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執筆者:天爾遠波
取材旅行特集

天爾遠波の古代日本をめぐる旅

執筆者:天爾遠波
執筆者:天爾遠波

第1回 古代東北 始まりの地~多賀城~

1.はじめに

History is written by the Victors.
歴史は勝者によって記される―。
これは、イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルの言葉だが、一定の真理を含んでいるように思う。
古代より歴史は、時の権力者の意思によって記されてきた。
権力者は自分の立場を揺るぎないものにするために、恣意的に選び抜いた「事実」を書き残し、後世に「歴史」として伝えてきた。
日本において、最も古い事例は、日本書紀だろう。
日本書紀は、天武天皇が編纂を命じたとされている。
天武天皇と言えば、兄である天智天皇の子・大友皇子との間に壬申の乱を起こし、王権を奪い取った人物として知られている。
天武天皇は、甥殺しの末に政権を手に入れた。そのため、自身の正当性を示すために勅撰国史を作ったと言われている。
しかし、近年では歴史の見直しにより、人物や時代を再評価する動きがある。最新の発掘調査や研究によって、内容の史実性は改めて考えられるようになった。
壬申の乱だけではない。
記憶に新しいものを挙げるとするならば、明智光秀。
明智光秀は、主君を討った反逆者として、長く「裏切者」のイメージが定着していた。
しかし、大河ドラマで取り上げられることによって、新しい明智光秀像を思い浮かべた人も多くいたのではないだろうか。
その他にも、乙巳の変において討たれた蘇我入鹿、関ヶ原の戦いで破れた石田三成、賄賂政治家として悪名高い田沼意次……など、敗者の歴史は今、大いに見直されている。
もちろん、勝者が作り上げてきた「歴史」や「物語」に意味がない訳ではないだろう。
多くの人々に受け入れられてきた「歴史」には、それ相応の理由があったのだと思う。
しかし、歴史は実際、生き物だ。そして、事実は多面体である。
視点は決して一つではないはず。
その思いを強くした、きっかけがある。「日本紀略」の下記の記述である。

夷大墓公阿弖利為・盤具公母礼等を斬す。此の二虜は、並びに奥地の賊首なり。二虜を斬する時、将軍等申して云はく、「此の度は願に任せて返し入れ、其の賊類を招かむ」と。
『日本紀略』による。一部改変

これは、長年に渡って朝廷軍に対抗してきた蝦夷の族長・アテルイの最期にまつわる記述である。 アテルイが率いる抵抗勢力は、朝敵である。しかし、その族長について、東北征伐を命じられていた坂上田村麻呂は、助命嘆願したと記されている。
この一文は、私を大いに刺激した。私は、古の世界を思い浮かべて、想像の翼を広げた。

坂上田村麻呂、アテルイ、モレとは、どのような人物だったのだろうか。
なぜ、坂上田村麻呂は、東北を征伐しなければならなかったのか。
東北をめぐって、どのような戦いが繰り広げられたのか。
どうして、坂上田村麻呂はアテルイを助命嘆願したのか。
なぜ、アテルイとモレは斬首されたのか。

私は、真実を求めて、古代日本をめぐる旅に出ると決めた。
以下は、私が実際に訪れた旅の記録である。
私は考古学者でなければ、民俗学者でもないので、専門的な話は展開できない。ただし、大いなる好奇心と情熱を持って調べてみようと思った。
長い序文となったが、はるかな古に思いを馳せながら読んでいただければ幸いである。

2.多賀城を目指して

(1)坂上田村麻呂 所縁の地

坂上田村麻呂のゆかりの地について、インターネット上で情報を検索すると、様々な情報がヒットする。
と言うのも、坂上田村麻呂は伝説の多い人物で、各地で戦勝祈願を行ったとされているからだろう。
しかし、ひとまずは伝説の地ではなく、史実として所縁のある場所に行きたいと考えた。
伝説は、史実を紐解いた後に確認したほうが、「事実」と「物語」を整理できると思ったためだ。
坂上田村麻呂について調べて行く中で、最初に思い浮かんだのは、胆沢城である。
胆沢城は坂上田村麻呂が築いたとされる城柵で、延暦21(802)年に造営された。
ただし、蝦夷と朝廷との争いの火蓋が切られたのは、それよりもずっと前である。
東北の古代史について考えるならば、まずは、やはり多賀城に行かなければならないと思った。理由は後で述べる。

