むなかた菊姫伝説慰霊記

 

◆プロローグ
◆四月二十二日
1.出立~福岡バスターミナル
2.福岡市博物館
3.伊都国博物館
4.ビストロアンドカフェ TIDE~兄の家
◆四月二十三日
1.大島フェリーターミナル~沖ノ島遥拝所
2.砲台跡~おおしま交流館
3.海宝丸~中津宮神社
4.辺津宮~チサンイン宗像
5.増福禅院ご開帳
◆四月二十四日
1.増福禅院宝物殿
2.菊姫墓所
3.むっちゃん万十~櫛田神社
4.帰途
◆エピローグ
◆プロローグ

硯に水を入れ、墨を磨る。
墨を濡らし、わずかに力を入れて丸く円を描けば、墨汁が闇夜のように黒く溶け出し、香りが広がる。
細筆を浸して墨を含ませ、絞って先を尖らせ、そっと白い紙の上に着地する。
摩訶般若波羅蜜多心経。
静けさの中に、筆を進める音だけが微かに聴こえる。
写経というのは、己の心を見つめる儀式である。
集中して紙に、己に、またおそらくは仏に向かってひたすらに経文を書く。
やってみたいと思いながら何年もそのままになっていたその写経を、今こうして練習しているのは、ある人物の慰霊のためである。

宗像大社第七十九代宮司氏男の正室、菊姫。
戦国時代に起きた宗像氏のお家騒動『山田事件』の犠牲者の一人である。
山田事件とは、宗像氏の家督争いに巻き込まれ、氏男の正室菊姫とその母、侍女四人の計六名が宗像家の家臣によって惨殺されたという、戦国時代でも類を見ない残酷な事件である。
主導したのは氏男の後継者候補、鍋寿丸の母。
山田の局の、娘の菊姫だけは助けてくれという命乞いを踏みにじった者たちには激しい祟りが降りかかった。
山田の局ら六人の一周忌のころ、鍋寿丸の妹に山田の局の霊が憑依して、我らに仇なした同類を三年の内に悉く責め殺し、根絶やしにする、と宣言する。
それからというもの、暗殺計画に加わっていた者たちが、次々と山田の局や侍女の怨霊に襲われ、ある者は発狂しある者は病に伏し死んでいった。
最終的に死者は三百人に及んだという、他に類を見ない規模の怨霊伝説である。
この伝説にはひとつの特徴がある。
資料により年齢は十歳から十八歳までと幅広く異なるが、いずれにしてもうら若い身で殺された菊姫は、その怨霊伝説の中心にいながらにしてひとり姿を見せることなく清らかに沈黙を保っているのだ。
祟りの主体は、あくまで母山田の局と侍女四人。山田の局は、己が殺されたことではなく菊姫を殺されたことに怒り、呪いはやむことはなかったという。
娘の心の清らかさと、母の愛情の深さ。それが余計に世の人の涙を誘ったのだろう。
この伝説の存在を知り、子を持つひとりの母として、ぜひ菊姫母子の慰霊に訪れたいと心から思ったのだ。

菊姫母子と侍女四人は、宗像市の増福禅院というお寺で供養されている。
当初、祟りは山伏や名僧の加持祈祷をもってしても効果がなかったという。
『養生訓』で知られる貝原益軒が著した『増福禅院祭田記』によれば、山田の局の怨霊に対して悪霊退散と刀を振り回す者を、
『片腹痛い。そんな刃のない刀をどう怖れよというのか』
と嘲笑い、また比叡の名僧が霊を鎮める呪法を行い母子の墓にかぶせた大釜は、一晩で木っ端みじんに砕け散ったと記されている。
まことに堂々たる怨霊のありさまである。
菊姫暗殺後、宗像氏貞として家督を継いだ鍋寿丸は、祟りを恐れ山田村の増福禅院に六体の地蔵菩薩を作らせ奉納した。山田村は山田の局の郷里である。
そこで初めて、事件から三十年以上止むことのなかった祟りが、ようやく落ち着いてきたのだという。
それでもまだしばらくは、山田の局や侍女の怨霊を見かける者があり、目が合って死んでしまう者もあったと伝えられる。現在は山田地蔵尊と呼ばれ、子授けや子守りのご利益があるとして親しまれている。

山田事件は、旧暦三月の二十三日、月待の夜に起きた。
今でも増福禅院は、毎年四月二十三日の夜にだけ、本尊の六地蔵尊を開帳している。
そのため私は、今こうして、拙い字で懸命に写経に励んでいるのである。
六地蔵尊のご開帳は、一週間後に迫っている。糸島に住む兄とも、連絡がとれている。
あとは、少しでも上達したものを奉納したい、その一心で筆を進める。


◆四月二十二日
1.出立~福岡バスターミナル
いよいよ出立の日。
午前五時半。家を出て駅まで送ってもらいミュースカイに乗り、中部国際航空で下車。
飛行機に乗るのは久しぶりだったが、なんとか無事に機上の人となった。
LCCの機内はほぼ満席だった。
窓側の席を取ってしまったので、通路側にさわやかカップルが座り、うっかりトイレにも行けない雰囲気である。お菓子を食べさせあう微笑ましいカップルの隣で、私は福岡県について知ろうと古本屋で購入した『九州の風土と歴史』という本を読みふけった。

私はあまりにも福岡県の歴史について知らない。覚えていることといえば、漢委奴国王の金印、邪馬台国の候補地であること、あるいは太宰府が置かれ、防人が置かれたことくらいだった。
しかし改めて地図を見てみると、九州北部は本当に目の前に朝鮮半島があり、大陸と向かい合っていることがわかる。
本州から地形的に独立しているうえに、中国、朝鮮半島の国々と向かいあっているため、常に大陸側と交流があり、また同時に侵略の脅威に晒されている土地なのだ。
歴史の授業で登場するのは、漢委奴国王、邪馬台国、防人などが浮かぶ。
これらも全て、大陸側との関係がある。
漢委奴国王の金印は、福岡市博物館に展示されているという。ここは行ってみたい。
中部国際空港から実質の飛行時間は約一時間。
あっという間に福岡空港に着いた。

福岡空港も大変な人出だった。コロナ禍での閑散とした観光地のことを思えば、活気があるのは喜ばしいことだ。
福岡空港から、地下鉄空港線で二駅の博多駅へ移動する。交通系ⅠCカードを忘れてきてしまったため、記念の意味もこめて、福岡の交通系ⅠC『はやかけん』を購入しチャージする。
福岡に着いたらまず食べようと思っていたものがある。
それはむっちゃん万十。博多っ子のソウルフードらしい。
むっちゃんとは、目が大きく飛び出している魚のムツゴロウである。たい焼きのムツゴロウ版といった感じだが、わざわざオリジナルの金型で作るあたりがいいではないか。
そういったものが大好きな私は、むっちゃん万十の店舗を調べていた。
目的地は、むっちゃん万十博多バスターミナル店。
バスターミナルに向かい一階を見て回ったが、これがなぜか見当たらない。
看板はあるのに店舗が見当たらない。地図アプリを起動すると、違う店に案内してくれる始末。
博多バスターミナルもすごい人混みで、次から次へと人が来てはバスに吸い込まれていく。
そんな中、むっちゃん万十を探すこと一時間。
ついにあきらめて、目についた店舗に入る。福岡での最初の食事はモスバーガーとなった。
涙でしょっぱいポテトをほおばりながら、これからの予定を整理する。
現在十時半をまわっている。
午後一時には、福岡市博物館で糸島の兄と合流する約束もある。これは動かせない。
むっちゃん万十はまだチャンスがある。まず合流地点である福岡市博物館に移動しよう。
時刻表を調べ、博多バスターミナルの十番乗り場で。三一二のバスに乗る。

