センチメンタルジャーニー~菊姫慰霊の旅~
第一章 弁財天様の嫉妬
1
「俺たち、別れよう」
久しぶりに呼び出された井の頭公園のベンチで、隼人は唐突に切り出した。
「ウソ、どうして?」
少し先の梅林では梅が満開だった。
こんな春麗らかな日に、プロポーズでもされたら││
頭の中をお花畑でいっぱいにしていた私は、思わず膝から崩れ落ちた。
「私に何か、不満があったの?」
「いや、何も不満はないんだ」
隼人は歯切れ悪かった。
不満がないなら、別れるなんて言い出すはずがない。
私は釈然としなかった。
「私は隼人のこと、大切に思っていた。この間だって、ウチの実家から届いたヒオウギ貝、全部隼人が食べたでしょ」
私は大分の中でも「ド」が付くほどの田舎、佐伯市出身だ。
時々実家から送られてくる地元の品々は、決まって隼人のお腹の中に収まっていた。
「確かに、福子の地元の食材は最高だし、料理の腕は認める。イリコで出汁をとった味噌汁は美味かった。昆布と椎茸で出汁をとったおでんは、もっと」
「料理の話じゃないよ」
「そうだね」
隼人は項垂れた。
医師の父親と元客室乗務員の母親のもとに育った隼人は、世間に揉まれておらず、元来、優しい男なのだ。
「嫌なところがあったら、きちんと教えて欲しいの。改善したいから。前向きにね」
私はウンと優しさを込めて告げた。しかし、隼人は首を振った。
「福子が変わる必要はないんだよ。俺が、福子に付いていけないだけで」
「どういう意味?」
私は目を丸くした。
「例えば、この間、初めて福子の実家に行っただろ?」
私は頷いた。付き合って、ちょうど二年目の記念日だった。
どちらともなく、結婚を意識し始めていた矢先、隼人のほうが、挨拶に行きたいと言い出したのだ。
「俺が買っていったお土産を『まずはご先祖様に』ってお仏壇に供えていたよな?」
「そうよ。何が問題なの?」
私は首を傾げた。
「だから、問題じゃないよ。ただ、俺は、そういうスピリチュアルな家に育っていないから」
「スピリチュアル?」
私は目を見開いた。自分自身が、スピリチュアルな行為をしているとは、夢にも思っていなかった。
「遺影に向かって話しかけていただろう? 『隼人さんがおじいちゃんの好物を持ってきたから、食べて下さいね』とか」
「ちょっと待って」
私は手を上げた。
「私にとって、それって、スピリチュアルな振舞いじゃないよ」
「そうなの? でも、他にもさ、福子ってご飯が炊けたとき、ブツブツと言っているじゃん」
「ブツブツじゃないよ。荒神様にお礼を申し上げているの。『今日も美味しいご飯を炊いて下さって、ありがとうございます』って」
「俺は、そういうの、よく分かんない」
隼人は爽やかに、しかし確実に、一刀両断した。
「私のそういう田舎っぽいところが、面白いって言ってくれていたのに?」
「最初は新鮮だった。実際、今だって、悪いことだとは思ってはないんだ。ただ、結婚となるとさ」
隼人は言葉を濁した。
「齟齬が生じると思うんだ」
「私、隼人に強要なんかしないよ」
私は拳を握った。
同時に、頭の中では、出会ったときのことが浮かんだ。都会的でスマートな隼人とのデートは楽しい記憶しかなかった。
私の独りよがりだったのか?
「俺の家はさ、お仏壇も床の間も、何なら和室すらないんだよ。殺風景な都会のマンションでさ」
「床暖房が完備されているんでしょ? 良いじゃない。私が歩み寄る」
私は胸を張った。
「じゃあさ、逆に訊くけど、お墓を捨てろって言ったら、捨てられる?」
私はギョッとした。
「そんなの、捨てられる訳ないでしょ」
「そうだろ。それが問題の本質だと思うよ。俺たちは絶対にすれ違っていくから。今別れたほうがまだ、痛みが少ないと思うんだ」
隼人は立ち上がると、手を差し出した。
「最後に、握手して別れよ」
隼人は遠慮がちに私の顔を覗き込むと、微笑みかけた。
それが、決定打になった。
私は猛然と立ち上がると、隼人の手をピシャリと払いのけた。
「飛躍が甚だしくて、お話にならない」
鬼の剣幕に、隼人は後ずさった。
「もう二度と、夢の中にも現れなくて結構よ」
私は肩を震わせて、井の頭公園を出て行った。
2
「早苗、いるなら出てくれない?」
日曜日の午前九時。
豊洲にある高級賃貸のインターホン前で、私はスマホに向かって叫んでいた。
「朝っぱらから何よ︙︙」
擦れるような声がインターホン越しに聞こえた。
一拍遅れて扉が解除されると、私はそそくさと中へ入った。
和田早苗は同じ高校出身で、唯一、東京にいる幼馴染だ。
経済学部を出て、会計士を目指していたところまでは知っている。が、今は何の仕事をしているのか、聞いてもサッパリ分からないのだった。
エレベーターを降りたところで、寝ぼけ眼の早苗がヌウッと現れた。
「健全な大人が、よくそんな恰好で表に出て来られるわねぇ」
私は呆れてみせた。髪の毛はボサボサ、唇はガサガサ、足元は裸足にスリッパである。
「健全な大人は、日曜日の朝っぱらに人の家を訪ねて来ないわよ」
早苗は文句を垂れながらも、ドアを開け、私を家に入れてくれた。
「佐々木氏と別れたんだって?」
スリッパを脱ぎながら、早苗は切り出した。全くもって、容赦ない。
「そうだよ。ムカついたから、もう夢にも出てくるなって怒鳴った」
「それ、まだ未練があるって感じがするけどね」
早苗は欠伸をしながら、ワンルームしかない部屋のドアを開けた。
まだ、カーテンも開けられておらず、薄暗いままだった。
「未練も何も、信じられないよ。親に何て説明すればいいの? この間、ウチに来たばっかりだったのにさ」
「良かったんじゃない? ボンボンだと思っていたけど、去り際だけは評価する」
早苗はベッドに腰かけた。
「アンタの傷は最小限に食い止めたと思うことにするわ」
私は黙ったまま窓際まで行くとカーテンを引いた。シャララララン、と派手な音がして、光が溢れた。くらくらするほどの晴天だった。
「お茶くらい淹れてもらえると有難いんだけど」
「勝手に淹れて。ティーバッグのお茶しかないけど、アタシの分も淹れてくれる?」
早苗はそのままゴロンと横になった。
仕方なく、私はキッチンの戸棚を物色した。マグカップの後ろに、見慣れたお茶の缶があった。
「ねぇ、因美茶があるよ!」
因美茶は佐伯のお茶だ。ゲンジボタルが舞う清流・番匠川で生産されている。
「ホント? 忘れていたわ! おばあちゃんが送ってくれたんだけど、ウチ、茶こしも急須もないのよね」
早苗は動く気がないらしく、横になったまま応えた。
私は因美茶の賞味期限を確認すると、まだ安全圏内だった。
お湯を沸かしている間に、再度、戸棚の中を漁った。早苗の言った通り、茶こしはなかったが、小さなザルが見つかったので、代用することに決めた。
「急須くらい買いなさいよ!」
私は頭だけを捻って説教した。
「一人分を淹れるのに急須じゃ、勿体ないじゃん。ちなみに、お湯呑もないから。マグカップを使ってね」
私は絶句した。確かに戸棚に湯呑はなく、マグカップが雑然と並んでいるだけだ。
私は溜息をついた。
「タワマンに引っ越したって言うから、どんな生活をしているのかと思ったけど、荒んでいるわね」
「私の話は、今はいいわよ。自分の破局について話したくて、来たんでしょ?」
私は項垂れた。その通りだ。
「今回は遂に、プロポーズだと信じていたんだよね」
マグカップを温め、丁寧にお茶を淹れながら呟く。早苗は足を延ばしていた。
「見当違いだったね」
「ウン。それでさ、もう、眠れなくなっちゃって。今週は毎晩、ネットサーフィンをしていたの」
「ほう」
私がガラステーブルにお茶を運んでいくと、早苗はやっと体を起こした。
「後から分かったんだけど、井の頭公園のボートにカップルで乗ると、別れるっていうジンクスがあるんだって! 池の畔にお祀りされている弁財天様が嫉妬するんだって」
「そんな馬鹿な」
早苗はまともに取り合ってくれなかった。
「確率の問題でしょ。行く人が多い場所は、分母が増えるんだから、当たり前じゃん」
「そうかなあ」
私は眉根を寄せた。
早苗はベッドから降りると、ガラステーブルの前にペタンと座った。
「弁財天様で思い出したんだけど、佐伯に大日寺ってあったじゃん。覚えている?」
「通学路の途中でしょ? 煙草屋さんの隣だったっけ?」
私は頷いた。佐伯の船頭町にある大日寺は、真言宗のお寺で、弁財天を祀っている。
「私たちさ、大日寺で悪戯ばっかりしていたじゃない? 境内で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたりさ。弁財天様、私たちの仲の良さにも嫉妬していたのかしらって、不安になってさ」
私は自然と小声になった。早苗はお茶を啜った。
「不安がる要素は、一ミクロンもないと思うけれど? だって、神様でしょう? 祟りじゃないんだから」
「でも、私たち、結婚できないじゃん?」
私は早苗の目をジイッと見た。
「私たち、二人とも、顔はそこそこじゃない? 愛嬌だってある。頭だって、悪くはない」
「自己評価が高いのね」
早苗は呆れた様子で頬杖をついた。
「私たちはもう二十九歳。三十路も近いのに、お互いに結婚に漕ぎつけられないのは何故?」
「まさか、弁天様のお怒りのせいだっていう気?」
「その通りよ」
私はブンブンと首を振った。それから、ビリヤードの球を突くように、早苗の弱点を狙った。
「ねえ、早苗だって、いつかは、結婚したいんでしょう?」