(2)旅の救世主「史都多賀城観光ボランティアガイド」

ここで少し私個人の話を打ち明けよう。
私は九州地方にルーツがあり、現在は東京に在住しているのだが、恥ずかしながら東北地方には今まで一度も行ったことはなかった。
田舎者であるがゆえ、電車の乗り換えも苦手。遅刻が怖くて、仕事で遠方に出向く際は、いつも予定よりも何時間も前に到着するよう家を出ている。
更には、地図を見ながら歩き回るのも不得手。どちらが北なのか、ランドマークを見つけても、目的地に辿り着けないことは、時々ある。
そのため、今回は特に慎重に事前準備を行っていた。
すると、インターネット上で良い情報を獲得した。
というのも、事前予約しておけば、ボランティアガイドがモデルコースを案内してくれると言うのである!
東北地方に不慣れ、なおかつ方向音痴の私には、またとない救世主だった。
私はすぐさまWEB上で予約を入れると、数日後、メールにて返信が届いた。
メールには、担当ガイドのお名前と電話番号が記載されていた。
以降は直接ガイドとやり取りをして待ち合わせ場所を決定するように、との指示であった。
見知らぬ人にいきなり電話をかけるのは少し勇気が要ったが、私はすぐに電話してみた。
すると、とても感じの良い人であった。
私が東京から出向く旨を伝えると、ガイドの方は、さっそく丁寧に教えてくれた。
「多賀城と名の付く駅は二つあるけれど、仙台からは東北本線に乗り換えて、国府多賀城駅で降りてね。センセキセンの多賀城じゃないからね、間違えないでね」
「センセキセン」という言葉も耳鳴れなかったが、私はメモ帳に書きなぐった。
後から調べたところ「仙石線」と書くそう。
何はともあれ、準備は整った。私は段取りをつけると、新幹線のチケットを購入しに走った。

国府多賀城 ホームにて
国府多賀城 ホームにて
Columnお得な切符の購入方法

昨今の物価上昇は凄まじい。そこで、今回はできる限り「お得に」旅をする方法がないか、調べてみた。

① 往復割引切符
新幹線の切符購入方法で先ず思いついたのが、往復割引切符。九州に帰省する際には、必ず往復で押さえるようにしているため、みどりの窓口に行って聞いてみた。しかし、往復割引切符は、片道601キロメートル以上でなければ適用されないとのこと。今回の多賀城は適用外であったため断念。

② えきねっとトクだ値
JR東日本・JR北海道が運営するWEBサイト「えきねっと」について調べたところ、新幹線チケットが定価の10~50%オフで取得できるそう。今回乗車を予定していた新幹線は割引対象車両であったため、さっそく会員登録をしてみた。しかし、いくら探してみても、割引チケットは見当たらない。
どうやら販売席数がかなり限られている様子。公式HP上でも、販売席数がいくつなのか、質問があがっていたが、販売数の公表はしていないとのこと。という経緯で、またしても断念。

③新幹線回数券
私の勤め先では、遠方出張の際は新幹線回数券を利用する流れになっているので、金券ショップも覗いてみた。しかし、「仙台―東京」は「売り切れ」の表示になっていた。
お店の人に聞いたところ、「仙台―東京」の回数券は置いておらず、株主優待券を購入せよ、とのこと。

④株主優待券
チケットショップの主にオススメされるがまま、株主優待券を購入。株主優待券を利用して、乗車券を購入すると、なんと割引率40%でチケットが取得できるそう! しかも、株主優待券は、ゴールデンウィークやお盆期間などでも利用ができるとのこと。
使い方はとても簡単。券売機で購入する際に、「株主優待割引で購入」のボタンを押し、以後は案内に沿って操作するだけ。もっと早く知りたかった~!!

今まで株主優待券を利用したことのない私には、目から鱗だった。ただし、株主優待券自体は時期によって価格が変動するようなので、要チェック!

3.いざ、多賀城へ!