2.福岡市博物館
バスは高速に乗り、海を右に眺めながら走る。車窓から望む海は、風が強く波が白い。
九州でもやはり海沿いには松が植えられているのだな、と考える。
福岡市博物館北口で降りると、すごい風だった。
海沿いだし、こちらは風が強いのかも、と思いながらスーツケースを引いて博物館入り口まで歩く。
コインロッカーでスーツケースを無事に預け、博物館へ。
新しくて立派な博物館である。常設展は二百円。
入ると、いきなり『漢委奴国王』の金印が!
そして、博物館内には必ずあるはずの写真禁止の掲示がない。
これはもしや、と思い、受付に戻るとスタッフの女性がすかさず、
「写真撮影ですね?」
と声をかけてくれる。よく聞かれるのか、さすがの対応である。
「後半は写真禁止のものが増えていきますが、説明のところに禁止マークがないものは、写真撮影可となっております」
とのこと。博物館で写真撮影可能とは、なんと素晴らしい。
四方三センチほどの金印は、照明を受けて神秘的にきらきらと光っている。この金印は、明治時代に志賀島で農民が見つけたもの。
現在は、叶の浜というその浜辺も埋め立てられて残っていないらしい。
金印は、つまみの部分が蛇である。これは漢民族にとっては、蛇の棲むような湿地に住む民族というような意味があるらしい。
中国の史書『後漢書』にある倭の奴国に与えたとされる金印とみなされており、その推定年は西暦五七年となっている。成分としては九五%が金だということだが、千年を経てこのように完璧な輝きが残っているのは、さすが金といえよう。
この金印は、漢という巨大な国と敵対しないよう、さりとて孤立しないよう朝貢貿易という形で平和を保っていたこの地の権力者に贈られたものだ。
展示によれば、この地に人が住み始めたのは二万六千年前であり、その頃は大陸とほぼ陸続きだったため、大陸側との交流が盛んだったという。
大陸からもたらされた最たるものは、稲作。
これは農耕社会日本の国の原点である。稲作が始まり、保存の効く米は富の蓄積をもたらした。
富の蓄積は必然的に権力者の存在を生み、国家ができた。
玄界灘に面する博多は、まさにその玄関口となり、魏志倭人伝の時代から、遣唐使、遣隋使をここから送り出し、また大陸からの人々を受け入れる国際貿易都市であった。
時代が移り、ヤマト朝廷が九州を征服して大宰府が置かれ、外交施設として筑紫館(つくしのむろつみ)、鴻臚館という施設が外交と貿易の拠点を担った。
交通の要所、小呂島を巡って宗像大社宮司宗像氏と、謝国明が争ったという掲示がある。宗像氏という名前がさっそく出てきた。謝国明は鎌倉時代の中国南宋の商人であり、博多の綱首と呼ばれ船主でもあり船長でもある豪商だ。
かれは日本人を妻とし、その財力をもって筥崎宮とも深く関係し、承天寺を建立をするなど、博多において大きな影響力をもち貢献した人物であり、現在でも彼の功績をたたえる祭りが残っている。
博多という土地柄は今でも元気な印象がある。これは連綿と続いてきた国際都市としての開放的で先進的な性格を持ち続けているからだろうか。

3.伊都国博物館
気づくと、約束の一時になっている。
あわててコインロッカーからスーツケースを出して駐車場で兄の車を探す。
兄は私と同じく愛知の出身であるが、奥さんの出身地の福岡に移住し糸島に居を構えている。
今回、菊姫慰霊の旅をするにあたり、土地柄を知っている人として頼ることにしたのだ。
数年ぶりに会う兄は、あまり変わっておらず、大きな体を小さな車の運転席に押し込めるようにしていた。
ひとしきり、お互いの近況を伝え合う。奥さんも相変わらず元気なようだ。
地元に住んでいる人として、糸島のおすすめの場所に連れて行ってもらうことになっていた。
兄が連れて行ってくれたのは、伊都国博物館だった。
午後も引き続き、お勉強の時間になりそうである。

伊都国博物館に駐車をすると、正面入り口は封鎖され、たくさん什器が置かれているのがガラス越しに目に入った。
これは、地方によくある寂れた郷土資料館だろうか、と危惧した。
しかしこれは杞憂であった。
伊都国博物館は、この地を知ろうとする者にとって、まさにお勧めされるにふさわしい宝の山だった。
受付にて、兄がガイドさんを頼んでくれた。
ガイドの方は、背筋のびしっと伸びた、元教師か研究者といった雰囲気の年配の男性だった。
「ガイドをしながら回ると、だいたい一時間から一時間半かかりますが、いいですか?」
とまず聞かれ、思ったより長い…と思いながらも、じゃあ結構ですとは言えない雰囲気であった。
しかし、これが結果的には正解だった。
ガイド氏はレーザーポインターを手に、地形模型図を指して説明を始めた。
「この辺りは糸島地方と呼ばれていますが、これはもとは伊都国と、志摩国という二つの国でした」
その時、模型図からにぎやかな音楽が流れ始め、ガイド氏の説明にかぶせるようにしてナレーションが流れ始めた。
ガイド氏はしばらく説明を続けていたが、私に向かって、
「そのうち止まりますから、放っておいてください」
と言った。どうも私の荷物が模型図のボタンを押してしまっていたようだ。気まずい。
そんな始まりだったが、ここで学んだことはたくさんあった。
まずわかったのは、この地は古墳だらけといっていいこと。
糸島地方だけで大小あわせて六十以上の前方後円墳が存在するという。
そして、本当に大陸が近いこと。壱岐まで五十キロ、そこから対馬まで五十キロ、そして対馬から朝鮮半島まで五十キロしかないということ。
ガイド氏によると、弥生時代の木造船の速度は時速五キロ、それぞれ十時間で着く距離なのだそうだ。そして、青銅やガラスも、その頃にはすでに船で材料を輸入し、日本で加工していたのだというから驚きだ。
卑弥呼より前の時代の女王を埋葬した平原遺跡からは、直径四六・五センチの日本製の大きな鏡が出土している。内行花文鏡という名がつけられているそれは、なんと三種の神器のひとつ、八咫鏡と同じ型のものでは、と言われているそうだ。
咫は古代の長さの単位で、掌のつけねから中指の先の長さ。この鏡の円周がちょうど八咫にあたるそうだ。わずかにある、八咫鏡を実際に見た人の記録からも文様が同じだったと言われているという。
またここには、平原遺跡の鏡を再現したものが、有志企業によって寄付されている。それはまさしく太陽のように金銅色に輝いている。
中国での鏡は単なる生活用品だったが、日本にとっては朝貢によってもたらされた特別なものとして扱われ、特に光を反射するということから、太陽つまり神の力を表すものとして神聖とされた。面白い偶然である。
農耕民族にとって太陽はまさに神そのもの。太陽の姿と重なる金色の鏡が王すなわち神の子供であると言う証となった。神の名前にヒコヒメがつくのも、邪馬台国女王のヒミコと言う名前も、太陽、ヒの子孫であるとして権力の根拠を表すものであるという。
ガイド氏はまた、鳥居は文字通り、鳥がいるところとして作られたのですと語った。
稲作が始まると、空と地面の間を飛ぶ鳥が神の使いだと考えられるようになり、鳥が止まるように聖域のしるしとして鳥居が作られるようになった。つまり、神社よりも鳥居が先に存在したということである。

これらの展示と解説を聞いているうちに、稲作の伝来から日本の八百万の神信仰の原型がだんだんと形作られていくのが目の前で展開されているような感覚になる。非常に興味深いことばかりである。
ふと気づいて兄を振り向くと、ちょっと疲れてしまったようだった。長い時間申し訳なく思いながらも、この機会を逃すまいとガイド氏の話に聞き入った。
終わった頃には、時計は四時を回っている。実に二時間が経過していた。

4.ビストロアンドカフェ TIDE~兄の家
収穫の多かった伊都国博物館であるが、時間には限りがある。四階まである展示の解説が終わり、良かったら飛ばした二階も見ていってくださいね、というガイド氏の言葉に、
「見ていきたいのはやまやまなんですが、残念ならこの後の予定があるので…」
と切り上げようとすると、我に返った兄が、
「予定?予定なんてあったっけ」
と言おうとするのを慌てて遮り、伊都国博物館を辞した。
「じゃあ、家に向かいながら海辺のカフェでも行こうか」
と兄が連れて行ってくれたのは、海岸を見下ろす素敵なカフェ『ビストロ&カフェTIDE』。
糸島といえば、昨今リゾート地として人気を誇る美しい海岸沿いのエリアであり、伊都国という歴史的遺構よりも、世間的にはそちらの知名度の方が高いだろう。
糸島の海の色は透明感があり、白く泡立って逆巻いている。きれいな砂浜が遠くまで続いているのが見え、海水浴場になっているようだったが、人っ子一人いなかった。
そう、サーファーさえ。それほどの風と波であった。
TIDEには広いデッキがあり、普段は沢山の客で賑わうに違いないが、暴風といってもいいほどの今日は店内に二組ほどいるだけだった。
「いやあ、疲れたね。しかしここに住んでから、こんな風は初めて」
と、アイスコーヒーを飲みながら兄は語った。
吹き付ける風はどんどん強くなり、店が揺れるほどの強風になっていた。

