります。これは江戸時代に野崎観音まで屋形船を使って参詣する野崎まいりが流行し、歌ではその風景や江戸時代の風習が歌われています。
ここで気になるのは、“当時は野崎観音の前まで川が流れていたのか?”ということ。調べるとその通りで、当時は大阪市内からJR野崎駅周辺まで屋形船が通る水路があったそうです。
・船を使った野崎観音までの行路
大阪城近くの八軒家浜(現在の天神橋付近)から船で寝屋川を上り、角堂浜(現在のJR住道駅付近)で下船し、そこから歩く場合と観音浜(現在のJR野崎駅付近)まで田舟に乗り換えて行く場合がありました。
・野崎まいりと水路の歴史
現在の大阪府柏原市あたりに流れる大和川は人工のもので、江戸時代初期までは大阪平野を南から北へ複雑に分流して流れていたようです(現在の石川から淀川までの広範囲において)。
ですが、洪水対策や新田開発のため江戸時代の中ごろ(宝永元年:1708年)に大和川の付け替え工事が実施され、現在の大和川の位置に移りました。
これにより、旧大和川筋は新田開発が進み、水路や船着場が整い水上交通が発達。現在のJR野崎駅周辺には「観音浜」があり、「野崎井路」という水路が整備されました。
そのことにより、大阪市内から野崎観音までほぼ歩かずに参詣できたことから野崎まいりは人気となり、日帰り旅行のような娯楽として大阪庶民に定着していったようです。
2.野崎まいりの道中は口喧嘩を楽しんでいた?
「野崎小唄」の1番では『呼んで見ようか 土手の人』と歌われています。“土手の人”とは、川沿いの土手(街道)を歩いて野崎観音をめざしている人をさしています。
野崎観音までの行路は水路と街道が並行していて、寝屋川を行く屋形船の乗客と土手(街道)を歩いていく人々との間で、互いを冷やかしたり罵ったりする「ふり売り喧嘩」という口喧嘩の風習があったそうです。"呼んで見ようか"とは、この「ふり売り喧嘩」を表しています。
・ふり売り喧嘩とは
「ふり売り喧嘩」とは、相手かまわず手当たり次第に喧嘩を吹きかけることで、喧嘩に勝てば一年の幸を得られるという俗信があり、江戸時代には野崎まいりの名物だったそうです。
ただし、口喧嘩だけで石を投げたり、けっして怒ってはいけないという暗黙のルールがあったようです。
この「ふり売り喧嘩」は落語の「のざきまいり」の題材にもなり、大阪庶民が互いに皮肉を言い合うことを楽しんでいたことがわかります。
「ふり売り喧嘩」という風習も、大阪の商売人気質に影響するのかな?と考えるとより面白味がありますよね。
●現在の「野崎まいり」の風景
当時の「野崎井路」がたどり着く「観音浜」があった場所には、JR野崎駅があります。
「野崎小唄」を知ることで江戸時代の野崎まいりを知り、当時の様子を想像して楽しむことができます。 ですが、現在、屋形船が通っていた水路はなくなり、残念ながら当時の野崎まいりの風景を見ることはできません。屋形船でいく野崎まいりは明治の中ごろから徐々に人気がなくなり、昭和に入り屋形船はなくなったようです。
現在のJR野崎駅付近の地図ですが、当時の水路はありません。
・鉄道の登場により人気を落とす
現在のJR片町線の前身、「浪速鉄道」が野崎まいりや四条畷神社への参詣鉄道として明治28年(1895年)に開通し、次第に人々は鉄道を使うようになります。
さらに、大正には大軌鉄道(現在の近鉄奈良線)が開通し瓢箪山・石切・生駒・奈良への参詣が盛んになり始めると、相対的に野崎観音の人気が落ちていったようです。
昭和に入り鉄道が電化するとより人々は舟を使わなくなり、「野崎まいり」行きの舟はなくなったそうです。
JR野崎駅近くには「観音浜」の石碑があります。「観音浜の由来」が記されていますので、ぜひ近くを通る際は見てみてください。
・「市の名所」として残る野崎まいり
屋形船でいく野崎まいりの風景は、「市の名所」として大東市のマンホール蓋に描かれています。
大東市のホームページには下記の通り紹介されています。
“大東市のマンホール蓋は「野崎まいり」です。写真とは違い、色が付いてないと分かりにくいかもしれませんが、これは享和元年(1801年)に刊行された秋里籬嶌の「河内名所図絵」巻六中で描かれている丹羽桃渓の挿絵より引用しています。
季節は春、野崎まいりの道すがら、舟と陸とでかけあう情景が描かれています。”
(大東市ホームページより引用)
まさに、野崎まいりの「ふり売り喧嘩」の様子をマンホール蓋からも見ることができます。
また、野崎観音の参道にあるマンホール蓋は、たった一つだけ他と違って挿絵通りカラフルです(筆者調べ)。ぜひ野崎まいりに行かれる際はマンホール蓋もチェックしてみてください。
女性へのご利益でも有名な野崎観音
野崎観音は多くの人々から信仰を集めていますが、特に女性にはご利益があるとされています。
その理由の一つには、本堂の右隣にある「江口の君堂」で「江口の君」という仏様がお祀りされていることからです。
●「江口の君」とは
「江口の君」とは、平安時代から鎌倉時代にかけて摂津国江口(現在の大阪市東淀川区)にいた遊女の総称です。また、謡曲「江口」で西行法師と歌問答をしたとされる遊女の「妙 (たえ)」をさします。
江口の君さまは縁結び・安産・子授け・婦人病などに悩む、あらゆる女性をお守りくださると言われています。そのため、特に命日にあたる毎月14日は多くの女性の方が参拝に訪れているそうです。
私も出産前は安産祈願として江口の君さまへご挨拶させていただきました。無事に元気な赤ちゃんを出産できましたが、きっと仏様が見守ってくださったおかげだと思っています。
女性のご利益に興味のある方は、ぜひ江口の君さまも参拝されてください。
いかがでしたか?桜の名所や「野崎まいり」で有名な野崎観音は見どころたっぷりの素敵なお寺です。大阪の歴史も感じられる野崎観音、ぜひお花見シーズンや5月の「野崎まいり」に参拝されてください。