私は知っている。自称サバサバ系の早苗も、結婚願望に対しては、私と大差ないことを。
「まあ、『いつか』はね。失敗したとしても、一度くらい、おばあちゃんに、花嫁衣裳を見せたいとは思っている」
「じゃあ、決まりね。来週、私と行こう」
私はお茶をグググ、と飲みほした。
「行くって、どこに?」
早苗は訳が分からない、という顔をしていた。
「決まっているじゃん。大日寺に、よ!」
「どうして私とアンタが、来週、大日寺に行くわけ?」
早苗は大声を出した。本当に、まるで理解できていないらしい。
「大日寺の菊姫の伝説は知っているでしょ?」
「醜悪な姿になったお姫様が弁財天にお祈りして、美しい姿に戻してもらったってお話でしょう?」
「さすが、端的にまとめてくれるわね。それでね、私たちも功徳を積むべきだと思うの。菊姫をきちんとご供養すれば、万事が上手く行く確信があるのよ」
早苗はお茶を噴き出した。
「ご供養って言ったって、江戸時代の人でしょ。それに伝説だよ? 実在したかどうかも分からないし、お墓だってあるのか、ないのか、聞いたことない」
「だから、行くのよ」
私はキッパリと告げた。
「行ってみて、この目で確かめるの。私の一世一代の大仕事だから。早苗と行きたいんだよ」
「大袈裟だねえ」
早苗はお茶を飲んだ。もう随分冷えてしまったはずだ。
「もう一回、温かいお茶、淹れるからさ! お願い! 久しぶりに佐伯に帰ろうよ」
「お茶一杯じゃ、私の日当には足りないよ。馬鹿だねえ、相変わらず」
窓から差し込む日差しの中で、早苗は声を上げて笑った。久しぶりに聞く、早苗の明るい声のような気がしていた。
第二章 陸の孤島!? 大分県佐伯市へ
1
「福子! アンタ、目のクマは、どうしたの?」
羽田空港の「太陽の塔」の前で、早苗は通行人も驚くほどの大声を出した。
「色々と準備が大変でね︙︙。それより、遅れてゴメン! 待ったでしょう?」
私はハンカチで顔の汗を拭きながら謝った。
「予定到着時刻よりも二本も前の電車に乗ったはずなんだけど」
「それなら予定がそもそも間違っていたんじゃない?」
早苗はズケズケと言い返しながらも、私のスーツケースを代わりに持ってくれた。
「自分のスーツケースは? もう預けたの?」
早苗はショルダーに、小ぶりのバッグ一つだった。
「私の荷物はこれだけよ? アンタ、二泊三日なのに、何を詰め込んできたの?」
早苗は歩き出した。
「とりあえずチェックインしよう。乗り遅れちゃうと大変だから」
私たちのフライトは、十二時半だった。既に出発まで三十分を切っている。ゆっくりとお昼ご飯を食べる余裕がないどころか、チェックインもギリギリだ。
早苗は出張には慣れているのか、羽田空港に詳しかった。
「大分行きの搭乗ゲートはいつも遠いよね。しかも今回は搭乗口八十九だから、空港の果てだわ。バスラウンジから、バスに乗らなくちゃいけない」
私は驚いた。上京して数年経つが、搭乗ゲートからバスに乗る便は初めてだ。
「連休だから混んでるのかな?」
「さあね。大分行きの便に人気がないから、隅っこに追いやられているんじゃない?」
早苗は大股で闊歩した。私は必死に付いて行った。
搭乗口に辿り着くと、既に乗る人たちが集まっていた。とても不人気の便だとは思えない。
「大分のくせに、本日満席だってよ」
早苗は小馬鹿にしたように呟いた。
少しだけ時間があったので、私たちは大急ぎで売店へ行った。
簡単な弁当を購入すると、あっという間に優先搭乗が始まった。
「なんだか、ワクワクするね」
私は早苗に笑いかけた。すると、早苗は初めて不安そうな顔をした。
「福子、大丈夫? なんだか相当、具合が悪そうに見えるけど?」
私は苦笑いを浮かべた。早苗の観察眼はすごい。到底、敵わない。
「中に入って話すわ。寝てしまうかもしれないけどね」
2
「橘香道先生って、知っている?」
シートベルトの着用サインが消える頃、私は早苗に問いかけた。
「聞き覚えはないね。何の先生?」
博覧強記の早苗でも知らなかったか。私は足元の手荷物から、一冊の本を取り出した。
「写経。しかも普通の写経じゃないんだ」
「うわ、こんな古い本、どこで手に入れてきたの?」
早苗はあまり触りたくなさそうな目で本を見つめた。
「菊姫を供養するなら、最適な方法で供養しなければ、と考えたのね。図書館に行って、探していたら、偶然にも見つけたの」
私は頁を捲った。
「先祖供養の手法が詳細に記載されているんだけど、写経十八枚が必要なの」
「まさか、アンタ。目の下のクマって︙︙」
私は潔く頷いた。
「ええ、ええ。お察しの通りよ。毎晩、徹夜で写経を書いていたの」
早苗は仰け反った。
「旅行の日程を決めたの、先週なのに? 写経って一枚書くのに、一時間以上、かかるでしょう? よくぞ、そんなに書けたね」
「早苗、半分正解だけど、半分は不正解だよ。まだ全部は書けてないの。墨を磨って書かないと駄目だから。一枚仕上げるのに、二時間はかかるの」
「うそーん」
早苗は仰け反り、素っ頓狂な声を出した。思わず、私は早苗を引っ張った。
ちょうど客室乗務員が、通りがかったからだ。
客室乗務員は、訝しがりつつも、笑顔で飲み物の注文を取った。
「アイスコーヒー、二つでお願いします」
早苗は何事もなかったかのように、答えていた。客室乗務員からコーヒーを二つ受け取ると、一つは私に差し出した。
「墨で磨らなくてもいいんじゃない? 筆ペンで充分でしょ?」
「それが、ダメなの。ここに詳しく書いている」
私は該当箇所を開いた。
「私たちの体は、炭素と水素が結合して生かされているの。般若心経もね、同じ波動が必要なの。墨を磨ることで、墨汁が生きるんです」
「だって、筆ペンだって、墨汁じゃん。墨を磨ったものでしょ?」
早苗はろくに読みもせず、眉をひそめた。私は言葉に詰まった。
「私では弁が立たないから、興味があるなら自分で読んでみてよ。早苗のほうが頭も良いんだし」
早苗は「やれやれ」というように首を振った。
「仕方ない。まぁ、ここまで来たら、とことん付き合うけどね」
「そうこなくっちゃ」
私は早苗に本を手渡した。大事なところには、私が付箋をしている。
「ただ、アンタは寝なよ。どうせ、飛行機の中では写経もできないでしょうし」
早苗はパラパラとページを捲っていた。どうやら、読んでくれるらしい。
「分かった」
私は目を瞑った。
3
「荷物も受け取ったし、とっととバスに乗るよ!」
飛行機を降り、御手洗に立ち寄っている間に、早苗は私の荷物を回収していた。
「ごめん! バスのチケット、予約してないんだ。買ってから乗ろう」
私は小走りで早苗に追随した。
空港連絡バスの案内板は、到着ロビーの前にある。
私は電光掲示板を見上げ、目を疑った。
「次のバスは五時五十分発!? 今まだ三時前なのに?」
早苗はすぐさま有人の案内所へ駆け寄った。しかし、すっかり意気消沈して、戻って来た。
「コロナの影響で、減便になっているんだって。知らなかった。佐伯行きのバスは一日に三本しかないらしい。今の便に接続しているバスはないみたい」
私も驚いた。
そもそも、大分空港から佐伯までの交通手段は、車か、バスしかない。
ペーパードライバーの私たちは、自力で動くとなると、バス一択だ。
「バスがないとは想定外だ。ますますアクセスが不便になったね」
私の発言に、早苗は顔をしかめた。
「他人事みたいに呟かないでよ。どうして予約をしておかなかったの!」
「私に任せたのが間違いだったね」
叱られても、今更どうしようもない。
「リアルに、どうする? 福子のお父さんか、お母さん、迎えに来られる?」
早苗の大胆提案に、私はギョッとした。
今回の里帰りは、完全にお忍びだった。実家に寄れば、隼人との破局について、質問攻めに遭う事態が目に見えていたからだ。
「お父さんは平日仕事だし、お母さんは佐伯市内しか運転できない」
私は小さな声で反論した。
「そっか。確かに福子のお母さん、車線変更ができないって話だったものね。仕方ない。大分駅行きのバスに乗って、JRに乗り換える?」
早苗は自分の親は当てにしていない様子で、さっそく乗換情報を調べ始めた。
私は再び、電光掲示板を見上げた。大分駅行きのバスに乗るならば、十五分後だ。
「慌ただしいな。第一、JRだって本数は少ないに決まっているし。大分駅で、荷物を持ってウロウロするのも、面倒だし」
「大分駅行きのバスに乗ったほうが、早く到着するけど、大差はないね。どのみち、着くのは夜だし、今日は大して何もできないわ。もう、いっそのこと、ゆっくり行く?」
私は強く頷いた。
既に疲れていたし、大分駅で精力的に動き回る気分ではなかった。
「東京から大分に来て、ショッピングしたって物足りないからね。足湯でも浸かってノンビリしようか」
「さすがに三時間はキツイだろうけど。他にすることもないからダラダラするか」
私たちは文句を垂れながらも、空港内の足湯へと向かった。
4
佐伯に到着すると、周囲は真っ暗だった。夜空には、星が光っている。
山をバックにした佐伯駅は、闇の中に溶けていきそうだった。道を歩いているのは、私たち二人だけだ。
「やっと着いた。一日がかりだったね」
バスを降りた私は、ウンと伸びをした。
「もはや、陸の孤島だね。観光地として、別府に後れを取る理由が分かったわ」
早苗も私の意見に賛同していた。
「それで、ホテルはどこを取ったの?」
バスの運転手から荷物を受け取りながら、早苗は私に訊ねた。私は一瞬、口籠った。
「それが︙︙。まだ押さえられていないんだよ」