休憩ののち兄の家に向かう。今夜はそこで世話になるのだ。
海岸沿いの家に着くと、出迎えてくれたのは、二匹のワンちゃんと兄の奥さんだった。
奥さんはキャリアウーマンで、からっとした性格の博多美人で、ワンちゃんたちは元保護犬である。
福岡県のある地方では山に犬を捨てる人が後をたたず、野犬化して繁殖し社会問題になっているのだという。この二匹は、野犬の子として保健所に入れられ、一週間後に処分されるところだったのを引き取ったのだ。コロナ禍のペットブームの暗部だろうか。
二匹は、新たな侵入者である私を発見するとまず、怯えたように唸った。
彼らにとって、私は新入りである。
新入りらしく、奥さんが渡してくれたおやつをご挨拶として与えご機嫌を取ると、ほんの少しずつ人見知りな彼らの態度は軟化していった。
最終的に、彼らから「しょうがねえな、ここにいてもいいぞ」とお許しが出るのは、次の日の朝のことだったが。
その晩、海沿いのその素敵な家は風の音がやまなかった。
予定では、翌日に宗像大島へフェリーで渡り、夜に増福禅院のご開帳へ行くつもりであったが、この波で果たして欠航にならないものだろうか。
昼間が空くなら、今日行けなかった太宰府を訪れるのも悪くないな。
いずれにしても、明日の朝、風があるかどうかで予定が決まる。
今日の歩数は一万二千歩超となっていた。まずまずである。


◆四月二十三日
1.大島フェリーターミナル~沖ノ島遥拝所
起きて時計を見ると六時。
カーテンを開けると、朝日と金色の海が眩しい。風は完全には収まっていないものの、昨日とは比べ物にならない程度だ。
よし、これで大島へ行ける。
心づくしの朝食を頂き、宗像市の神湊フェリーターミナルまで送ってもらった。
兄と、兄の奥さんとで三人のドライブである。
奥さんは、地元の人ならではの情報を色々と教えてくれた。伊都国博物館に連れて行ってくれたのも、奥さんの発案らしい。やはり地元の人は、旅人にとって心強い味方である。
博多の賑わいを通り過ぎ、香椎を抜けて東へ向かうにつれ、都会からベッドタウン、そして田舎町へと風景は姿を変えていく。

神湊フェリーターミナルに到着し兄たちと別れ、券を購入した時には既に出航の十分前であった。
コインロッカーを探す余裕もなく、スーツケースを引いたまま急いで乗船する。
これが今日の一番の後悔となることも知らずに。
午前九時二十五分、フェリーは若い観光客をたくさん乗せて出航した。
大島へは、フェリーで約二十分の航路である。
風は昨日ほどではなかったが、それでも時折揺れてしぶきがかかり観光客がどよめく。
乗り物酔いに弱い私は、持参した子供用酔止めキャンディーをかみ砕くこととなった。
大島へ降りると、まず最初にターミナルの売店に寄り、お茶と『祈り星』を購入する。
祈り星は手作りのお守りで、中津宮へお詣りした時に出番がある。
これでよし、とコインロッカーを探す。
しかしわかったのは、コインロッカーがあるのは神湊フェリーターミナルであり、大島には存在しない、ということだった。
つまり、今日は夕方までこのスーツケースと共に旅をすることになる。行き当たりばったりの旅は怖い。
やけ気味に、私はこの予期せぬ旅の相棒をスー嬢と名付けた。
スー嬢の手を引き、さてどうしたものかと考えてみる。
ターミナルで手に入れた大島の地図をみると、主な交通手段は、レンタカー、レンタサイクル、コミュニティバス。レンタサイクルは論外だし、レンタカーは予約制で、見知らぬ土地で慣れていない車を運転するのは少し気が引ける。
そこに、朝一番のコミュニティバスが来た。
小さなマイクロバスで、グランシマールと書かれている。
私は迷わずスー嬢を連れて乗り込み、車内で八百円の一日券を買い求めた。

グランシマールは、大島の主だった観光スポットを結び、おおしま交流館、沖津宮遥拝所、御嶽山入り口、砲台跡を折り返し運転している。
私がまず目指したのは、沖津宮遥拝所。
宗像大社は沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、田島の辺津宮の三つの神社の総称である。
宗像三女神の姉神であるタゴリヒメノカミが沖津宮に、中の神であるタギツヒメノカミが中津宮に、そして妹神であるイキチシマヒメが辺津宮に祀られている。
宗像大社宮司のお家騒動である菊姫伝説を理解するには、まず宗像大社に詣でるのが筋だろう。
沖津宮遥拝所へは、十分ほどで到着した。
降りたのは、私とスー嬢、それともう一組の客のみ。
遥拝所はバス停からはさほど離れておらず、ゴロゴロとスー嬢を引き連れて坂を下り、次に持ち上げながら階段を上がる。
空は白い雲がたなびき、海は青く広がり、空気も清らかで旅には最高のコンディションである。
まず遥拝所にお詣りして社の脇の石段を上がると、その一番上は、海を見渡せる高台になっている。
晴れていても条件が揃わないと、ここから沖ノ島を眺めることはできないということだったが、運のいいことに、水平線にうかぶ沖ノ島の島影を見出すことができた。
あらためて二礼二拍手して、手を合わせる。

宗像三女神は道の神とされる。道と言っても海の道である。
その起源は古事記と日本書紀、いわゆる記紀の時代に遡るという。
記紀には、スサノオはその度重なる野蛮な行為によって、手を焼いたアマテラスに高天原から追放されそうになる、という段がある。叛逆の意図がないことを示すため、スサノオはアマテラスに、お互いに神を生み出しその神の性質によって、アマテラスへの恭順の心を示すと提案する。
そこでアマテラスが生み出したのが、宗像三女神だ。
スサノオの佩いている十握の剣を天の真名井にてすすぎ清め、三つに折って噛み砕き、噴き出したその霧からタキリビメ、またの名をオキツビメが生まれた。次にイチキヒメ、またの名をサヨリビメが生まれ、最後にタキツビメが生まれた、と記紀は語る。
 しかし、古事記と日本書紀の記述にはある点で違いがある。
古事記では、三女神がスサノオの剣をかみ砕いたアマテラスの息吹を受けて誕生したことと、その三女神が宗像の地に祀られていることのみを記している。
一方、日本書紀では、アマテラスが三女神を筑紫国に天降らせる記述を加えている。
〝汝三の神、道の中に降り居して、天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ〝
皇祖神アマテラスが直々に、その娘たちに宗像に祀られるよう命じたことを付け加えているのだ。
天武天皇が編纂を命じた古事記と日本書紀だが、成立年代は二十年ほど違うだけで、内容も似通っている。ただし日本書紀は日本という国の正史として作られているので、天皇が日本を治める正当性を持たせる内容となっている。
特に、地方の神社や有力豪族を、歴史を遡り神々と関連づけることによりその地位を保証しているかのような記述が散見される。例えば伊勢神宮も、古事記にはなかった創建の逸話が加えられている。
この地でいえば、日本書紀は神代での宗像大社の由来を語ることで、天皇との関係を強調し権威の裏付けを行っている、そのように読むことができる。
しかし、それよりもずっと昔から沖ノ島は自然崇拝の対象であった。
海の交通の要衝でもあり、玄界灘をゆく海人たちの尊崇を集めていたこの島に対し、九州の地を征服した朝廷は、皇祖神アマテラスが生み出した三女神を公式に『配置』した、ということだろうか。
言うまでもなく、この地は古から大陸に向かう海の玄関口だ。
その霊的な護りを固めるため、紀元後四世紀からすでに、国家的祭祀が行われている。それを司ってきたのが宗像氏である。
宗像氏はこの地この海の領主であり、それゆえに宗教面でも宗像大社の宮司という大きな役割を担っていた。のちの戦国時代では、水軍を所有し海の戦ができる貴重な武将としても力を振るった。
宗像氏という一族が、長い年月を通じてこの地でいかに重要な存在であったかということがわかる。
それが、菊姫の悲劇にもつながってゆく。