(1)多賀城到着までの道中

良く晴れた4月の半ば、私は多賀城に出かけるべく、早起きをした。
先週までの雨が嘘のような、美しい青空。私は、お天気だけでも味方につけた気分になっていた。
迷うことも想定の上、早めに家を出発し、予定よりも1時間以上早く東京駅に到着。すぐに新幹線の改札をくぐったのだが、それが失敗。
JR東日本の改札内には、駅弁などを購入できるお店が全然ないのである! 向かいのJR東海の改札内は、駅弁を販売しているお店等沢山あると言うのに!!
仕方なく、私はゆっくりと時間をかけて飲み物を選び、ホームへ向かった。
(今回の旅行において、初めて知ったのだが、新幹線のはやぶさには、自由席がない。つまり、乗車変更をしない限り、事前に予約した指定席に乗るしかない! というわけで、私は新幹線をしばらく待った)
東京駅を出発し、新幹線に揺られること、1時間半。仙台駅から乗り換えて更に20分。
私は何とか無事に東北本線「国府多賀城」に到着した。

国府多賀城 駅の掲示
国府多賀城 駅の掲示

(2)多賀城の歴史

そもそも、何故私が多賀城に行こうと思ったのか。
まず多賀城の歴史について、触れておきたい。
多賀城は神亀元(724)年、大野東人によって創建されたのだが、注目すべきは創建の理由だ。
多賀城は、当時の政府である朝廷が、国家を広げるために置いた軍事的・政治的拠点だったとされている。
では、なぜ、国家を広げなければならなかったのか。
それには、更にもう少し歴史をさかのぼる必要がある。
日本史を学んだ者であれば、おそらく「大化の改新」という言葉を聞いたことがあるだろう。
大化の改新とは大化元(645)年、後の天智天皇である中大兄皇子と中臣鎌足が、当時勢力を持っていた蘇我入鹿を滅ぼした事件だ。
しかし、重要なのは、蘇我氏一族が滅びたこと自体ではない。中大兄皇子が蘇我一族を滅ぼしたうえで、何をしたかったのかを今一度、思い起こしてほしい。
大化の改新によって、目指したもの。
それは、当時の中国・唐を見習った、律令制による中央集権国家だ。
大化の改新以降、朝廷は北へ北へと勢力を伸ばしつつ、城柵を築いていった。城柵とは、中央集権国家の国境を示すもので、それより先は、朝廷の力の及ばない土地であった。
城柵よりも北に住む人々は、当時、蝦夷(えみし)と呼ばれていた。当然、戸籍もなければ税金の徴収もなかった。朝廷はそうした人々を中央集権国家の中に組み入れようとしたのである。
神亀元(724)年に築かれた多賀城は、その時期までに朝廷の支配が仙台平野に及ぶことを示している。多賀城は、それよりも更に北の東北地方を攻略するための重要な拠点だったと言える。
多賀城について思いを巡らせるとき、坂上田村麻呂と蝦夷の族長・アテルイとの戦いは、唐突に開始されたものではないと分かる。東北をめぐる長い闘い中で、二人は登場するのだ。
歴史はただ一点だけを集中的に見ていても、何も浮かび上がってこない。前後の文脈の中でこそ、意味を持ち、躍動する。
いかにして多賀城は築かれ、また消えて行ったのか。その歴史の一端から、東北征伐の歴史を振り返ってみたいと感じていた。

(3)多賀城をめぐる

今回は、史都多賀城観光ボランティアガイドの方と一緒に、多賀城のモデルコースを巡って来た。多賀城を巡るコースは複数のラインナップがあるが、私が選んだのは、史跡コース。
こちらは、多賀城政庁跡や多賀城碑などをめぐりつつ、歴史上の有名人たちに思いを馳せるコースとなっている。
では、コースの順番に、見ていきたい。

①舘前遺跡
駅を出て北西の方向を眺めれば、少し小高い丘のようになっている。丘に登ると、遮るものは何もなく、吹き抜けていく風が心地よい。
この場所には、かつて国史の屋敷があったとされている。

  • 舘前遺跡
    舘前遺跡
  • 舘前遺跡 掲示
    舘前遺跡 掲示

②外郭築地塀跡
更に進んでいくと、外郭築地塀跡が見えてくる。 多賀城は、一辺約900メートルの不整方形の区画をなし、周辺は築地塀で囲まれていたと言われている。

  • 正面に向かって、緩やかに登っていく・・
    正面に向かって、緩やかに登っていく・・
  • 小高い丘からは、築地塀跡が見える
    小高い丘からは、築地塀跡が見える

③外郭築地塀跡
南門は、多賀城政庁から約380メートル南に位置していた。
発掘調査では、南門と築地塀は、宝亀11(780)年の伊治公呰麻呂の乱で焼失されたことが判明している。

Column伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱とは?

