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執筆者:マルハナバチ
春分の日特集

常世の浪の敷浪寄する、伊勢神宮(三重県伊勢市)

執筆者:マルハナバチ
執筆者:マルハナバチ
皆さまご存じ、伊勢神宮
皆さまご存じ、伊勢神宮
  • 1.春分の日の意味と、伊勢神宮
  • 2.天武天皇と、伊勢神宮創建を語る日本書紀
  • 3.伊勢神宮が最高位の神宮となった背景

こんにちは!今年は土曜が祝日に3回も重なって悔しい主婦ライターのマルハナバチです。
今回は春分の日特集ということで、誰もが知る大神宮、伊勢神宮をフォーカス!
春分の日と伊勢神宮って関係あるの?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、実は関係ありもあり、大ありなのです。
春分の日と伊勢神宮の関係、さらに、伊勢神宮がなぜ国家鎮護の要となる神宮となったのか、の謎に迫っていきますよ!
ではまず、春分の日ってそもそも何?というところからスタートいたしましょう。

1.春分の日の意味と、伊勢神宮

  • 伊勢詣りの出発点、外宮へ
    伊勢詣りの出発点、外宮へ
  • 衣食住と産業の神、豊受大神宮
    衣食住と産業の神、
    豊受大神宮

春分そのものは、二十四節気のひとつ。
二十四節気は、四季の天候のめやすを知る暦として飛鳥時代に中国から取り入れられ、日本独自の気候(梅雨や台風)を取り入れつつ改良されてきました。
春分はまさに、春と冬とを分ける日。
この日を境にどんどん昼が長くあたたかくなり、人々は稲作の準備を始め、秋に実りの恵みを受けることができます。
暮らしの根幹である農業をささえる二十四節気のひとつとして、永く親しまれています。

次は『春分の日』という呼称について。
国民の祝日のひとつである春分の日は、もとは春季皇霊祭と呼ばれていました。
皇居にて、歴代の天皇をはじめ、すべての皇族の高祖の神霊を祀る大祭です。
戦後、国家神道色を払拭するため、国民の祝日に関する法律が施行され、『春分の日』と名を、『自然をたたえ、生命を慈しむ日』と意味を変えましたが、本来の春季皇霊祭は現在ももちろん行われています。

ではなぜ、春季皇霊祭が行われるのが春分の日なのでしょうか。
ご存じの通り、春分の日(と秋分の日)は真東から太陽が昇り真西に沈みます。
太陽が真西に沈む。
そのことから、西方に浄土があると考える仏教上では大切な日と考えられ、春分の日(と秋分の日)を中心にした七日間をお彼岸とよび、祖先の霊に感謝し供養するという習慣ができます。
いわゆるお彼岸という習慣は、日本独自のもの。
その出発点は浄土信仰。
天台宗から始まり、平安時代初期から貴族の間にも広まり、後期には庶民にも裾野を広げています。
平安中期から皇霊祭は仏式で行われていましたが、明治維新以後、神仏分離がされたため神道式で行われるようになっていったのです。

四季のうつろいを知り、稲作を営むめやすの二十四節気のひとつとしての春分。
仏教で、先祖の霊を慰めるお彼岸としての春分の日。
その二つの意味が結び合わされて、現在も、春分の日が国民の祝日として祝われているのです。

  • 外宮別宮、豊受大神荒魂を祀る多賀宮
    外宮別宮、豊受大神荒魂を祀る多賀宮
  • 同じく、風の神二柱を祀る風宮
    同じく、風の神二柱を祀る風宮
  • 同じく、大土乃御祖神を祀る土宮
    同じく、大土乃御祖神を祀る土宮

さあ、春分の日の基礎知識を得たところで、いよいよ今回取り上げる大神宮をご紹介します!
誰もが知る、神宮オブ神宮である伊勢神宮。
正しくはただ、神宮。
(この呼称に、比肩するもののないただ一つの神の宮としてのプライドが垣間見える!)
言わずと知れた、日本の皇室の祖神天照大神をお祀りする最高位の神宮です。
それにより、皇居で行われる春季皇霊祭に合わせ、伊勢神宮でも春季皇霊祭遥拝式が執り行われるのです。

ご神体は三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)。
天岩戸のとき、天照大神の顔を照らし驚かせた大きな鏡です。
咫(あた)は、古代の長さの単位。
掌の下の端から中指の先端までを指すということなので、成人男性だと平均約17cm。
八咫というと、約136cmになります。
小学5年男子の平均身長が約138cmだそうですから、割とリアルなサイズ感です。
つまり、八咫烏も同じサイズということでしょうか。大きい…。