早苗が驚いて私を見た。私は身構えた。
「どうして?! あんなに時間があったのに!?」
「とにかく写経が大変で︙。佐伯ならどこでも空いているだろうと思ったの。でも、さっきバスの中で確認したら、金水苑も、セントラルホテルも、空いていないんだよ! びっくり!」
「びっくりじゃないでしょ。ホテルニュー佐伯は?」
「とっくに潰れたはずだよ」
早苗がカッと目を見開いた。
「やばいじゃん! 早く実家に泊めてくれって電話しな。城山で野宿とか、私は絶対に嫌だよ!」
早苗が吠えた。しかし私も断固拒否した。
「実家は今回、寄りたくないんだよ! 大丈夫。野宿は絶対に回避するから」
しかし、早苗は聞いていなかった。
「何が大丈夫なのよッ! 根拠のない自信なんか、要らないんだから!」
早苗は本気で怒っている。私は途方に暮れて周囲を見回した。
すると、今まで見たこともない、眩い看板が目に飛び込んできた。
「ちょっと早苗! 佐伯にホテルルートインができている!」
私は声を上ずらせた。佐伯駅から徒歩数分の場所に、真新しいホテルルートインが聳え立っていたからだ。
「救世主だ。行こう、今すぐ! 走れ!」
早苗は私を追い立てた。
ホテルルートインの駐車場は満車に近く、私たちは不安に駆られながら中へと入った。
二十時台だと言うのに、二つしかない受付には人が並んでいた。
『宿が取れなかったら︙』
私の胸に不安がよぎった。祈るような気持ちで、順番を待っていると、遂に私たちの番が来た。
「今夜ですけど、泊まることってできますか?」
神に祈るような気持ちで、私はスタッフの一挙手一投足を見つめた。
「今日ですか? 二名様ですか?」
若い女性のスタッフは、珍しそうな顔で私たちを交互に眺めた。
「はい、その通りです」
早苗が大きな声で返事をする。その声が威圧的で、私は背筋がシャキンとした。
ホテルスタッフは画面を操作して確認していた。一瞬が、永遠にも感じられた。
やがて、ホテルスタッフは顔を上げた。
「ツインのお部屋なら空きがありますよ。よろしいでしょうか?」
私は早苗と顔を見合わせた。心の中では、ガッツポーズをしていた。
「お願いします!」
私たちの声が揃った。
とりあえず、今夜の宿は確保できた。後は、残りの写経に取り組むのみ、だった。
第三章 いざ! 大日寺へ
1
「早苗、そろそろ起きて! どうしよう。忘れ物をしてしまったよぅ」
ホテルルートインの一室で、私は早苗の体を揺さぶった。
「もう起きたの?」
早苗は目を擦りながら、上体を起こした。
「もう起きたも何も、寝てないんだよぅ。結局、写経が朝までかかってしまって」
「ウソ!? 夜通し書いていたの?」
私は頷いた。やはり、一週間で写経十八枚を仕上げるのは、地味に大変だった。
「本当は明るく清潔な部屋で、伸びやかな気持ちで書くべきなんだろうけど」
「現代の働きウーマンに日中の活動は無理じゃない? そこまで神経質になる必要はないよ」
早苗は珍しく慰めてくれている。だから私も素直に受け止めることにした。
「今からでも寝たほうが良いんじゃない?」
早苗は欠伸をすると、もう一度寝ころんだ。
「駄目だよ。今から寝たら、昼まで寝てしまう」
「たまの休日なんだから、良いじゃない?」
「モーニングの時間、終わってしまうよ」
私はベッドサイドテーブルに置いた朝食チケットを指した。早苗はハッとしていた。
「確か、バイキングだったよね?」
早苗は猛スピードで着替え始めた。
「そうよ。ビジネスホテルだし、早く行かないと、良いメニューからなくなるよ」
実際のところは補充があるかもしれないが、私は嘯いた。早苗はダッシュで洗面台に行った。
「それで、何の忘れ物したの?」
どうやら、寝ぼけていても話は聞いていたらしい。
「六文銭よ」
「ロクモンセン!?」
早苗は歯を磨きながら、洗面所から出てきた。
「昨日、橘香道先生の本は読んだでしょう? 写経十八枚のうち、六枚は地に埋めて、六枚は水に流し、六枚はお焚き上げする予定なの。地に埋める写経には、お団子六つと一文銭が六枚必要なのよ」
私は説明した。
「読んだけども! まさか、本気でそこまでやるつもり?」
早苗は歯磨きをしながら、モゴモゴと叫んだ。
「本気以外ないでしょ? 御供養をするときは命を懸けて行え、って記載してあったよ」
私はベッドサイドに腰かけた。モーニングに出かける準備は整っていた。
「三途の川を渡らなきゃ、成仏できないでしょ? 三途の川を渡る際には、お金が必要なの。それなのに、家に置いて来ちゃったのよ」
私は悲哀に満ちていた。
「ねえ、どっかに売っていないかな? リサイクルショップとか」
早苗は洗面所に戻ると、うがいをして、再び現れた。
「リサイクルショップは佐伯にもあると思うけど。古銭は、絶対に売っていないと思う」
早苗はキッパリと断言した。
私は項垂れた。
「どうしよう。他に思いつくところ、ある?」
早苗は腕組みをして、眉根を寄せた。しばらく目を瞑って考えていた。
「もし、あるとしたら、葬儀社にないかな? 昔、おじいちゃんが亡くなった時、一緒に棺に入れたような記憶があるけれど」
「さすが、早苗! ちょっと電話して訊いてみる!」
私は時計を確認した。まだ八時過ぎだったが、田舎の朝は早い。
私は中央葬祭の電話番号を調べると、電話をかけた。
電話はすぐに繋がった。
「お電話ありがとうございます。セレモニーホールでございます」
年配の女性の声だった。
「松本と申します。ちょっとお聞きしますが、古銭の取り扱いはございますか?」
私は急に丁寧な口調になって訊ねた。
「コ、コセン?」
女性は驚いて訊き返した。多分置いてないのだろう、という残念な予感しかしなかった。
「三途の川を渡るときに必要な昔のお金です。一文銭が六枚欲しいんですが」
「はぁ︙︙。残念ですが、取り扱いはございませんね」
やっぱりダメか。私はお礼を述べて電話を切った。
「駄目だ。置いてないって」
「そうなんだ。他に思いつくところはないわ」
早苗はアイラインを引きながら、スッパリと諦めているみたいだった。
「どうしよう。六文銭がなかったら三途の川を渡れないよ」
私は途方に暮れた。
「悪いけど、私の見解を忖度無しで述べさせてもらって良い?」
早苗はアイライナーを置くと、私を振り返った。
「正直、もう三途の川は渡っていると思う。江戸時代の人でしょ?」
私はムッとした。今更、水を差さないで欲しい。
「旅の趣旨に反するようなこと、言わないでよ!」
「分かった。じゃあ、こう考えてみよう。菊姫は徳の高い人だったんでしょう? だから、渡し賃はオマケしてもらってください、と願うの」
「エーッ」
私は絶句した。
「本に書いてあるからって、四角四面にやらなくても問題ないでしょ。 考えてもみて? アンタの実家は毎朝、荒神様にお茶をお供えしていたんでしょ? でも、アンタの住まいは今、神棚もない。ご飯を混ぜる時にブツブツとお礼を言っているだけでしょ?」
隼人と言い、早苗と言い、どうして荒神様に食いつくんだろう。そう思いつつも、私は言い返せなかった。
「上手に申し上げれば良いのよ。『今回、お金をお持たせできなくて、誠に申し訳ございません。しかし、あなたは生前、徳を積まれました。誰もができることではございませんから、ご経験をアピールしてみて下さい。きっと助けて下さる方が、お近くにいらっしゃるはずですよ』とかね」
私は舌を巻いた。さすが、都内で荒稼ぎをしているだけのことはある。
「ちょっと他力本願な感じもするけどなぁ」
「今どき、他人様の土地に古銭なんて埋められないよ。ちょうど良かったと思いましょ」
早苗はビューラーで睫毛をカールさせると、手早くマスカラを塗った。
「化粧は終わった。とりあえず、ご飯を食べに行こう」
2
久しぶりの地元で食べる食事だった。ビジネスホテルのバイキングとは言え、なぜか美味しい気がする。
「多分、水が違うからだと思うわよ」
早苗は朝から二杯目のご飯を食べながら分析していた。
「佐伯の水は確かに美味しい。だけど、昨晩、部屋の水でお茶を淹れたら、びっくりするほど、不味かった」
私は唐突に思い起こしながら、ぼやいた。
早苗は笑いながら味噌汁を啜った。
「アンタはお茶の味に煩いからね。ティーバッグだったからでしょ?」
私は首を傾げた。
「分からない。それよりさ、天気、悪いね。お焚き上げ、できるのかなぁ」
私は窓の外を見ながら呟いた。
「ホントね。ここ数日、ずっと晴れていたのに。日頃の行いが悪いんじゃないの?」
早苗はフルーツポンチにヨーグルトまで食べていた。随分とよく食べる。
「酷い言い草。私、晴女なのよ? ここぞ、という日はいつも晴れ」
「そうだっけ? 晴れている日にしか、動いてないんじゃん?」
早苗はニヤリとした。私は早苗を殴る真似をした。
「天気予報によると、昼からも引き続き雨だって話だったけど、どうする?」
早苗は一応、色々と調べてくれているらしい。私は唸った。
「どうだろう? 先ず主目的を果たしたい気はする︙︙」
「御意」
早苗は立ち上がった。部屋に戻るのかと思ったら、珈琲を二杯持って来た。
「珈琲を飲んだら、部屋に戻ろ! そろそろエンジンをかけないとね!」
差し出された珈琲を見ながら、私は手を合わせた。
「せっかく持って来てくれたのに、ごめん。私、珈琲はダメなの。飲むと、お腹を下しちゃうから」
「そうだったっけ? そう言えば、いつも日本茶か紅茶だっけ?」
早苗は間の抜けた顔をして、立ち尽くす。