はるかに見える沖ノ島は、古代と変わらず美しく神秘的である。
しかしそこに連なるこの地の歴史を思う時、清々しいだけではない苦いものが押し寄せる。
長いこと神宿る島を眺め、スー嬢を引いてバス停に戻りグランシマールを待つ。
次のバスまで、あと五分となっていた。

2.砲台跡~おおしま交流館
小さなコミュニティバスは、のんびりした島の道によく似合う。
次のバス停は、砲台跡・風車展望台。
ここは島で一番眺めがいい所らしく、すでに人がたくさん訪れていた。
案内板によれば、大島砲台跡は福岡県の戦争遺跡として登録されている。
昭和十一年十一月竣工。四五式十五糎(センチメートル)加農(キャノン)の砲座四台、弾薬庫四基、観測所、連絡壕、軍道、井戸、電灯所、掩灯所、射光機座などが遺存する、とある。
ここの一番の高台は、大陸をにらむ観測所。今も昔も太平洋戦争時も、この地が担う役目は同じだ。
美しい景色に調和して眠る戦争遺跡。
私の横を、近くの牧場からホーストレッキングを楽しむ人たちが、馬の背に揺られてゆったりと通り過ぎていった。落ちている馬糞に虫がたかる音がする。道にはみ出して咲く薄紫の花が爽やかな風に揺れている。海は清く横たわり、水平線で空と溶け合っている。
そういった風景がすべて夢のような気がした。それほど静かで快く、平和に満ちていた。

一時間はあっという間に過ぎ、すっかりなじみになったグランシマールがお迎えに来る。本当は御嶽神社にも参拝したかったが、山道を三十分ほど歩くらしいので、スー嬢を連れては無理そうだ。
今日のメインイベントは、言うまでもなく夜の増福禅院のご開帳なので、その余力も残しておかなくては。
時計を見ると、現在すでに十二時四分。
大島発の十四時四十分のフェリーに乗り、十五時過ぎには神湊に着きたい。
あとどうしても行っておきたいのは中津宮である。この旅でここまで来て中津宮にお詣りしなかったら、三女神に顔向けできないではないか。
地図を見ると、中津宮はフェリーターミナルから歩いて十分以内のようである。
先に昼食をとることにし、大島のメイン通りにあるおおしま交流館でバスを降りた。
店が少ないのでお昼時は混むだろうと思い、おおしま交流館を見ておくことにする。
おおしま交流館は、とても小さな施設だった。
地域の信仰の歴史についての展示を見られるということだったが、昼時ということもあり、空いていていた。
スー嬢をゴロゴロ引き連れての見学も憚られるので、受付の女性にコインロッカーがあるか尋ねてみた。やはり、ここにもないという。
「よかったら、見学の間ここに置いておきましょうか?」
とえくぼの可愛らしいその女性が言ってくれたので、お言葉に甘えてスー嬢を預け、場内に足を踏み入れた。ここの売りは、三面鏡のように設置されたスクリーンで、英語字幕つきの島の歴史を学べるというところである。
沖ノ島は、海の正倉院と呼ばれている。それは、古代からの祭祀での奉納品の数々が、そのまま貴重な歴史資料となるものだからである。中国から渡来した銅鏡、鉄剣、玉。あるいは黄金に美麗な細工の施された指輪やシルクロードを経てもたらされたガラス製品の欠片。
国家的祭祀は四世紀後半~九世紀末の約五百年に渡り、海路の無事と大陸に対する国家の安寧を願って行われてきた。
古代から海人として漁を営んできたこの大島では、今も忌み言葉などの習俗が残っているという。船に乗ることは、板一枚を隔てて常に危険と接している。それゆえに漁を生業とする人たちは縁起を担ぐ傾向が強い。それは自然の力を恐れ敬うことと表裏一体なのだ、
島民の人たちへのインタビューも、今も昔も沖ノ島が信仰の対象であることを物語っている。
それを見ていて気付いたことがある。
宗像大社の祭神はたしかに三女神で、姉妹である三女神が一同に会するというみあれ祭も行われている。しかしもっと住民の人たちの意識の深くでは、信仰の対象はあくまで海であり、自然そのものなのだという感覚があるように思える。
これは、日本人の多くにもいえる。
朝廷は、その正当性を主張するために各地で信仰の対象に神々の形をかぶせ名をかぶせたが、もともとの姿は山であり、あるいは岩であり、また川であり、つまり自然信仰である。
神社に詣でる時、神社の祭神そのものを強く意識して詣でる人よりも、もっと大まかで何か大きな力のある『かみさま、のようなもの』に手を合わせている人の方が多いのではないだろうか。神道という名を上書きされる前の自然信仰に近い感覚を、多くの日本人は無意識に持ち続けている、そういう気がする。
ひとり密かに確信を得て、席を立った。

受付でお礼を言ってスー嬢を受取り、外へ出る。
海沿いの道は快適だが、スー嬢の不満の声はだんだんとゴロゴロからガラガラに変わってきた。
立ち止まってよく見てみると、たしかに小さなキャスターは傷んできて、一つはゴムの部分が無くなっている。普段は車での旅が多いので、駐車場からホテルや旅館の部屋までしか歩いたことのないスー嬢にとって今回は過酷な旅であることは間違いない。もちろん引いている私の腰にとっても。
どちらもこの旅の終わりまではもちますようにと三女神に祈るべきか。いや、それは三女神のうちの誰かに怒られそうだ。

3.海宝丸~中津宮神社
空腹を抱え歩いていると売店がちらほらとあり、こじゃれたホットサンド屋に行列が出来ていた。
行列に並ぶ人の視線に見守られながら、ガラガラと通り過ぎる。
漁師の島だけあって何軒も魚介の店が並ぶ中、ガラスの浮き玉が下がっている店を選んだ。
その名も筑前大島漁師料理、海宝丸。
店名が染め抜かれた紺色の暖簾をくぐると、混雑はピークを過ぎてちょうどいい空き具合だった。
隅の小上がりの席を選んだが、そこはあいにくテレビの真下であった。
日曜日の昼下がりのテレビ音声を背中に浴びることとなったが、まあこれも一つの縁かとそこで待つ。早い話が、腰が痛んでもう動きたくなかったのだ。
机におかれたメニューの内容は、海賊丼二千円、刺身定食二千円、およびサザエのつぼ焼き千五百円。
迷わず海賊丼を注文した。表に出ていた『船長直営、漁師が作る海賊丼!』という写真がそれはそれは素敵だったからである。
私のところにやってきたのは、数々の小鉢を引き連れたちょっとした海賊団であった。
海賊と謳っているだけあって、どーんと鎮座する尾頭付きの見事な海老、敷き詰められた刺身はヒラマサかカンパチか。ど真ん中の鮑はスライスされてもまだゆっくりと動いている。。
小鉢は、サザエのつぼ焼き、ひじき煮、めかぶの酢の物、一口南蛮漬けや海藻の煮凝りなどが並んでいた。うるさいテレビの音が気にならなくなるほど、どれも大変に美味しかった。