伊勢神宮公式HPによりますと、伊勢神宮を形成するのは外宮と内宮、14か所の別宮、43社の摂社、24所の末社、42所の所管社、全部で125社あるとのこと!
そのうちの主なものをあげてみます。

★内宮(皇大神宮)
祭神:皇室の氏神である天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)=天照大神
内宮の中にある別宮:荒祭宮、風日祈宮
内宮の外にある別宮:月読宮、伊雑宮、月夜見宮、瀧原宮、倭姫宮

★外宮(豊受大神宮)
祭神:豊受大御神(とようけのおおみかみ)=食物、衣食住、産業を司る女神
外宮の中にある別宮:多賀宮、土宮、風宮

内宮の外にある別宮まで回ろうとすると、本当に一日では足りません。
お詣りの際はどうぞ、外宮→内宮→内宮の外の別宮、の順番でお回りください。
ワタクシは、外宮からバスで内宮へ行き、そののち月読宮、倭姫宮と歩いて力尽きました。

  • 人でにぎわう内宮の大鳥居
    人でにぎわう内宮の大鳥居
  • 内宮の正宮へ向かう人々
    内宮の正宮へ向かう人々

2.天武天皇と、伊勢神宮創建を語る日本書紀

伊勢神宮、あまりに有名すぎて、単なるご紹介ではご満足いただけないかと思います。
そこで今回は、伊勢神宮が最高位の神宮になった理由に迫ります!
ご存じの方は「倭姫が伊勢巡幸で八咫鏡を祀ったからでしょ?」とおっしゃるでしょう。
伝承上ではそのとおり。
垂仁天皇の娘、倭姫は、その代の天皇たちと同じく実在を疑問視されています。
伝承上の存在である倭姫が八咫鏡を祀った場所。
それがなぜ伊勢でなければならなかったのか。
鍵を握るのは、伊勢神宮の創建神話が書かれている日本書紀と、その成立背景です。

天照坐皇大御神の鎮座する、内宮正宮
天照坐皇大御神の鎮座する、内宮正宮

古事記と日本書紀。
どちらも、茫漠としていた世界の始まりから、伊佐奈岐(いざなぎ)伊佐奈美(いざなみ)が日本の国をつくり、天照大神をはじめ多くの神々が生まれ、やがて大和朝廷へと続いていく内容となっています。
しかし、中身は微妙に違うのです。

古事記の成立は712年。
物語性が強く、天照大神の子孫(つまり天皇)と対立する立場となる、出雲神話のエピソードが多く書かれています。八百万の神々が生き生きと躍動し、読んでいて面白いのはこちらでしょう。
文字のなかった時代の言い伝えを中心に編集したためか、そのような仕上がりとなっています。

いっぽう、日本書紀の成立は720年。
こちらは編年体で書かれ、日本国初の天皇の命により編纂された、いわゆる勅撰国史です。
その内容は国のなりたちを説明する歴史書にふさわしく、神代の話は大幅に短縮され、出雲神話も多くが省かれ、天皇の系譜に多くの章が割かれます。
成立に9年しか開きがないにもかかわらず、古事記と日本書紀には違いが見られ、中身も少しずつ異なるのです。 (おまけに人物名の漢字表記も異なり、名前自体も少しずつ違ったりするのでややこしいんです!)

日本書紀と古事記の編纂は、ともに飛鳥時代の天皇、天武天皇が命じた一大事業です。
宇宙の始まりから33代推古天皇までの歴史が、たくさんの資料が参照されつつ、天武天皇の死後一時の中断をみながらも、日本という国の正史として完成されました。

古今東西、権力者が歴史書を編纂する目的のひとつに必ず含まれるのが、国家権力の正当性の主張です。
朝廷は日本書紀を創ることで国の成り立ちをはっきりさせ、国家を支配する正当性の根拠を、史実と伝承と創作をたくみに織り交ぜながら示したのです。
ここで、編纂を命じた天武天皇について知っておきましょう。