何十年と友達をやっているのに、今まで知らなかったのか。
私は立った。早苗のためには、ミルクとお砂糖がもう一セット、必要だった。
3
部屋に戻っても、雨が止む気配はなかった。
私たちは荷物をまとめ、今日の段取りを確認し合った。
「お寺に行く前に、花屋に寄りたいの。シキビをお供えしないといけなくて」
「本を読んだから、分かっている。どこの花屋に行く?」
大日寺の近所に、花屋はなかった。私は予め調べておいた花屋を報告した。
「花の店たなかが良いんじゃないかなと思う。シキビが、あるかどうかは分からないけど」
「シキビじゃなくても、榊や松じゃなければ構わないって書いていたよね? 佐伯の花屋なら、何らかの供花はあるでしょう」
シキビに関して、早苗は楽観的に結論づけた。
「あと、お団子はどうするつもり? 蝋燭やお線香なんかも要るでしょう?」
早苗のチェックは細かい。何なら、旅に出る前に、本を読ませておけば良かった。
「蝋燭やお線香の一式は持ってきた。お団子も、作って来たよ」
私が威張って告げると、早苗は驚いていた。
「自分で?!」
「私以外に誰が作るの? 簡単だよ。粉に水を入れて丸めて、茹でたら完成なんだから」
「私なら、作ろうっていう発想にならないわ。アンタって人は、やっぱり、すごいね」
早苗に褒められて、私は張り切っていた。
「準備は万全のはず」
「六文銭以外ね。行くか」
早苗は立った。私は、部屋のカードキーを抜いた。
私たちは部屋を出ると、エレベーターのほうへ向かった。
「天気に関してはどうしようもないね。花屋までは、タクシーに乗ろう」
エレベーターに乗り込みながら、早苗が提案した。早苗は決断が早い。
私は同意した。
「︙︙っと、その前に、確認だけど、今夜のホテルも押さえていないんだよね?」
早苗はジロリと私を見た。私は萎縮した。
「お察しの通りでございます」
「そうだと思った」
エレベーターを降りると、早苗はツカツカとカウンターに向かった。カウンターには、昨晩の女性の姿はなかった。
その代わりに、キビキビした感じの男性スタッフが担当していた。
「スミマセン、今晩、もう一泊泊まりたいんですけど、お部屋は空いていますか?」
早苗はさっそく確認を取った。
「あいにく、本日は既にご予約が埋まっております」
男性は打てば響く速さで応えた。私と早苗は顔を見合わせた。
「一部屋も?」
私が食い下がると、男性スタッフは丁寧に頭を下げた。
「ご希望に沿えず、誠に申し訳ございません!」
遂にホテルルートインでも、予約が取れないのか。私は暗澹たる気持ちで、早苗の顔色を窺った。
しかし、早苗は切り替えも早かった。
「とんでもない。タクシーを呼んで下さる? どこのタクシーでも構わないわ」
早苗はビジネススマイルまで浮かべていた。天晴な女だ。
「承知いたしました。ロビーでお待ち下さい」
男性スタッフはすぐさま、電話をかけてくれた様子だった。
早苗は私のスーツケースを移動させると、ロビーのソファーに腰かけた。
今度はどんな説教が飛び出してくるのか。私はソワソワしながら、早苗の後ろ側に立った。
早苗が振り向いた。口を開きかけた時だった。
「お客様! タクシーのご到着です!」
4
タクシーの運転手は気の良さそうな初老の男性だった。
「こんにちは! 今日は観光やな。どこから?」
運転手は私の荷物を持ってくれながら、気さくに話しかけてきた。早苗は会釈だけして、席に乗り込んだ。
「東京から来ました」
私が率先して答えると、運転手は機嫌良く喋った。
「東京! 別嬪さんじゃけん、都会んし(都会の人)と思った! それでお客さん、どこまで?」
「城南にある花の店たなか、までお願いします」
私が花屋を指示すると、不思議そうな顔をした。私は苦笑いした。
「お参りで帰ってきているんです。出身は佐伯なんですよ」
私は運転手の疑問に答える形で種明かしをすると、大袈裟に褒めてくれた。
「お墓参りにわざわざ! 偉いなあ。雨が止むと良いなぁ!」
私は頷いた。
「本当に、今すぐにでも上がってくれると助かるんですけど」
運転手はその後も、ラジオのように一方的に話を続けた。
マスク越しなのに、活舌の良い人である。その間、早苗は一言も発しなかった。
運転手とは、花の店たなかの駐車場で別れた。
5
花の店たなかは繁盛しているらしかった。店内には、沢山の生花と共に、リースやスワッグなどの商材が並べられていた。
「シキビ、あるかな?」
洒落た店内で、早苗が囁いた。私も同じことを思っていたところだった。
狭い通路の先に、女性の店員が二名並んで作業をしていた。
私は挨拶すると、さっそく訊ねた。
「シキビを二本、お願いしたいのですが、扱っていますか?」
「ありますよ。ちょっと待っていてくださいね」
店員の一人が、お店の外へと消えていった。少しだけ待った後、店員はモリモリのシキビを一対、手に持って、戻って来た。
「結構、大きいですね」
私は目を見張った。本には、しきびの枝二本と書いてあったはずだが、二本だけ欲しいとは言い出しにくい。
「お墓参りか、何かですか?」
「ちょっと事情がありまして︙︙。お地蔵様にお供えする予定なんです」
菊姫の供養を人に説明するのは、至難の業だ。店員はキョトンとした顔をしていた。
横から、早苗が口を出した。
「持って来ていただいて恐縮ですが、一束を二つに分けられます? こちらが想定していた以上に大きくて︙︙」
早苗は上手に頼み込んだ。
「構いませんよ。すぐにご用意いたしますね」
店員さんは、シキビを結った輪ゴムを解くと、手際良くまとめ直してくれた。すぐさま一回り小さな束が完成した。
代金を払うと、店員さんは感じのよい笑顔を浮かべてこう言った。
「雨の日のお参りは、大変ですね。でもきっとお地蔵様も喜びますよ」
6
降りしきる雨の中、私たちは大日寺の山門をくぐった。
「まずはご供養をするって、住職には断わっておこうと思うの。お焚き上げについても聞いてみないといけないし」
私は早苗を振り返った。シキビは早苗が持ってくれていた。
「最低限のマナーだよね。私も一緒に行くわ」
私たちはまず、寺務所に向かった。
寺務所は自宅を兼ねているかのような造りだった。
「そういえば、大日寺の息子さんって、小学校の二個下にいたよね」
「いたいた。継いだかどうか、知らないけど」
私たちは傘を畳むと、ピンポンを押した。
しばらく何の音もしなかった。私が背筋を伸ばして待っていると、中から人の足音がした。
「はーい。どうぞ、開けて下さい」
女の人の声だ。私は引き戸を開けた。
ガラガラガラ、と音を立てて、玄関扉が開いた。中には、すらっとした女性が、立っていた。
「ごめん下さい。松本と申します」
私は土間に上がってから頭を下げた。
「この度、菊姫の伝説を知って、是非、ご供養したいと思い、東京から参りました」
私は予め用意していた台詞を懸命に喋った。
実際は、目の前の女性に見覚えがあった。
大日寺の息子さんのお母さん、つまり、住職の奥様だ。
しかし、私は佐伯出身という事実は伏せたままにしておいた。女性は目を大きく開いていた。
「東京から? 良くいらっしゃいましたね」
女性は品良く微笑むと、玄関先に正座した。
「ありがとうございます。ご供養にあたって、いくつかお聞きしたいことがあるのですが、宜しいでしょうか」
私が訊ねると、女性は居ずまいを正した。
「私に分かることでしたらお答えしますよ」
「この度、御供養のために写経を勉強して参りました。橘香道先生という方の手法で先祖供養をしたいと思っております。橘香道先生は、御存じでしょうか」
私の突然の質問に、女性は惑った様子だった。
「ごめんなさい。良く知らなくて︙︙」
「橘先生は、写経を書いてお終いではなく、その後どうすべきか、提唱された方です。ご先祖様の供養に当たっては、般若心経を十八枚書いて、六枚は土に埋め、六枚は焼き、六枚は流さなければなりません」
私は本の説明通りに述べたが、心許なかった。やはり、理路整然と喋るのは苦手だ。早苗から話してもらえば良かった。
「土に埋めると言いますと?」
女性はわずかに首を傾げた。
「菊姫様のお墓にお参りして、その前でも後ろでも良いのですが、埋めなければならないのです。ただ、菊姫様のお墓はないのですよね?」
私は額に汗をかいていた。後ろからは、早苗の冷たい視線を感じてもいた。
「家老の娘だったと伝えられておりますが、仰る通り、お墓は残っていないですね」
「お墓が辿れない場合は、お地蔵様にお願いすることも可能のようでして︙︙。大日寺さんの境内で埋めたり、焼いたりできればと思うのですが、ご協力いただけないでしょうか?」
私は、勇気を振り絞ってお願いした。ただし、私のお願いは相当、唐突なものだったに違いない。
「お参りしていただくのは自由ですが、それは︙︙。今日、境内で写経を燃やすということですか?」
「できれば」
私は被せ気味に言った。女性は驚いていたが、落ち着いていた。
「今日は住職がいなくて。お墓のどこかで、燃やしたり、埋めたりして良い場所があるかもしれないのですが、私には分からなくて。ごめんなさいね」
女性は申し訳なさそうに謝った。私は一つ、悟った。
何もかも、準備不足だった。
「謝らないで下さい。突然訪問した私が悪いのです。事前に申し上げれば良かったのに、ごめんなさい」
私は折れそうになる心を何とか強く保とうと、質問をした。
「住職がいらっしゃらないとなると、本日はお焚き上げも難しいですか」
「雨も降っていますからね」