食事が済んで時計を見ると、すでに一時を回っている。
中津宮神社にお詣りするにはちょうどいい時間かもしれない。
美味しかったですと伝えて会計を済ませ、またスー嬢を連れて中津宮に向かう。
こうして歩いていると、大島は観光地として過剰でもなければ不便なわけでもなく、公衆トイレや海辺のボードウォークなどがしっかりと設置されている。一過性のブームに荒らされた古い観光地にありがちな土産屋の廃屋群もなく、やたら看板が乱立していることもない。風情を守りながら上手に観光地化されていると感じる。詳細はわからないけれど、若い人の感性が活かされているような気がするのは、世界遺産に登録されたのが二○一九年とわりと最近だからなのだろうか。
さて、十分ほどで中津宮神社に到着した。
二の鳥居をくぐると、右手に手水舎があり、左手には小さな藤棚と池があり、その奥に広がるのは長い石段であった。
神社に謎のスーツケースを放置するわけにも行かないので、ひたすらにスー嬢を抱えて昇る。
午後の中津宮神社には、人があまりいなかった。
本宮に参拝し、御朱印を頂くため社務所へ向かう。ここでは、沖津宮神社と中津宮神社の御朱印を頂くことができる。
しかしここでの一番の目的は、社務所の奥に続く道の先にある、天の真名井。霊水と言われるその水を頂くことが、ここでの一番の目的だ。
天の真名井という名のついた湧き水や井戸は、各地にある。
そもそもは宗像三女神誕生の際、スサノオの剣をすすいだ水として登場した高天原の井戸のことで、それに因んで日本各地の名水にその名がつけられており、ここもその一つなのだ。
社務所の奥の道を下っていくと、沢が見えてくる。
沢の脇に小さなお社があり、そこから水が湧いている。
大島のような規模の小さな島で湧き水があるのは珍しいのではないだろうか。それゆえに天の真名井とつけられたのかもしれない。
バックパックから、フェリーターミナルで購入した『祈り星』と、小さなボトルを取り出した。
祈り星は、手作りガラスの小さなオブジェが紙に包まれている。
それを天の真名井ですすぎ清めて自分だけのお守りとするというもので、色や形も様々でどんなものが入っているかは開けてみてのお楽しみ、というアイデアお守りなのである。
私の祈り星は、開けてみるとやさしい桃色の四角い形だった。それを、備え付けのひしゃくの水で濯ぎ、そっとハンカチで拭って元の紙に包み直す。
続いてそのひしゃくで、ボトルにも水を入れる。
こちらは、菊姫の供養のためである。菊姫と縁のある中津宮の霊水を持ち帰り、供養の一端にする心づもりなのだ。
さあ、これで無事に中津宮神社への参拝も済ませた。再びスー嬢を連れてフェリーターミナルへ戻ろう。
フェリーの時間まで少し時間があったので、再び売店に寄り、絵葉書を何枚か買い求めた。
一般人では上陸を許されていない神宿る島、沖ノ島の遺跡を写真に収めたものを選んだ。そのうちの一枚は、兄とその奥さんへの礼状を書くつもりだ。

大島は美しい島だった。心残りが色々とあるのでぜひまた訪れたいと思う。
帰りのフェリーも問題なく出航した。あいかわらず、出航してしばらくは少し船が揺れ、暴れるスー嬢を押さえながら、二個目の酔い止めキャンディを噛み砕くこととなった。

4.辺津宮~チサンイン宗像
神湊へ到着。少し歩いて西鉄バスに乗り込み、東郷駅に向かう。
しかし路線図を見ていると、途中の停留所に宗像大社と書いてあった。
辺津宮のことだ。通り道だったのかとつい、停まりますボタンを押す。
まだ時間は四時前。よし、今日のうちに辺津宮までお詣りしてしまおう。
宗像大社で降りたのは、私ともう一人のみ。この時間からバスで来る人はあまりいないのだろう。
次のバスまで一時間あるのを確かめ、参拝に向かう。
辺津宮は立派なお社で、記紀に名前が出ているだけはあり、この時間でも参拝客が引きも切らず訪れていた。
二の宮、三の宮も参拝する。これらはここ一か所で宗像大社の三つの宮の参拝が終わるように建てられたもので、二の宮が沖津宮、三の宮が中津宮の分霊を祀っている。
遥拝といいこの方式といい、神道は不思議なところで合理的だ。
そして社殿に見覚えがあると思ったら、それもそのはず。伊勢神宮の別宮、月読宮にある伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮の旧社殿を式年遷宮の折に下賜されたのだという。
中央とのつながりの強さを感じさせる話である。
辺津宮の境内は広く、石畳の道が続くがスー嬢が不満の声を漏らさぬよう、持ち上げて歩くしかない。
腰が限界に近付いている。明日、起き上がれないかもしれないな、と思いながら再びバスに乗り込み、終点の東郷駅へ。

JR九州鹿児島本線の東郷駅は小さな駅だった。ホテルまでは歩けば四十五分だが、もちろんタクシーを拾う。今回の旅は、バス、タクシーと普段乗らないものに乗るな、と思う。
タクシーの中でオンラインチェックインを済ませていたので、フロントでカードキーを受け取り、部屋へ直行する。今回のホテル、チサンイン宗像も簡素ながら清潔感のあるいいホテルだった。一人旅には十分だ。部屋で一息付けた時にはすでに五時を回っていた。
夜七時にはご開帳が始まる。とんでもない一日の濃さである。

夕食を早めに済ませておかねばと思ったが、チサンイン宗像は中心街から離れた幹線沿いのビジネスホテルで、夕食を食べる店に困った。
仕方なく一番近かったやよい軒で、せめてもの抵抗としてチキン南蛮定食を食す。
配膳くんが給仕をしてくれたが、彼がなかなか帰ろうとしないので、本体横のボタンを押してお帰り頂く。ちょっと楽しい。チキン南蛮定食は普通に美味しいが、旅先の食事がファミリーレストランなのは、やはりちょっと悔しい。
ホテルに戻り、荷物を準備する。そう、ここからがこの旅の本番である。

5.増福禅院ご開帳
六時にホテルを出る。ホテルから増福禅院まではタクシーのつもりでいたが、旅の興奮がそうさせるのか、チキン南蛮で体力気力が回復したためか、そこから赤間駅まで歩くことを選択してしまった。
歩き始めると、意外と遠い道のりで、真っ暗になり焦りながら人気のない駅への道を駆け足で急いだ。もうすぐ七時というころ、やっと赤間駅にたどり着く。
増福禅院へは、さらにここから北の方角だ。さっそくタクシーを拾い、増福禅院までお願いします、と伝える。
運転手さんが、増福禅院のお近くの家ですか?と聞く。
「本殿までお願いします。きょう夜に行われる秘仏の公開に行くので」
と伝えると、運転手さんは、
「それならよかった。だって夜にお寺までってタクシーを拾う女性なんて、ドキッとするもんねえ」
と言ったので、確かに!と笑った。たしかにまるで怪談である。
運転手さんも地元の方らしく、増福門院へは前日にお参りしてきたという。
だが、運転手さんも菊姫伝説については知らなかった。
ある程度推測はしていたが、本当に現在地元に住んでいる人でも知らないということに少なからぬ衝撃を受ける。
赤間駅から増福禅院へは、十分ほどで到着した。
石段の下の駐車場には、数台停まっている。
さすがにこれは人が少なすぎではないか。
確かに、事前に菊姫伝説について調べた時、出てきたのは心霊スポットを巡る好事家たちのブログがいくつかと、地元の観光地を紹介するホームページだった。
書籍も何冊が出ているのだが、どちらかといえば怪談として取り上げているものだった。
増福禅院のホームページにも、四月二十三・二十四日は春季大祭であることは書いているが、秘仏の公開については触れていない。秘仏公開について知ったのは、地元の観光情報サイトであった。
なので、どんな雰囲気で公開がされているのかほとんど情報がなかった。
秘仏公開について触れていたサイトには、夜店も出てにぎやかだと書かれていたが、実際こうして来てみると、駐車場にはいくつか提灯がさげられているもののまったく人気がない。
ただ鐘楼を照らし出す投光器と、手水舎の照明がついていることで、春季大祭は行われているのであろうことはわかる。
観光客が訪れていい雰囲気なのかどうか、緊張しながら石段を上る。
本堂が見えてくると、ご住職がこちらを向いて何事かを話しているのが見えた。
説法をされているのかと思い、さらに歩み寄ると、そうではないようだ。本堂には椅子が並べられており、檀家さんとみられる方々が座っている。
椅子は空いていたので、そっと本堂に上がり、邪魔にならないように隅に座る。
「…こうして、但馬守は菊姫殺害を命じられたわけですが…」
ご住職は、手に持った紙を読み上げていた。
檀家さんたちも、白い紙の束を手に持っている。
なんと、秘仏公開に先駆け、寺の由縁を語る『増福禅院祭田記』をご住職が解説しながら読み上げているらしい。
願ってもないことである。
話はちょうど、宗像家代々の家臣である但馬守が、家督争いの邪魔になるとして氏男の後家である菊姫の殺害を命じられたところだった。