内宮別宮:天照大神荒魂を祀る荒祭宮
内宮別宮:天照大神荒魂を祀る荒祭宮

天武天皇は、日本の文化において重要な位置を占める天皇です。
天皇という呼称、『日本』という呼称を使い始めたのも、天武天皇の時代といわれます。
神道としては古事記と日本書紀の編纂を命じ、かたや仏教も庇護し国家仏教を推し進めました。
神道と仏教。
専制君主として皇親政治をしつつも、日本という国をいまも文化的に支えるふたつの宗教を保護し、現在にまで至る宗教的基盤を作りました。
そしてそれによって日本独自の文化が生まれる素地を用意した、と言える天皇なのです。

天武天皇と言えば、壬申の乱。
日本史上まれにみる、皇族による成功したクーデターです。
天武天皇の皇子としての名は、大海人皇子。天智天皇の、血をわけた実の弟です。

大化の改新後、兄の天智天皇(中大兄皇子)は中臣鎌足と強権的な政治を行いました。
そして、そのあとを息子である大友皇子が継ぎます。
しかし大友皇子は。叔父であり皇弟であった大海人皇子を、自らの地位を脅かしかねない者として敵視。
大海人皇子は大友皇子が自らを殺すために動いているのを察知し、大友皇子を討つために挙兵。
大友皇子を打ち破り、即位して天武天皇となりました。

と、これはあくまで天武天皇勝利後に語られるお話です。
大友皇子側からみれば、大海人皇子は簒奪者ということになります。
まさに、勝てば官軍負ければ賊軍。
もともと、天智天皇と天武天皇は険悪な仲で、大海人皇子の妃であった額田王を天智天皇が奪った恨みであるとか、その原因には諸説あります。
ともあれ、兄の息子を死に追いやり位についた天武天皇ですが、兄に奪われた額田王の身代わりのように嫁いできた兄の4人の娘のひとり、鸕野讃良皇女(うののさららひめ)を皇后におきます。
のちの持統天皇です。
また、自らの息子の草壁皇子を、天智天皇の娘、阿部皇女(あへのひめみこ)と結婚させています。
しかし草壁皇子が早世したため、阿部皇女は元明天皇として即位します。

このように、兄の娘たちとの間に幾重にも血縁を結んだのは、兄に対する贖罪でしょうか。
それとも、自らも同じように肉親に殺されないためか。
そんな天武天皇が、『正史』つまり自らの権力の正当性の根拠となるものの編纂を命じた理由。
わかるような気がしてきませんか。

  • 内宮別宮、月読宮
    内宮別宮、月読宮
  • まず月読宮、月読荒魂宮の順に参拝
    まず月読宮、月読荒魂宮の順に参拝
  • その後、伊佐奈岐宮、伊佐奈彌宮に参拝します
    その後、伊佐奈岐宮、伊佐奈彌宮に参拝します

3.伊勢神宮が、最高位の神宮となった背景

さあ、そんな背景を知ったうえで、伊勢神宮創建の神話をみてみましょうか。
日本書紀には、垂仁天皇のころ倭姫命(やまとひめのみこと)が八咫鏡をもち、天照大神を祀るにふさわしい地を探したという記述があります。
いっぽう古事記には、伊勢神宮については崇神天皇の后妃と皇子女の項に、こうあるのみ。

“豊鋤比売の命(とよすきひめのみこと)は伊勢の大神宮の職を拝(いつ)き祭りたまひき”
(角川文庫『新訂古事記 月―現代語訳』武田祐吉 訳注 中村啓信 解説 より)

垂仁天皇の項でも、倭姫の名前は一切出てきません。
倭姫が出てくるのは、その兄景行天皇の項。倭姫が伊勢神宮の斎宮として、甥である倭建命に草薙を授ける話が初出です。
古事記に存在しない伊勢神宮創建の話が、正史である日本書紀にわざわざ加えられている意味を考えてみましょう。

天孫降臨のさい、天照大神は自らの子孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)に三種の神器を授けます。
八咫鏡、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、そして八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。 それらは、天照大神から下された神器、というだけではなく、天照大神の神魂でもあり、神威そのもの。
三種の神器は天孫降臨以来、天皇の住まいに鎮座していました。

しかし、崇神天皇の時代、世に疫病がはびこりました。
崇神天皇は、自分のそばに神威ある八咫鏡を置くことを恐れ、豊鋤入姫命に託し、宮から遠ざけ笠縫邑にて祀らせます。
その後を継いだ垂仁天皇は、崇神天皇に倣い、娘の倭比売命に天照大神を祀るに相応しい地を探させました。
倭比売命は八咫鏡をたずさえ、近江の国、美濃をめぐり、そして伊勢に至ったとき、神託が下ります。