私は心の中で項垂れた。このままでは来た意味がまるでない。
その時、後ろで黙っていた早苗が助け舟を出した。
「大日寺さんでは、お焚き上げ自体は、受付されているんですか?」
「決まった金額や日時で承る、というようなことは、していないんですが、預かることはできますよ」
私は目の前がパッと明るくなるような気がした。
「そうしましたら、今からご供養だけしますので、最後に六枚だけ写経を預かっていただけますか? お寺のものをお焚き上げする際に、一緒に焼いていただけませんか?」
早苗は丁寧に質問を重ねた。女性は微笑んだ。
「それなら、住職に私から頼んでおきますよ。ご供養が終わったら、もう一度呼び鈴を鳴らして下さい」
「ありがとうございます! 心から感謝いたします」
後ろで早苗が深々と頭を下げると、バッグからお布施を取り出した。私も慌てて早苗に倣った。
7
「早苗、ありがとう! 何とかなりそうで良かったよ」
寺務所を出ると、私は早苗にお礼を言った。
「アンタ、全然要領を得ないまま喋り出すんだもん。後ろでハラハラしたよ。あんな喋りじゃあ、先方も訳が分からないじゃない? 営業職なんかは勤まらないだろうね」
早苗は傘を開きながら断罪する。
「ハイハイ、営業マンじゃないんだから、許してもらえるかな?」
「ご供養の場所を決めたらね」
早苗は先にスタスタと歩き始めた。
大日寺の境内は、そこまで広くはない。
山門から入って右手側に大師堂。左手側に護摩堂。正面奥に本堂があり、境内の中央には厄除大師の像が建立されている。
「アレッ? この厄除大師、私が覚えているのと違う。もっと汚かったような記憶がある」
早苗は立ち止まり、厄除大師を見上げた。
「汚いなんて、失礼な物言いは止めてくれる?でも、そう言われてみれば、まだピカピカだね」
右手に錫杖、左手に鉢を持つ姿は変わらない。しかし、銅像の色が違う。
記憶の中にある厄除大師は、雨に打たれて、もっと苔むした表面をしていた。
「思い出した。昨年の地震で、倒壊したって話だったわ。建て直したんじゃない?」
「なるほど。お寺さんも大変だね」
私たちは境内の中をウロウロとした。
「菊姫のお墓がない以上は、お地蔵様に頼むしかないと思うんだよね」
私は呟いた。実際、大日寺の境内にはお地蔵様がいくつも建立されていた。
「寺務所の横にもお地蔵様は沢山あるけれど、屋根がないと蝋燭の火が消えるよね?」
私は早苗に訊ねた。早苗もあちらこちらを行ったり来たりしながら、検討してくれた。
「確かに、屋根がない場所は無理だよ。 写経の字も滲むだろうし。観音様の場所はお堂になっているから大丈夫だとは思うけど、どう?」
私は観音様のお堂を見渡した。「ふれ愛観音」と呼ばれる観音様は、小さなお堂の中に安置されている。
花立には、美しい供花が生けられていた。
「観音堂なら火は消えないだろうけど、写経を置くスペースがないね」
私はお供物のスペースを想定して却下した。
「やっぱり、厄除大師の前しかないかな。本に紹介されている方法とは少し違うけれど、やり遂げられる場所は、厄除大師前しかない」
私は厄除大師を見上げながら提案した。
厄除大師の前には、雨避けがあり、お線香立てなどの一式が備わっていた。
「良いんじゃない? ここなら、六地蔵も、ほかのお地蔵様も見える。私たちを見守って下さるでしょう」
早苗も同意していた。場所が決まれば、あとは実施するのみだ。
私たちは厄除大師の像の前まで戻り、傘を畳んだ。
私はスーツケースの中から荷物を取り出した。
「まずは写経三組とお団子」
私が手渡し、早苗が上手に配置する。
「蝋燭二本とお線香。チャッカマン」
「お線香とチャッカマンは、ここにもあるよ」
早苗がお寺の物を指した。
「使っても良いんだろうけど、せっかく持ってきたんだから、自分のを使おう。次にシキビだけど」
「もう入らないよ」
観音堂でも感じていたが、大日寺は手入れが行き届いている。花立には青々としたシキビが供えられていた。
「どうする? 買って来たのに」
私は早苗からシキビを受け取った。
「花立に無理に入れるのはお寺さんに悪いだろうからね。このまま、立ててみる?」
私はしゃがむと、そっと地面に立てた。
「倒れないで固定できるなら、これで良し」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「あとはお水じゃない? お湯呑み、持って来ているの?」
早苗に急かされて、私は水筒を取り出した。
「割れたら危ないから、お湯呑みは持って来なかったの」
「水筒ごと、お供えするの?」
早苗は目を丸くした。
「花立に注いで、飲んだことにしていただこうかな」
既に、シキビの花立は水がひたひたに入ってはいた。が、水ならば溢れても良かろう。
準備は整った。
「今から火を点けるよ。ここからは特に厳粛にお願いします」
私は左手で数珠を持つと、一礼し、合掌した。その後、チャッカマンで蝋燭に火を灯した。
雨の音が少しだけ、遠くなったような気がした。
お線香は一本ずつ、火を点けた。香炉には全部で六本の線香を立てた。
「厄除大師様、大日寺のお地蔵様に申し上げます。松本福子が菊姫をご供養するのに、この場をお借りしますので、どうか、皆さまの功力を以ってご供養を成就させてください」
言葉は、少しだけアレンジした。私は一息で言った。
「佐伯で亡くなった菊姫の御霊様、この御霊の依り代においで下さい」
本によると、この言葉を言えば、御霊はどこで亡くなっていても、シキビの葉にいらっしゃるはずだった。
私は目を閉じ、耳を澄ませ、真心から言った。
「令和五年二月二十四日を良き日と定めて、松本福子が御供養いたしますから、どうか般若心経の功徳を以って成仏し、この世に残した一切の想いを外して、安らかに成仏して下さい」
しばらく頭を垂れた後、私は居直った。早苗も殊勝にしていた。
雨はまだ降り続いていた。私は早苗のほうを向いた。
「ありがとうございました。これで、最初の御供養は終わりです。埋める場所と流す場所については、後で考えるとして、いったん寺務所に戻ろう」
私たちは、いそいそと片付けを始めた。
本来であれば、この場で、写経六枚を埋めなければならなかった。しかし、厄除大師の前を掘る訳にはいかない。
線香はそのままで問題ないだろう。私は写経六枚だけを手元に残して、他の荷物をスーツケースの中に入れた。
「シキビは、置いていけないよね?」
私は早苗に訊ねた。
「後で、一緒に流さないといけないんじゃなかった?」
早苗は真顔で応じる。
「ホントだ! 失念するところだった!」
早苗はしゃがむと、シキビを抱えた。
「忘れ物はないね? そうしたら、寺務所に戻りましょ」
私たちは再度、寺務所を訪れると、写経六枚を預けて、大日寺を出た。
第四章 褒美と天罰
1
「何だかドッと疲れが出ちゃった。まだ、半分も目的を達成できていないのに」
早苗は舗装された道路を歩きながら、呟いた。
「分かる。ちょっと休憩する? 写経を流す川と埋める場所については、休みながら考えよう」
大日寺から佐伯小学校のほうへ歩いていると、こじゃれた雰囲気のお店が見つかった。
「つなぐ茶屋? 佐伯には似つかわしくないほど、洒落ているね」
早苗は興味津々で看板のメニューを見ていた。
「ちょっと冷えたし、私、ラテでも飲もうかな」
私たちはお店のドアを開いた。
店員は、私たちよりもずっと若い女の子だった。
早苗は温まりたい、と言っていたくせに即決でイチゴのパフェを頼んでいた。私は悩んだ末、「あまざけと抹茶」という初見の飲み物をオーダーした。何でも、お抹茶に甘酒がブレンドされているらしい。
「新しいお店だから、一瞬、分からなかったけど、鶴見園が運営している喫茶店なんだね」
私は店内の掲示を見ながら、早苗に話しかけた。
「鶴見園が出しているんだ。随分と垢抜けた造りになったね」
早苗もこっそりと耳打ちした。
鶴見園は街角にある、古い、小さなお茶屋さんだった。よくおばあちゃんのお使いで、御煎茶を買いにいったものだった。
「この一帯は桜ホールができたり、道も整備されたりして、昔の面影はなくなったね。ちょっと寂しいけれど、それが時代ってものだよね」
早苗は呟く。
佐伯を出たのは十八だった。気が付けば十年の時が流れている。古い建物は取り壊されて、新しいお店が増えていた。
「町並みが心の中に残っている。だけど、それに固執するのは、街を去った人の都合かな。佐伯に住む人々は、時代に応じて、新しいものを築いていくんだと思う。そうやって、街は続いて行くんだと思うよ」
私は考えながら言った。
「イチゴのパフェでお待ちのお客様、できました」
先に呼ばれたのは、早苗だった。
「見て、美味しそうでしょ」
早苗は嬉しそうにパフェを運んで来た。
「先に食べてね。溶けちゃうし」
私はカウンターを振り返って眺めると、ちょうどお茶碗にお湯を注いだところだった。丁寧に、茶筅で点ててくれるらしい。これは、期待が高まる。
「あまざけと抹茶のお客様」
しばらくしてから、私も呼ばれた。
「どんな味なの」
早苗も興味津々らしかった。
一口飲んでみた。抹茶の苦みと、甘酒の甘味がふんわりと口に広がる。
「摩訶不思議な味がする。今まで飲んでみたことのない味。飲んでみる?」
私が説明すると、早苗は噴き出した。
「いいえ、遠慮する」
「どうして?」
「アンタは、美味しいものの時は絶対に人に薦めないで、独り占めして食べる。知っているよ」
私はムッとした。