増福院祭田記の記述は、およそ冒頭の通りである。これだけを見ていると、なぜ菊姫が殺されなければいけなかったのかがよくわからない。
菊姫は確かに、当主氏男の正室であったが、子はいなかった。
氏男の死によって菊姫は後家となったが、子のいない菊姫がなぜ殺されなければならなかったのか。
この時代、宗像氏は戦国武将大内義隆の家臣であった。
しかし、大内義隆が重臣の陶隆房の謀反によって自害に追い込まれた大寧寺の変で、宗像家当主氏男も主君とともに自害して果てた。
当然、宗像氏の家督を継ぐのは誰かという話になる。
候補者は二人。氏男の弟千代松丸と、先代当主正氏の妾腹の子、鍋寿丸(氏貞)である。
名前につられてわかりにくいが、氏男は正氏の子ではない。氏男はもともと親戚筋で、彼の父が正氏の養子という関係にはあるが、正氏の子は菊姫の方なのだ。
一方、氏貞の母はなんと陶隆房の姪である。千代松丸と菊姫殺害を画策したのは、この氏貞の母だったとされ、様々な書状が残っている。当然、背後には謀反の主導者陶隆房がいる。
そもそも陶隆房の姪が正氏の庶子を生んでいること自体、偶然とは思われない。
陶隆房は謀反を起こして義隆を自害させた後、大内氏の後継者として義隆の甥、晴英を当主につかせており、晴英から一字をもらい晴賢と改名している。もちろん晴英は傀儡にすぎず、大内家は陶晴賢に乗っ取られたも同然である。それと同じことを、陶晴賢は宗像氏にも姪を使って行った。
菊姫と千代松丸を殺害し姪の子に家督を継がせることで、陶晴賢は宗像氏までも乗っ取ってしまったのである。
そう理解すると、山田の局がなぜここまで祟ったのかが理解できる。
山田の局にしてみれば、代々の家臣が主君の正室である自分を裏切り、妾腹の子に家督を継がせるため愛娘を殺害したということになる。
氏貞の母や氏貞本人よりも、裏切り者の方へ憎しみと恨みが向かうのは、ある意味当然のことだったであろう。信じていた者に裏切られた深い悲しみが、そのまま翻って強い恨みとなったのだ。
家督を継いだ氏貞であるが、彼は山田事件の際はまだ幼少だったという。しかし祟りへの怖れと、義理の姉でもある菊姫殺害に対し罪悪感もあったのか、増福禅院に田を寄進し、六地蔵尊を作らせている。ただ、六地蔵尊が出来上がる前に彼は四十一歳で没している。彼の死後、宗像氏の直系は途絶え、大宮司の職は擬大宮司の深田氏栄に引き継がれたという。

さて、ご住職による、祭田記の解説が終わった。
今夜来ている人たちは、やはりほぼ檀家の方のみのようであった。
増福院祭田記を文字起こしたものだけでなく、本堂の八十一枚の天井絵を修復した際のカラーコピーまで配布されていたので、ありがたく一部ずつ頂く。
このような機会に恵まれるとはまったく思っていなかった。
そして、ついに秘仏の扉が開けられる。
「奥まで入れますから、どうぞ真ん前でお参りしていってください」
とご住職から案内があった。
列に並び、文字通り手が届くほど目の前まで行って、六地蔵尊を眺める。六地蔵尊は、それぞれ腕の中に納まるような大きさであった。氏貞によって奉納され六百年を経ても、黒く光る光背の内側には金箔の輝きが残っている。十二体あるのは、レプリカが一緒に並べられているのだという。
後ろにも人が並んでいるので、六地蔵尊の前で短いながら心をこめてお参りをする。
一通りその場の人たちがお参りし終わると、秘仏公開はおしまいである。
お寺の方が、紅白まんじゅうを配っている。
遠慮していた私にも、
「紅白饅頭、もらいましたか?縁起ものですよ」
と声をかけてくださったので、これまたありがたく頂いた。
靴を履き、本堂に向かい改めてお参りする。本堂の向かいに建てられた子育て地蔵尊にも。本堂脇をみると、山の方へ伸びる石段があり、その脇に『菊姫様墓所』という石碑が建っている。菊姫の墓所は、この石段の上か。
今回の目的である菊姫の慰霊は、この墓所で行うべきだろう。
しかし、石段の上はもう完全な暗がりに呑まれている。それに、こんな時間に登っていくのもお寺の方に迷惑だろう。また明日の午前中に、改めて参拝し、菩提を弔わせてもらおう。
そして再びタクシーで、今度こそホテルまで帰った。
疲れ果ててはいたが、大島と増福禅院での経験で興奮冷めやらず、風呂に浸かった後も、なかなか寝付くことができなかった。惜しげもなく資料を配られた資料と、手の届きそうなほど近くで、ご本尊を拝見するという、こんな機会は滅多にあるものではない。まったく思いもよらない形でのご開帳であった。まったく、宗像というところはすごい場所である。
この日の歩数は、実に二万三千歩にのぼった。私にとっては新記録である。

◆四月二十四日 
1.増福禅院宝物殿
いつも通り朝五時半に起床。さっそく荷物の整理をする。
ホテルの売りであるヘルシーな朝食ブッフェで、海藻サラダをはじめ豆腐ハンバーグなどを美味しく頂く。そしてこれまたこのホテルの売りである大きくてきれいな部屋風呂に贅沢にも朝から浸かって、体をしっかりと温めてほぐす。
いよいよ最終日。そして旅の目的である菊姫の菩提を弔う大切な日だ。
帰りのフライトの時間は十六時五分。空港へは二時半に到着すれば大丈夫だろう。
朝早くに増福禅院を再訪し、菊姫の慰霊を行ったら、初日に断念した大宰府に行こうか。
こんな風に予定を立て、今度は赤間駅までタクシーを使う。今朝は、昨夜と逆に赤間駅から増福禅院まで歩いてみようと思ったのだ。
赤間駅は、東郷駅よりも大きく特急も停まる駅らしい。当然コインロッカーもしっかりあって、スー嬢を預けて身軽になり、そこから山側へ歩く。
駅からしばらくは大通りに沿って住宅街や店舗が続くが、二十分ほど歩くと、家もなくなり田んぼが一面に広がり、その向こうに山が見えてくる。
この辺りになると、すれ違う人も道行く車もほとんどいない。時折行き合う、散歩している地元のお年寄りと挨拶を交わして山の方へと歩く。この辺りが山田の局の郷里、旧山田村である。
田んぼではあるが、糸島の方と同じく麦が穂をつけている場所も多い。
兄から聞いた、『福岡では、小麦もラーメン用に改良されたラー麦という品種が多く栽培されている』という話を思い出す。コシが強い麺を作るため、グルテン量が多くなるように改良されているらしい。
さすがは博多ラーメンの地である。このあたりの小麦もラー麦だろうか。

ちらほらと、田んぼの中に立てられたのぼりが見え始める。紫色ののぼりには『本尊六地蔵尊御開帳』、赤いのぼりには『山田地蔵尊春季大祭』とある。だがそれを目当てに歩いている人は私以外には見当たらない。
増福禅院に到着し、大きな白い幟が掲げられている石段を上る。朝の九時のせいか、今日も駐車場には車がほとんど止まっていない。昨夜と同じく手水舎で手を清め、さらに石段を昇る。
まず本堂にお参りし、御朱印を頂けるだろうかと思いついて、本堂横のお守りが並べてある場所で、御朱印を頂きたいのですがと、そこに座っていた係りの方に聞く。
寺役だろうか、檀家さんらしきその男性は頭をかきながら、御朱印はやっていないみたいですよ、と言う。とても残念であるが、それだけ外から訪う人が少ないのだろう。代わりにといってはなんだが、子供お守りを二つ購入する。
「おつり、ちょっと待ってくださいね、住職がいま忙しくて」
と男性が恐縮するので、昨夜ご開帳に来させてもらったことなどを話して待つ。
昨日に続き、春季大祭ということで午後からご祈祷が予定されているらしく、裏でいろいろと忙しく準備をされている気配がする。
お釣りを受け取ると、男性は子育て地蔵の隣の小さな蔵のような建物を指さし、
「今日はあそこも開いていて、ガイドさんもいるからぜひ見ていってくださいね」
と勧めてくれたので、そこへ向かった。