伝承上の伊勢神宮創建の立役者、倭姫の宮
伝承上の伊勢神宮創建の立役者、倭姫の宮

“爰(ここ)に倭姫命、大神を鎮め坐(ま)させむ処を求めて、菟田(うだ)の笹幡(ささはた)に到る。
更に還(かえ)りて近江の国に入りて、東(ひむがしのかた)美濃を廻(めぐ)りて、伊勢国に到る。
時に天照大神、倭姫命に誨(おし)へて曰(のたまわ)く、
『是(こ)の神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。
傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと思ふ』とのたまふ。
故(かれ)、大神の教えの髄(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢の国に立てたまふ。”

(岩波文庫 『日本書紀(二)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校註 より)

鎮まるべき場所を求めていた天照大神が、伊勢気に入った!ここにいることにするわ!と神託を下し、垂仁天皇はそれに従って社を建てたのです。
さてこんなにはっきりと、正史に伊勢神宮の創建について書き加えた理由とはなんでしょうか。
それは、天武天皇と伊勢国の結びつきが関係していると思われます。
壬申の乱の際、大海人皇子であった天武天皇が挙兵した際の兵力は、微々たるものでした。
そのため、戦いへ向かうその道々で兵を募っていったのです。
そこで、兵を出すのを拒んだのが名張。
伊勢では、国司である三宅連石床(みやけのむらじいしとこ)が兵を出し、後押しをしました。
壬申の乱後、皇位に就いた天武天皇は、その娘の大来皇女を斎宮として伊勢神宮に送っています。
(出兵を拒んだ名張は、天武天皇に冷遇されたそうです…)

伊勢神宮の公式HPの、式年遷宮の歴史のページにも、こんな記載があります。
“式年遷宮の制度は、天武天皇のご発意により始まり、次の持統天皇4年(690)に第1回が行われました。”
さりげなく書いてありますが、このことの意味、おわかりですね!

つまり、天武天皇はその即位の過程で、伊勢に大きな恩がありました。
即位後、それに報いるとともに、娘を斎宮に送り、伊勢神宮を国家鎮護の要としたのです。
その根拠を示すために、古事記にはなかった伊勢神宮の開創神話を、日本書紀に加えた…。
どうでしょうか。ありうる話だと思いませんか。

山の奥に、ひっそりと佇む倭姫宮
山の奥に、ひっそりと佇む倭姫宮

実は、内宮よりも外宮が先に存在していた、という話もあるようです。
伊勢国風土記においては、天孫降臨した神武天皇が東征を推し進めていたとき、伊勢には伊勢津彦という国つ神がいて、神武天皇の臣下、天日別命(あまのひわけのみこと)が追い払い、伊勢を平定します。
それを考えると外宮は、朝廷に征服される前、土地神が祀られていた神社であった可能性もあります。
その神宮が、壬申の乱を支援した縁から天武天皇の庇護を得ることとなり、あらたに内宮が建てられ、以降は常に国家権力と強くむすびつき繁栄を極めるようになった…。
空想の翼が広がります。

しかし一方で、皆さま、ぜひ地図アプリで伊勢神宮をごらんください。
そこからぐぐっと縮尺を小さくし、飛鳥時代の都があった奈良県明日香村をさがしましょう。
なんと伊勢神宮は、奈良県明日香村から見て、ほぼ真東!
祖先に感謝し供養する春分の日、伊勢神宮の方向から朝日が昇るのです。
それも、太陽神であり皇祖神である天照大神が祀られている伊勢神宮から…。
これは決して偶然などではないでしょう。

もしかして伊勢神宮を建てたのは、天武天皇自身じゃないの?
いえいえ、伊勢神宮の実際の創建年については、本当にたくさんの議論がかわされているのですが、どの説も天武天皇よりも古い時代の創建としています。
ひとつの謎がとけたようでも、伊勢神宮の謎はつきず、それゆえに人はこれからも惹かれ続けるのでしょう。

参集殿で購入できるしずく鈴。干支のもあります!
参集殿で購入できるしずく鈴。干支のもあります!

いかがでしたでしょうか。
もうすぐ春分の日。
暖かくなっていく太陽の恵みと、脈々と血をつないできた祖先に思いを馳せてみましょうか。
神と人、神話伝承と史実、人々の思惑と信仰。
それらが絡み合い、織りなす人の世の歴史を楽しみましょう。
(了)