「そんな人聞きの悪い。珈琲が苦手なこと、気付いていなかったくせに」
「だって、事実なんだもん。それよりさ、どこに写経を流す? このシキビ、雨の中、持ち歩くの、大変なんだけど」
早苗は足元に立てかけたシキビをつついた。
お茶屋さんで和んでいる場合じゃ、なかった。私は我に返った。
「どうしようかな。本には、良く流れる川って書いてあったけど。やっぱり番匠川じゃない?」
「でも、こんなに沢山のシキビ、流したら怒られるよ。不法投棄で。今、色々と厳しいんだから」
早苗はイチゴパフェをほじりながら私を牽制した。
「見ている人いるかな?」
「番匠川だったら、いるね。堤防を走ったり散歩したりしている人、多いから」
早苗はもぐもぐと口を動かしながら言った。
「全部流さなくても良いんじゃない? もともとシキビは枝二本って記載だったんだから。葉を二、三枚流せば良くない?」
早苗が提案し、私は目を瞑った。その瞬間に、パッと良いアイディアが閃いた。
「私に考えがある。少し、寄り道しても良い?」
早苗は私を見つめた。
「アンタの思い付きかぁ。怖いなぁ。イチゴパフェ、食べ終わってからにしれくれる? 今、幸せな気分なの」
「承知!」
私は満面の笑みを浮かべて、早苗が食べ終わるのを待つことにした。
2
「番匠川に行く前に、祖母の家に寄りたいの。構わない?」
つなぐ茶屋を出ると、私はさっそく早苗に訊ねた。
「構わないけど、実家には寄りたくないって話していなかった?」
「うちの祖母は、口が固いから。両親に言わないで、って頼めば、約束は必ず守ってくれる」
私は自信満々で言い返した。
「アンタのおばあちゃんの家、城南だったよね? 番匠川に行く途中なら、ちょうど良いじゃん。私は池船公園で待っているから、どうぞ、ごゆっくり」
早苗は賛同してくれた。
「ゆっくりもしていられないけど、御仏壇だけお参りして来ようかな。シキビも、持って行く。菊姫様だけお参りして、自分のご先祖様に挨拶しないのも、おかしいでしょ?」
「そりゃ、そうだ」
私たちは船頭町を超え、城南まで歩いた。
「池船公園も、様変わりしてる!」
池船公園脇の交差点で、早苗は声を上げた。私たちがよく遊んでいた公園は、遊具が取り払われて、三階建ての防災避難所になっていた。
「フーン。この高さで津波から身を守ることができるかって問われると疑問だけど。何もないより、マシなのか」
早苗はけんもほろろに言ってくれる。
「限りある税金を使って建てられるのは、この規模だったんでしょう。ねえ、私、急いで行ってくる」
私は早苗からシキビを引き取った。
「急がなくても問題ないわよ。防災避難所を見学しているから」
早苗は手をひらひらさせると、私に背中を向けた。
3
祖母の家は、お勝手口と玄関が横並びにある。
玄関の扉は閉まっていた。私は勝手口に回って、ドアを開けた。
「おばあちゃーん!」
東京であれば有り得ないことだが、祖母宅の勝手口は、滅多に鍵がかかっていない。
私は靴を脱ぐと、勝手に中に入った。
祖母は耳が多くて、私の声も聞こえていない恐れがあった。
「誰ー?」
どこかからか、声が響いた。私がうろうろしていると、いた。祖母は風呂場で、掃除をしていた。
「あれ、福ちゃん? たまがったよう(びっくりしたよ)」
「うん。久しぶり!」
祖母は手を洗うと、台所へと引き上げた。
「帰っちょったんやなぁ。ばあちゃん、知らんかったよ」
知らなくて当然だ。両親にも話していなかったのだから。
祖母はさっそく湯を沸かし始めた。
「人を待たせているから、お茶は要らないよ。それより、シキビを持ってきたんだけど、もらってくれる?」
私は早速、シキビを差し出した。
「シキビなんか、どうしたん?」
祖母は驚いていた。
「ちょっと事情があって、お寺さんにお参りしてきたから、このシキビは、お下がりなの。良かったらお墓に使って欲しい」
私はシキビの束から必要な分だけを枝を抜いて、残りを祖母に渡そうと考えていた。
「ありがとう。そうしたら、机の上に置いとって」
「分かった。私は、ちょっとお線香をあげてくるね」
私はお仏壇のある部屋へと行った。
祖母は私の後ろをついて来て、ストーブに火を入れてくれた。
「お寺さんはどこに行っとったん?」
お参りが終わると、後ろにいた祖母から声をかけられた。
「大日寺。ちょっと人に頼み事をされて、急遽、帰省することになって」
私は大急ぎで嘘をこしらえた。
「実家にも寄りたいんだけど、時間がなくて。だから、今日、おばあちゃんちに来たことは、内緒にしておいてくれる?」
私は祖母を見つめた。すると、祖母はふうっと息を吐いた。
「ご先祖様の前で、嘘つきんさんな、福ちゃん」
私は目を白黒させた。
「どうして、嘘って︙︙」
「そりゃあ、分かるよ。福ちゃんは嘘が下手やけん」
祖母は静かに言った。
「福ちゃんが突然、一人で帰ってきても、誰も責めん。ばあちゃんも。いつでも、帰ってきていいんで。ここは、福ちゃんの家なんやから」
私は返事に詰まった。
「おばあちゃん、私︙︙」
隼人に振られた、と打ち明けようとして、私は、ふと気が付いた。
祖母には、何もかも既にお見通しなのだろうという事実を。
今年のお正月に帰省し、その二週間後に隼人を連れて行ったばかりだった。
祖母だって、次に帰省するときは、結婚の挨拶だろうと踏んでいたはずだった。
「構わん、構わん。言いたくないことは、わざわざ言わんでいい」
祖母は優しかった。その温かさが胸に沁みて、私は別れて初めて涙が出てきた。
「おばあちゃん、ごめん。期待させとったかもしれんのに」
隼人のことが好きだったかどうか、今となっては、よく分からない。
だけど、私は多分、結婚そのものに随分と憧れていた。
結婚して、家族を喜ばせたいという気持ちが先走っていたのかもしれない。
「自分のことだけ、考えたらいいんやけん。ばあちゃんは、福ちゃんの幸せだけ、毎日お祈りしとるから」
祖母は私の手を取った。皺皺の柔らかい手。
その手に包まれて、私はもう一度、涙した。
4
池船公園に戻ると、早苗はベンチに腰かけて待っていた。
「もっとゆっくりしてきても、良かったんだよ」
私は首を振った。
自分にとって、祖母との交流は、ご褒美のような時間だった。
「充分、羽を休めて来た! さぁ、一仕事、終えますか!」
私が伸びをすると、早苗もベンチから立った。
私たちは連れ立って、堤防へと歩いた。
「堤防に上るの、何年ぶりかな?」
放課後の遊び場だった堤防は、自然がいっぱいだった。
土筆が食べられることも、彼岸花に毒があることも、私は堤防を通じて知った。
盆踊りも、中秋の名月祭も、全ては番匠川のほとりで行われていたものだ。
私たちは堤防に上り、川を見て、息を呑んだ。
「ええッ︙︙!」
番匠川の水量は、想像以上に少なかった。
「これじゃ、浮かべても流れないね」
私は率直な感想を述べた。
「天罰なんじゃない? 雨も降っているのに、何なん?」
早苗は声を荒げた。私は無言で堤防を降りて行った。
一応、河原まで近づいてみた。しかし思ってみない水位だった。川が流れている場所までは、河原の石段を更に降りていかなければならない。
「私は、無理なんですけど。今日、パンプスだし」
後から到着した早苗が宣言する。
確かに、河原の石段には藻がついていて、ぬめっている。私も足元を見つめた。
パンプスではないが、比較的新しいスニーカーだ。
「ほかの場所を探すか」
私はガックリと肩を落とした。
第五章 海の幸 山の恵み
1
なかなか、一筋縄ではいかない。
菊姫の慰霊を掲げながらも成就しないことに、私は不安を感じ始めていた。
「でも、まだ半日もあるし、気長にやろうよ。そろそろ、昼ご飯を食べに行こう」
早苗は呑気に言い放つ。
「朝食、大盛りのご飯を食べて、さっきはスイーツも食べたのに? また、お腹が減ったの?」
私はびっくりして訊いた。
「だってもう、正午を過ぎているよ? 腹が減っては戦が出来ぬって言うでしょ。何かお腹に入れないと、私は戦闘力を失う」
私は眉をひそめた。
「何と戦っていたのか知らないけどさ。早苗は戦闘力を失ったくらいがマイルドで、ちょうど良いのかも?」
私がぼやくと、早苗は露骨に歩く速度を緩めた。
「もう、歩け、ません」
ロボットのように、早苗は動きを止める。
「ハイハイ。お寿司でも食べに行こう」
私は面倒くさくなって提案した。早苗は喜んでいた。
「待っていましたぁ! 錦寿司、まこと寿し、福寿司! どこにする?」
私はポケットからスマートフォンを取り出して調べた。
「錦寿司はコロナ禍で、閉店したようですッ」
「ええええ」
早苗は飛び上がって驚いていた。
「ここから、一番近いから良いかなと思ったんだけど」
「残念過ぎるね。亀八寿司っていうお寿司屋さんもあるよ? インスタで出てくる!」
私は亀八寿司の女将が更新しているインスタグラムの画像を見せた。
早苗は俄然やる気になった。
「よしッ! 今日は亀八だ!」
シキビの枝は流せていないし、写経を埋められそうな場所も、見つけていない。
しかし、先ずは昼食をとると決めた。
2
亀八に到着したのは、一時前だった。ランチの時間帯には、間に合ったが、駐車場は満車だ。
「満席だったら、まずいよね? 佐伯市でまさかのランチ難民だよ」
しかし、私の不安をよそに、早苗は店に飛び込んで行った。
「いらっしゃいませ~。何名様ですか?」
明るい声が飛んでくる。
「二名です」
早苗は満面の笑みを浮かべてピースサインを作っていた。
「承知いたしました。どうぞ」