入り口に、ガイドらしき年配の男性が立っていて、どうぞどうぞと中へ案内してくれた。
真正面の壁には、宗像氏貞の木像がある。その社の部分には、昨夜頂いた紅白饅頭の焼き印と同じ家紋があった。少しとげのある葉が三枚と、何かの実らしきものが四つついている。どんぐりのように見える。
「この家紋ね、楢の葉です。宗像大社の紋ですよ。だからこの寺の紋も同じなんです」
とガイドさん。楢の葉の紋は、菊姫の時代より二百年前に、新田義貞と楠木正成との戦いに破れこの地に逃れてきた足利尊氏を宗像氏が白山城に招き、のちに多々良浜の合戦に共に臨んだ時、楢の葉に包んだ握り飯を食べ勝利したことに因んでいるらしい。これも宗像氏の長い歴史の一端である。
そして、氏貞公の木像の下には、ガラスケースに収まった絵巻物があった。
そう、ここはまさに宝物殿であった。そして公開されているのは、貝原益軒の『増福禅院祭田記』と、それをもとに描かれた江戸時代の増福絵巻物の現物である。
ガイドさんは、私が菊姫伝説について取材をしに来たことを話すと頬をほころばせ、手製の資料を示しながら解説してくれた。増福院祭田記も、絵巻物もどうぞ写真を撮ってくださいねと勧められ、私はまた驚いた。
さらにガイドさんは、六地蔵尊が奉納された後のこの寺の歴史についても語ってくれた。
増福禅院は、六地蔵尊奉納から百年ほどで一度廃れ本尊の由来もわからなくなった時期があったのだという。そのため、地元が福岡藩の藩士である貝原益軒に依頼し、貝原益軒が増福禅院にどのような経緯があったのか文献を集め増福院祭田記として起こし、彼の妻が清書したとのことだった。
色々な神社仏閣の歴史を調べていると、時の権力者との関係やもっと大きな時流のうねりによってかなりの興隆があることがわかるが、この増福禅院もそのような浮き沈みの中を現代まで生き残ってきたのだった。そして、そこには必ず地元の人たちの努力があるのだ。

増福禅院が試練に晒されたのは、その時だけではない。
増福禅院のパンフレットでは、明治の神仏分離の際にも騒動があった、とのみ触れているが、ガイドさんによれば、大変なことになっていたらしい。
そもそも江戸時代には、幕府は仏教を保護し寺請制度を設けた。寺はその土地の戸籍を管理し、住民の身元を保証するひとつのインフラとして機能していたのだ。
ところが明治維新後、政府は国家神道を推進するため、神仏分離を推し進めた。
その結果、新体制での不安定な政情に加え、長いこと寺が権力者であったことへの不満や反発が爆発し、神道の人間や庶民が暴徒化して寺を襲うという騒動が全国的に巻き起こった。それが廃仏毀釈である。
その規模や被害程度は地方によって変わるが、九州においては、討幕を主導した地元でもあったことが大きかったのかかなりの規模になり、鹿児島に至っては寺が一つもなくなったほどだったという。
この増福禅院にも当然余波が及び、ご本尊である六地蔵尊が神道の者の手によって持ち去られ、行方が分からなくなってしまったのだ。
それにより寺をどうするのかについて、地元を二分するような状態になったそうだ。
(ここでいう『神道の者』というのがどこを指すのかガイドさんは言わなかったが、のちに調べてみると、やはり宗像大社が関係していたという研究報告書が出てきた。どこまでも因縁が深い)
その後、持ち去られた六地蔵尊のありかがなんとか判明し、その帰属を裁判で争ったのだという。
裁判においてこの貝原益軒の『増福禅院祭田記』が証拠となり、六地蔵尊の帰属が増福禅院にあると認められ、やっとご本尊が帰ってきたのだという。
それゆえこの『増福禅院祭田記』には、当時の裁判所の裁判資料としてハンコが推してあるのです、とガイドさんは語った。見れば確かに、
『五年六月廿二日 控訴裁判所 判事 安藤定格 閲』
という判と裁判所の印らしきものが、冒頭部分の右下に押されている。まさにこの寺の歴史の証人となっている。
さらにガイドさんは語る。
昔はこの春季大祭とご開帳の日は、赤間駅からシャトルバスを出すほどの人出で、境内にもたくさんの屋台が出ていたんですよ、と。
私は駅からの徒歩の道のりを思い浮かべた。今では想像もつかないことだ。
新しい住宅街やショッピングセンターが立ち並んでいるが、そこに住んでいる人たちは、あのタクシー運転手さんのように、寺の存在は知っていても菊姫伝説のことは知らない、そういう人が多いのは間違いなさそうだ。
宗像市は現在人口約九万七千人。流入する若い世代と、昔から住んでいる人たちとの融和は、宗像だけではなく全国的な課題となっている。
増福禅院のご住職が、昨夜のような形で六地蔵尊の由来を語り、資料を配ってのご開帳をされているのも、増福禅院の持つ歴史と意味を広く知ってほしいと願ってのことだろう。
六地蔵尊の歴史は、そのまま宗像大社と宗像という地の影の歴史でもある。増福禅院のことを、知る人が増えてほしいと願う。

2.菊姫墓所
宝物殿を辞し、この旅の最終目的地である菊姫墓所へ。
昨夜見上げた本堂脇の石段を上がっていくと菊姫廟という扁額があり、比較的新しいと思われる鉦が下がっていた。六つの仏塔は欠けたり崩れたりしているものもある。もしかしたら廃仏毀釈の影響なのか。
私はバックパックから、持参した線香一束、お供えの菓子、六文銭を取り出す。今は六文銭もパラフィン製のものもあり、またこれが実に精巧にできている。最後に、天の真名井の霊水を取り出し墓前に供える。
線香に火をつけ、香炉に立て、数珠を手にかける。そして、数珠を取り出し、写経した薄紙を広げて般若心経を唱えた。

まず般若心経を十四文字十九行で写経する。
それを地に埋めて地に還し、水に流して水に還し、火にくべて火に還す。
これは、橘香道という方が提唱した作法だという。
これは十四がトヨウケ、十九がトコタチを表しているということだが、伊勢神道ではトヨウケノオオカミは宇宙の根源神とされるアメノミナカヌシ、およびクニトコタチと同一視されている。どちらもイザナミイザナギ以前に現れ、姿を隠した神秘に包まれた神である。その神々の力を借りて、写経した経文に霊的な力をこめる。
そしてそれらを土に埋め、水に流し、火にくべるという三気の処置をすることで土地を浄化し、魂を供養することができるという。
今回、菊姫の慰霊の旅ということで浅学な素人なりに調べ、この作法に則り菩提を弔うことにした。
般若心経を唱え終わり、写経した紙を天人地の三つに分け、まずその一つを地に埋める。
次に、ひとつを天の真名井の霊水をもって、水に流す。
写経には、埋めれば自然に還り、水に溶ける紙を使っている。天の真名井の霊水に、紙はほどけるように溶けた。
そして、最後のひとつを線香の火にかざす。
透けるほど薄いその紙は音もなくにじむように燃えて、灰も残さず燃え尽きた。
私は改めて、漂う線香の香りの中で墓前に手を合わせる。