寿司職人さんらしき男性は、人数を確認するとさっそく中へ案内してくれた。
助かった︙︙。
ランチにありつけなかったら、と懸念していた私は密かにホッとしていた。
「メニューは、こちらです。決まったら、お呼び下さいね」
職人さんが去るやいなや、早苗は身を乗り出し、メニューを眺め始めた。
はるか昔、「佐伯の殿様、浦で持つ」とも言われた佐伯市は、海の幸が豊富だ。鰤も、鯵も、何でも美味しい。
「こらぼ丼、あなご寿司︙︙。目が迷子になるね」
「そう? 私はもう決まったよ。見た瞬間に決めた。ごまだしうどんがついた、お寿司のセット!」
早苗はメニューを指先で弾いた。
「確かに、佐伯でしか、お目にかかれない料理だもんね」
私はメニューを覗き込んだ。
ごまだしとは、佐伯の郷土料理の一つだ。
焼いたエソをほぐし、醤油、胡麻をすり合わせて、まぜて作る。一見、簡単そうだが、エソは小骨が多く、実際に作るとなると根性と時間が必要な料理だ。自分でもなかなか作れない。
「決めた。私も、同じセットにする」
私たちは、二人仲良く同じ品をオーダーした。
ワクワクしながら料理を待っていると、早苗が私に切り出した。
「この後、どうするかだけど、せっかく佐伯に来たんだし、少し観光しようよ」
「佐伯観光!?」
私は驚愕した。わざわざ、見て回るようなものがあっただろうか。
「国木田独歩館も、観光交流館も、私たちが高校生だった頃はなかったでしょ? だから、ずっと見てみたいと思っていたんだ」
早苗はしゃあしゃあと喋った。
しかし、私は諸手を挙げて賛成することができなかった。
「菊姫の慰霊はどうするの?」
「城山に埋めたら良いんじゃない? 菊姫ゆかりの土地と言えば、佐伯。佐伯のシンボルは城山。誰がどう考えても、城山に埋めるのが一番でしょ」
早苗は光の速さで応える。
私が考え込んでいると、ちょうど料理が運ばれてきた。
ふんわりと、香ばしい胡麻の香りが漂ってくる。
「ごまだしを食べれば百万力よ。考えないで、麺が伸びる前に、食べよう」
早苗は、元気よく言うと、割りばしを威勢よく割った。
3
亀八寿司を出ると、私たちの出身校・佐伯鶴城高等学校まで行った。
今年は何でも、佐伯市からドラフト二位でプロ入りした選手がいることで、校門には横断幕が下がっていた。
「城山で走ってトレーニングしていたらしいよ」
私はテレビのニュースで見た情報を告げる。
「すごいよね。天才は、英才教育を受けなくても、抜きんでるんだろうね」
早苗も横断幕を見上げながら、感心していた。
鶴城高校を抜けると、山の麓には養賢寺がある。ちょうど梅が見頃だったので、写真を撮っていると、僧侶が声をかけて来た。
「ごめんなさいね。中には入れなくて」
知っていますよ、と思わず声が出そうなところを飲み込んだ。養賢寺は修行寺で、拝観の受付はしていない。中高生の社会科見学なども一切断っていた。
しかし、養賢寺前で、こんな風に、親切な僧侶に出会うのは、初めてだった。
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、僧侶は微笑んでいた。
「門の手前までだったら、問題ないですよ。ぎりぎりに近づいたら、少しは中が、見えますか」
今度は私が笑顔を浮かべる番であった。
私たちは、門の前まで行き、僧侶に頭を下げて別れた。
「アンタも、ああいう男にしなよ。お高くとまった奴じゃなくてさ」
僧侶が消えてしまったあと、早苗は歯を見せて笑った。
「何? 修行僧?」
私は惚けながら、石畳の道を歩いて行った。
4
国木田独歩館も山の麓、養賢寺沿いにある。
その名の通り、明治時代の小説家・国木田独歩が若かりし頃、下宿した邸宅だ。
館の前まで来ると、ひな祭りを示す桃色の旗が立っていた。
失恋のせいで、すっかり忘れていたが、もうすぐひな祭りだ。
「グッド・タイミングに来たんじゃない?」
早苗はもうすっかり菊姫の慰霊を忘れているのか、ウキウキと弾んでいた。
私は苦笑しながら、中へと入った。
正直、あまり期待はしていなかった。
しかし、和室の入口付近で、私は足を止めた。
郷土雛が赤い毛氈の上に沢山並べられていたからだ。
「これだけの数、並べるとなると圧巻だね。素晴らしいね」
早苗も黙々と人形を見ていた。
一階の全て部屋を見て回ってから、外に出た。
庭に出るなり、私たちは再度、足を止めた。
「この景色って︙︙」
早苗は瞠目していた。私にも、見覚えがある光景だった。
中央の池に、美しく伐られた低木。瓦屋根の小屋。大きな山茶花。
「小学校の時だっけ? 登山ルートから外れて、ここに降りて来たことが、あったよね?」
私が訊ねると、早苗も頷いた。
「後にも先にも、私が教員に怒られたことって、あの時だけだったから覚えている」
私たちは、しばらくの間、立ち尽くしていた。
小学生だった頃、私たちは授業でも、課外活動でも、よく城山に登った。
大らかな時代だった。教員の目も、それほど行き届いてはおらず、私たちは獣道を歩いて遭難しかけた。その時、たまたま降り立ったのが、この庭先だった。
当時は国木田独歩館などなくて、邸宅が残されていただけだった。
「邂逅って、こういう事象を指すんだね」
早苗が口走る。何時までも見ていたいような、美しい眺めだった。
5
国木田独歩館を出ると、道を挟んで向かいにある観光交流館へ寄った。
「入っても良いのかな?」
開けっ放しの玄関先から、奥の部屋が少しだけ見えた。中には年配の女性が大勢、集っていた。
「大丈夫じゃない? 入ってみようよ」
私たちは靴を脱いで、中へと入り、足を止めた。
観光交流館にも、沢山の雛人形が飾られていたからだ。
「今日はごめんなさいね。ガヤガヤと煩くて」
私たちの存在に気が付いた女性が、ニコニコと気さくに話しかけてきた。
私は首を振った。
「とんでもないです。今日は何かの集まりですか?」
「違うのよ。『ひなめぐり』ってパンフレットをもらわなかった? 明日から、ひな祭りのイベントがあるのよ。だから、今日は飾りつけで集まっているの」
私は改めて周囲を見回した。
すると、たしかに、皆、雛人形の位置を確認していたり、お花を飾ったりしていた。
「既にイベントの開催中かと思っていました」
私が恐縮すると、女性は快活に笑った。
「もう、展示もほぼ完成しているからね。ゆっくり、見て行って」
女性はニッコリすると、作業に戻っていった。
国木田独歩館とは違い、観光交流館のひな人形の間には生花が生けられていた。
「私ね、そもそも歴史で町おこしなんて、馬鹿臭いと思っていたの」
早苗は一つ一つ、じっくり見ながら小声で呟いた。
「どうして?」
私も小さな声で聞き返した。
「だって、歴史のない街なんて、ないでしょう? だから、歴史とか文化財で人を集めるなんて、難しいと思っていた。なかなか差異化が図れないから。収益を見込めないでしょ? でも、今日を機に、考えを改めるわ」
早苗はショルダーバックからスマートフォンを取り出すと、急に写真を撮り始めた。
「それまた、どうして?」
「人形一つとっても、歴史があり、物語があるんだよね。人形が生まれた背景があり、それを受け継いだ人の想いがある。そして、この場所に飾る人の願いも」
早苗は様々な角度で写真を撮っていた。まるで、脳裏に焼き付けるかのように。
「私が、アンタの三倍稼いでいる事実には気づいているんでしょ?」
「さすがに、三倍だとは思っていなかったけど」
私は少し引き気味に答えた。
「三倍以上かも? 都内でさ、縁故もなくて、一人でやっていくのって大変じゃん? 最近、損得だとか、合理性でしか、物事を判断できなくなっていたんだよね」
早苗は飄々と語った。
「確かに、毒舌の毒素がどんどん強まっている感じではあった」
私は正直な気持ちを言った。早苗はフ、と笑った。
「人を批判することで、鎧を纏っているつもりだったの。でも、武装は、呪いだったのかもしれないね」
早苗はショルダーバッグにカメラをしまうと、私に問いかけた。
「ねえ、菊姫の供養で、呪い、解けたと思う?」
6
観光交流館を出ると、私たちは城山に向かった。
城山のどこかに、写経を埋められる場所があると信じていたからだ。
しかし、その野望は瞬く間に打ち砕かれる。
「よーい!」
城山の登山口、鳥居の下には、陸上部と思われるジャージ姿の高校生たちが跋扈していた。
高校生たちは、笛の合図と共に、城山を駆けのぼっていく。
「すごいね。青春って感じがする」
早苗は呆然としていた。
「この子たちが行きかう登山道で埋めるのは無理だよね」
高校生たちは、鳥のように自由に駆けていく。その姿が神々しくて、私は目を細めた。
第六章 遥かなる場所へ
1
櫓門を仰ぎ、四教堂を懐かしんだ。
三余館に立ち寄った後、佐伯市歴史資料館の門をくぐった。
開け放たれた毛利家の御居間を横目で見ながら進んでいると、早苗が空を見上げた。
「ちょっとまずいよ。日が暮れ始めている。歴史資料館、中に入ってみたかったけど、今回は、やめておいたほうが良くない?」
私は時計を確認した。既に四時を回っていた。
「ホントだ、気が付かなかった。日没までには、何としても、御供養を完了しないと」
私たちは資料館の前で立ち止まった。
「でも、どこで処理するよ? 番匠川にも振られて、城山も駄目となると、他の場所が思いつかない」
早苗は腕組みをして考えていた。
私は唇を噛む。
良く流れる川。穴を掘ることができる、柔らかな土のある場所。
どこだ。どこにあった?
私は記憶の中を探る。
どこか。確かに、あったはずだ。
「ねえ、公園橋はどうかな。武道館のところ」
私は目を開くと、早苗の反応を窺った。
「体育館のところ? 昔、秘密基地を作って遊んだ場所?」
「そう! よく覚えていたね」
私は背筋がゾクリとした。ちょうど私も、橋の下に、秘密基地を作った日を思い出していたところだった。
「偶然かどうか、分からないけど、不思議。今日行った国木田独歩館も、城山も、公園橋も、私たちの思い出の場所ばかりじゃない? すっかり忘れていた所ばかりだったけど」
早苗が呟き、私も強く頷いた。
「薄れていた記憶が、戻って来た。何だか、弁財天様に導かれているかのよう」
私はソワソワと腕を撫でた。
とにもかくにも、中江川へと向かわなければならなかった。
2
公園橋に着くころには、日が傾き始めていた。
私たちは石でできたテーブルを陣取って、大急ぎで、準備を始めた。
「まずは、お団子をくるんで、土に埋めるんでしょ?」
早苗が改めて確認する。再度、本を広げている時間はない。私は首を縦に振った。
「スコップとか、何か、持ってきたの?」
「一つだけどね。私が掘るわ。どこか、埋められそうな場所、ある?」
私たちは荷物を置いたまま、周辺をうろうろと歩き回った。橋の下。木の根。ベンチの下。
「ここにしない? 土も、柔らかそうだし」
私は、川を見渡せる場所を指さした。雨のせいか、土は湿っていた。
「今なら誰もいないから、急いで埋めよう」
私が声をかけると、早苗はさっきのテーブルに、団子と写経を取りに戻った。私は、穴を掘った。
気が付くと、早苗は写経一式を手に持って、私の隣にしゃがみこんでいた。
穴を掘っている間は、どちらも、話さなかった。深く掘った後で、早苗が写経を埋めた。
「菊姫様。六文銭を同封できなくて、ごめんなさい。どうか、無事に川を渡れますように」
早苗が静かに手を合わせる。私も、早苗に倣った。
3
先祖供養のためには、写経十八枚を火で清め、土で清め、水で清める。そうすれば、魂が成仏される。
橘先生の提唱する方法で、いよいよ、六枚の写経を川に流す時が来た。
私はスーツケースから最後の六枚を取り出すと、早苗に渡した。早苗は手早くシキビを包んだ。
河原には、二人で近づいた。
「この時間は、干潮だよねえ。流れるのかな」
私は不安になって、こぼした。
「さっきの番匠川よりは、マシでしょ。まさか、投げ入れる訳にはいかないから、水面のそばには、一緒に降りて行こう」
中江川も、番匠川と同様に、水面へとアプローチするには、階段を降りていかなければならなかった。
早苗が先陣を切った。私は、へっぴり腰になりながら、後に付いて行った。
「滑る。怖いよー」
「大丈夫。コケても、泥んこになるだけだ」
早苗が先に下に降り立ち、私のほうへ手を差し伸べてくれた。
私は早苗の手を掴んで、何とか、水面すれすれの場所まで降りることができた。
「ありがとう」
私たちは横並びになると、顔を見合わせた。
「とうとう、この時が来たね」
早苗がしみじみと言う。私は腰を落とした。
「じゃあ、行くよ」
「お願いします」
私は水面に手を近づけると、シキビをくるんだ写経から、そっと手を離した。
私たちは手を合わせた後、しばらくはシキビが流れていく様子を眺めていた。
先に口を開いたのは、早苗だった。
「一時はどうなるかと思ったけど、恙なく終えたという解釈で良いのかな?」
私は天を仰いだ。そして、気が付いた。
「ねえ、いつの間にか、雨が上がっている!」
国木田独歩館に入った頃には、雨はまだ降っていたはずだ。
どのタイミングで上がったのか、全く気が付かなかったが、美しい眺めだった。
第七章 旅の効能
1
「しまった! すっかり、忘れていた!」
写経の処理を無事に終えると、早苗が頭を抱えて叫び声を上げた。
「どうしたの? 何を忘れていたの?」
私はスーツケースの持ち手を伸ばしながら、訊ねた。
「今夜、泊まる場所だよ!」
早苗は私を睨みつけた。私も思わず声が出た。
「今から、予約できる場所あるかな?」
私はバッグからスマートフォンを取り出すと、検索を始めた。すると、すぐに格安の宿がヒットした。
「ねえ! 内町にゲストハウスがあるみたいだよ。破格の安さだよ!」
「値段はどうだっていいよ。とにかく、屋根は絶対に必要だから!」
早苗に追い立てられて、私はすぐさまゲストハウスに電話をかけた。
「はい、ゲストハウスです」
私は女性二名である旨を告げた。
「大丈夫ですよ。ちなみに、今夜は、お客様の他に男性が三名、女性が一名ですが、宜しいでしょうか」
女性は淡々と言ったが、私はすぐさま電話から耳を離した。
「ちょっと問題発生。男性と同室みたいなんだけど。早苗、構わない?」
できれば断ってほしかった。見ず知らずの男性と同室なんて、私は嫌だ。
早苗は豆鉄砲でも食らった顔をしていた。
「一応、嫁入り前の身なんですがね」
「そうだよね」
私はホッと胸を一撫でした。
丁寧に断ってから電話を切ると、今度は早苗が私の前にスマートフォンを差し出した。
「駅前まで戻る形にはなるけど、ここはどう?」
私は早苗のスマートフォンを覗き込んだ。ビジネスホテル清風荘。
「校区外だから、駅前については、よく分からないんだよね。写真で見ると、ビジネスホテルっぽい感じはないけど、良いんじゃない? 明日は、駅前からバスに乗るだろうし」
「じゃあ、決定ね」
今度は早苗が電話を架けてくれた。素泊まりで、押さえることができた。
私たちはコンビニで夜ご飯と朝ご飯を買ってから、清風荘へと向かった。
2
清風荘は一泊目に泊まったホテルルートインから、さほど離れてはいなかった。
「思ったよりも大きいホテルだね?」
早苗が声をかけてくる。私たちは階段を上り、清風荘の扉を開けた。
昭和レトロの匂いがした。受付のカウンターには、誰もいなかった。
「本当に、予約できているの?」
私は心配になって、早苗にこっそりと聞いた。
「私を誰だと思っているの? ごめん下さ~い!」
早苗は奥に向かって叫んだ。
「ごめんなさい、お待たせいたしました」
中から高校生と言っても通りそうな、可憐な感じの女性が現れた。女性は法被を着ていて、ますますビジネスホテルの風情ではなかった。
「先ほど予約しました︙︙」
「和田様ですね? お電話をありがとうございました」
女性は早苗の言葉を遮ると、見た目とは裏腹にシャキシャキと受付を進行した。
「お部屋は三階です。申し訳ございませんが、二十三時になると、お湯が出なくなりますので、お風呂はそれまでに済ませて下さい。また当館にはエレベーターがございませんので、階段を上って行ってください」
「承知しました」
早苗は微笑んで、部屋の鍵を受け取っていた。
今時のホテルでは珍しい、キーチェーンのついた鍵だった。私はスーツケースを抱えて、階段を上った。
「もう一歩も歩きたくない気分だったんだけどね。まさかエレベーターがないとは」
早苗はぼやきながら鍵をプラプラと揺らす。
三階は薄暗く、しんとしていた。
「さっさとシャワーを浴びて、ビールだ、ビール!」
部屋の前に辿り着くと、早苗は鍵を突っ込んで回そうとした。が、回らない。
「どうしたの?」
私は横からドアノブを見つめた。
「分からない。回らないのよ」
早苗はドアを力いっぱい、回そうと躍起になった。
「ちょっと待って! 壊れちゃうよ」
私は慌てて早苗を制止した。早苗に一度、場所を譲ってもらうと、自分も試しに回してみた。
「ホントだ。全く回らないね」
「私で開けられないんだから、アンタが回したって一緒でしょ」
早苗はプリプリと怒っていた。
「鍵が間違っているんじゃない? ちょっと、もう一度下に行って確認してくる」
私は鍵を持って、再度一階へ降りて行った。
カウンターには、バックパッカーと思われる男性客が二人、並んでいた。二人とも、リュックを背負ったまま、受付表を記載していたが、突然現れた私をじろりと見た。
「どうされましたか?」
先ほどのホテルの女性が訊ねてくる。
「実は、鍵が開かなくて。全然、回らないんです」
私が額の汗を拭いながら伝えると、バックパッカーのうちの一人が笑った。私はムッとした。
受付の女性は、鍵のキーホルダー部分に書かれた部屋番号を素早く確認していた。
「少しお待ちください。一緒に行きますから」
受付の女性は、バックパッカーたちの受付を終えると、私を呼んだ。
「何度も階段を往復させてごめんなさいね」
「とんでもないです」
女性は大股でもないのに、歩くのが早かった。私は急いで女性に付いて行った。
「実は先日宿泊されたお客様が、鍵を紛失されてしまって。新しく作り直した鍵なので、ちょっと入れにくいのかもしれません」
女性は部屋まで辿り着くと、鍵穴に鍵を差し込んだ。
「固いんですけど、ギュッと回せば︙︙」
私も、早苗も、女性のほっそりとした手元に釘付けだった。
「開きます」
女性はドアを開けると、電気を点けてくれた。想像以上に広い上、既にお布団を敷いてくれている。
「ごめんなさい。ちゃんと開けられなくて︙︙」
私は恥ずかしくなって頭を垂れた。女性は首を振った。
「こちらこそ、説明不足でした。ごゆっくりどうぞ」
女性は卒なく頭を下げると、部屋から出て行った。
3
「ホテルの鍵が開かないなんて、初めてだったよ。」
早苗はシャワーも浴びずに、布団に突っ伏していた。
「ちょっと! お布団が汚れちゃうから、お風呂に入ってからにしてよ」
私は窘めながらも、部屋を確認していた。床の間に、炬燵までついている! まるで家のようだった。
「見てみて! トイレとシャワーは別々になっている! 有難いね」
「ルートインよりも、良いんじゃない?」
早苗は体を起こすと、スマートフォンをいじり始めた。
「さーて、ビールの前に、一仕事済ませておきますかッ!」
「何をするの?」
私は気になって、早苗の隣に正座した。
「アンタって人は、本当に、ぼーっとしているんだから。帰りのバスの時刻、調べていないんでしょ?」
私はぐうの音も出なかった。
「今度こそ、ちゃんと押さえておかないと、東京に戻れなくなるよ。明後日は、私、大事なクライアントとの打ち合わせだから、穴を開けられないの」
早苗は鼻に皺を寄せてスマートフォンを見ていた。
「さすが、段取りが良いね」
「仕事の九割は準備です。仕事ができない奴は、たいてい、準備ができない奴。就職活動も、然り」
「婚活もそうでしょうか?」
私は身を乗り出して冗談を挟んだ。
「私に訊ねないでよ。それより明日だけど、早いよ。空港行きは、一日三本しかない。佐伯駅は八時五十五分発」
早苗は確認ができると、すぐさまスマートフォンの画面を切った。
私は逆算して起床時刻を考えた。
「結構、寝られるじゃん?」
「そうね。昨日寝ていない人は、今日こそ睡眠をとるべきね」
早苗は断言しながらも、コンビニで買ってきたビールのプルトップを引き上げた。
4
空港行きのバスは定刻通り出発したけれど、到着は少しだけ遅れた。
それでも、飛行機の出発時刻までは時間があったので、私たちの乗り換えに影響はなかった。
私たちは空港で、お昼ご飯を食べたり、お土産物を見たりして、のんびりと過ごした。
「帰り道って言うのは、どうして、あっという間なんだろうねえ」
飛行機に乗り込み、シートベルトを締めながら、早苗が呟いた。
「空港で飛行機を待つ時間が長かったから、どうしようかなと思っていたけど、一瞬だったね」
私も早苗に賛同する。
客室乗務員が荷物やシートベルトの着用を確認し終わると、まもなく飛行機は動き始めた。
「お焚き上げだけが、少し心残りだったなあ。実際に、写経が燃え上がるところを見たかった。言葉が通じた場合は、灰が散るんだって。成仏しなかった場合は、灰が黒く固まるみたい」
早苗が急に呟いた。私は驚いて早苗を見つめた。
「確かに、本には書いてあったけど信じているの? いつもの早苗だったら『焼けば、全て炭になるわ』とか批判するところじゃん。いったい、どうした?』
早苗は私の質問には答えず、華麗にスルーした。
「それより、橘香道先生の本って、手荷物の中にある?」
「バッグに入っているけど、何?」
「ちゃんと読み直したいなと思って。東京に戻ったら、私もやってみようかな、写経!」
早苗がはにかみ、私は目を見開いた。
「何よ、その顔は。私にできないと思っているの?」
「まさか。早苗まで清められたんじゃないかって、ちょっとびっくりして︙︙」
私は脇に置いていたバッグの中から、古い本を取り出した。
失恋して、旅に出た。いわゆるセンチメンタルジャーニーだった。
実際、菊姫の供養が上手くいったか、弁天様がご機嫌を直してくれたかどうかは、分からない。
だけど、隣にいる、古くからの友人には何か通じたものがあったみたいだった。
私は早苗に本を手渡した。(了)