うら若い身で宗像氏の当主氏男の妻となり、家督争いに巻き込まれて命を落とした菊姫。
代々の家臣の手により娘を殺され怨霊となり、侍女らとともに三百人以上を祟り殺した母、山田の局。彼女たちは本尊として祀られてからも、歴史のうねりに巻き込まれ、数奇な運命をたどってきた。
けれど、いつの時代も六地蔵尊を守ろうとする人々がいて、その努力が実り今は安らかにここにあり、子供たちの守護仏となっている。
どうか安らかにお眠り下さい。そして、世の全ての母と子をお守り下さい。
ご開帳の夜、ご住職が語っていたことを思い浮かべる。
恨み、祟る力が強いほど翻って守護の力が発揮される。
禍々しいもの、祟るもの、怨霊、人智を超えた力を持つもの。
日本では、それらを退けようとするのではなく、畏れ敬い、神仏として祀り鎮める。天神菅原道真公や六地蔵尊のように、恐ろしい怨霊も善き存在に変えることができる。
それが万物に魂が宿る八百万の神信仰であり、日本の仏教もまたその思想と分かちがたく結びついている。悪しきものを否定し排除するのではなく、敬意を払い包み込んで昇華する。その包容力が、日本の信仰の核心ではないだろうか。

こうして無事に、今回の旅の目的を果たすことができた。
ほっとして増福禅院を辞し、駅へ向かって歩いていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。大祭の時期はいつも涙雨が降るんですよと、お庫裏さんが檀家さんと話していたのが蘇る。菊姫の涙だろうか。
この涙雨がどうか、悲しいものではありませんように。

3.むっちゃん万十赤間店~櫛田神社
旅はもう少し続く。増福院を発ち、駅が見えてきたのは十一時を少し回った頃。
これなら大宰府まで行けるだろうか、と時刻表を確認すると、十一時七分の特急ソニックに間に合いそうだ。
よし、ちょうどいい。ちょっとATMでお金を下ろそう、と歩く私の視界にはいったのは、大きな黄色の看板に、赤字で書かれた『むっちゃん万十』の文字。
ああ、これは運命かも…と私はふらふらと吸い込まれていった。
そして、むっちゃん万十赤間店で念願のごろごろちゃん(蛸と葱入り)と、ツナサラダを購入した私がはやかけんで改札を通りホームに降りると、出発直前のソニックがいた。
よし乗ろう、特急券は車内で買えばいいや、と飛び乗ったのが間違いであった。
車内は現金のみしか使えないことを知らなかった私は、特急券のための現金が足りず、改札で払うよう博多駅に車掌さんから連絡してもらうという失態を演じた。

誘惑に負けて車掌さんに迷惑をかけたことを心底反省しつつ、博多駅でコインロッカーを探す。とにもかくにも、スー嬢を預けなければ話にならない。
しかしさすが博多と言おうか、有名観光地とは恐ろしいものだ。探せど探せど、全てのコインロッカーは全て使用中。小さいロッカーも鍵ひとつ付いていない。
私は見事にコインロッカー難民となった。
時間的にもやはりスー嬢を連れての太宰府詣りは難しそうである。仕方ないのでスー嬢と一緒に回れる博多の観光地を探したところ、徒歩圏内に櫛田神社があった。
いよいよ足元の怪しくなってきたスー嬢を引きずり博多の街を歩く。
時々見かける、スーツケースを引いたまま不便そうに観光している人に対して、
「こんなところをどうしてスーツケース持って回るんだろう。預ければいいのに」
などと思っていた自分が恥ずかしい。
あの人たちもまた、私と同じように争奪戦に敗れたコインロッカー難民だったのだろう。なってみて知るその辛さ。
今後は、旅行前にしっかりコインロッカーの場所をチェックしておかなければ、と思いながら歩く私であった。
ともあれ、徒歩十分ほどで櫛田神社に到着した。
櫛田神社の創建は七五七年。お櫛田さんと博多っ子に親しまれ、五月には博多どんたく、七月には博多祇園山笠、十月には博多おくんちと、一年を通じて大きな祭りが行われている博多の総氏神だ。
本宮に参拝すると、左右に青鬼赤鬼の面が下げられていた。櫛田神社の節分会は、門に巨大なおかめの面が設置され、口の中を通ってお詣りするので有名なのだという。この鬼の面も節分会で使われるものだろうか。
博多の総鎮守という扁額の通り、観光客だけでなく地元の人らしい姿もたくさん見受けられた。
活気のある博多を象徴しているような櫛田神社で、思わず増福禅院の静けさを思い浮かべた。
4.帰途
ついに博多ともお別れである。
人出の多さを見越して、二時には地下鉄で福岡空港へ移動した。
航空会社のカウンターでスー嬢を預け保安検査を受け終わると、時刻はすでに三時を過ぎている。
保安検査をパスしたバックパックの中のむっちゃん万十を取り出し、昼食にする。
やや蒸れてしまっているが、ごろごろちゃんもツナサラダも美味しかった。たい焼きよりもしっかりと厚みがあるが生地が柔らかく、ボリューム満点である。
どちらも中にマヨネーズが入っており、それが博多っ子には人気なのだそうで、お店では『リクエストにお応えして、ついに商品化しました!』とマヨネーズだけで売られていた。次回こそは、焼きたてで食べたいものだ。
離陸直前、また雨がポツポツと降る。再びの涙雨だ。別れを惜しんでくれているのだろうか。
エンジンが点火し、機体が動き出す。飛行機はゆっくりと大きく弧を描いて滑走路へと進み、そしてついに、轟音とともに九州の地を離れた。
窓の雨粒が風に流れて、私も少し感傷的になった。
かくして、総歩数五万六千歩の、菊姫慰霊の旅は無事に終わりを告げた。


◆エピローグ
今こうして、菊姫の慰霊の旅の記録を書きながら私が眺めているのは、増福門院で頂いた資料だ。
今回の旅で気づかされたのは、この地の歴史をいかに多くの人に知ってもらい、それを活かすかを模索する地域の人々の熱意である。
福岡市博物館では、一部を除き金印までもが写真撮影可能だった。
伊都国博物館でも同じである。惜しげもなく資料を公開し、撮影も可能。見てもらおうという気概をひしひしと感じられる展示内容であった。
増福禅院でも、ご開帳ではこれらの資料を配り、ご住職が解説をされている。秘仏である六地蔵尊を手の届く距離で眺めることができ、宝物館でも増福院祭田記と絵巻物を公開し、そこでも写真撮影を可としている。
また、この原稿を書く際にも、宗像を知るための電子データベース、むなかた電子博物館に載せられた宗像氏についての資料を参考にさせて頂いている。
『私たちは、古代、中世の人々によって書写されて世の中に出され伝えられた文書を大切にし、資料批判の視点を持ちながら後世に伝えていく義務がある』(むなかた電子博物館紀要第二号より)
今回旅した地域に宿るのはまさにこの精神であると感じた。
そこに共通するのは、貴重なものでも惜しげもなく公開し役立てようというオープンで高い志である。これには本当に驚かされるとともに、尊敬と感謝の念を覚える。これは同時に、この地方の人の気質でもあるのかもしれない。
そんな人々の志に助けられ、私もまた菊姫伝説について多くを学ぶことができた。この菊姫伝説を、怨霊譚やお家騒動としてだけではなく、もっと大きな視点で他の人に知ってもらえるよう努めていきたい。
どんな地域にも、歴史には裏と表がある。人間がいる以上、好ましくないことも起こり得るし、地域の人が語りたがらない史実も存在する。
しかしそこから目をそらさず、公平な目で知ろうと努め、理解し、語り継いでいくこと。
それこそが、菊姫伝説についての本当の慰霊になっていくのではないだろうか。
九州は、まだまだ知るべきことが多い場所だ。
次こそは太宰府天満宮に参拝するとともに、大宰府の歴史遺構の数々をじっくりと回り、もっと理解を深め、その意義と魅力を伝えていきたい。
そして、ぜひ作り立てのむっちゃん万十を頬張りたい。そう願っている。  

(了)

○参考文献○
『古事記』 倉野憲司校註 岩波文庫
『日本書紀』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校註 岩波文庫
『文献にみる宗像三女神降臨伝承について』 平松明子 むなかた電子博物館紀要第二号
『戦国期における宗像市の家督相続と妻女』 桑田和明 むなかた電子博物館紀要第四号
『増福院祭田記』 貝原益軒(増福禅院所蔵)