伊治公呰麻呂は、もともとは蝦夷の出身であった。しかし、蝦夷との闘いにおいては、朝廷側として参戦し、褒美なども授けられていた。律令国家に寝返った蝦夷ではあったが、朝廷側からの信頼が厚かったのか、伊治城が置かれた栗原群の長官にまで任命されていた。
しかし、宝亀11(780)年、呰麻呂は反乱を起こす。
呰麻呂は、東北地方の総司令官・按察使の紀広純と牡鹿郡の道嶋大楯が伊治城に入った好機をとらえた。呰麻呂は普段から、道嶋大楯に対して恨みを持っていたとも言われている。呰麻呂は、紀広純が率いていた蝦夷を味方に誘い入れた上で、道嶋大楯と紀広純を殺害。多賀城に火を放ち、焼き払った。
この多賀城の焼き討ちによって、律令国家と蝦夷との闘いが激化していくことになる。

多賀城では、多賀城創建1300年にあたる令和6(2024)年に向けて、南門の復元工事を行っている。 そのため、私が訪れた際には工事業者が出入りして工事がなされていた。囲いはあったが、ほとんど全容を見ることができた。朱塗りの門は、まだ塗りたてという美しさだった。
私は平成22(2010)年の平城遷都1300年記念祭の際に、復元工事が完了した平城宮跡の大極殿を観覧したことがある。同じ時代の建築物というだけあって、見た目はよく似ていた。
奈良の一大イベントには、マスコットキャラクター「せんとくん」が選ばれて、一世を風靡したため、記憶に残っている方も多いかもしれない。期間中の来場者は、当初計画の100万人以上も上回る363万人に及んだ。
しかし、イベントなど開催されていない、通常の平城宮跡は、今の多賀城と同じように静かな場所だったと記憶している。
来年、多賀城の一大プロジェクトは、どのような未来を迎えるのだろうか。私は完成した、美しい南門を思い浮かべた。

桜とのコントラストが美しい
桜とのコントラストが美しい

④多賀城碑
多賀城碑は、別名を壺碑(つぼのいしぶみ)とも言い、平安時代の末より歌枕としても親しまれてきた。日本三古碑の一つである。
石碑には、京などから多賀城までの距離が記されているほか、大野東人が創建し、藤原朝獦が修造したことなどが刻まれている。
もともと多賀城碑は、藤原朝獦の業績を顕彰するために建てられた。しかし、藤原朝獦は、藤原仲麻呂の乱によって、反逆者として滅ぼされてしまう。
おそらく多賀城碑はその過程で葬り去られていたのではないかと考えられる。反逆者を讃えるような碑は、置いておけないとされたのだろう。
長い時間を経て、多賀城碑は、江戸時代初期、土の中から掘り起こされたと伝えられている。
当時も、この碑の発見は、大きな驚きを持って受け止められたらしい。俳人の松尾芭蕉も『奥の細道』でこの地を訪れて、感激を綴っている。

Column藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱とは?

天平宝字8(764)年に藤原仲麻呂が当時対立していた孝謙上皇と道鏡を排除しようとして起こした反乱。しかし、反乱は失敗に終わり、仲麻呂は子・朝獦と共に平城京を脱出。近江国府で再起を図ろうとしたが、命を絶たれてしまう。
この時、この事件で功を立てたのが、坂上苅田麻呂。坂上田村麻呂の父である!
歴史は繋がっている! と思わずにはいられない事件である。

  • この日は明るすぎて、字はよく読めず・・・
    この日は明るすぎて、字はよく読めず・・・
  • 小高い丘からは、築地塀跡が見える
    小高い丘からは、築地塀跡が見える

⑤多賀城政庁跡
多賀城跡のほぼ中央に、約100メートル四方の政庁跡がある。政庁とは、重要な政務や儀式が執り行われた場所だ。
現在、この広々とした場所に建物は残されていない。ただ、桜の花びらが静かに舞っていた。

  • 政庁復元模型
    政庁復元模型
  • 正殿跡
    正殿跡
  • 振り向くと登って来たことが分かる
    振り向くと登って来たことが分かる

4.坂上田村麻呂の伝説

散策しながら、ガイドの方から坂上田村麻呂の伝説をお聞きしたので、記しておきたい。

Column千熊丸(せんぐままる)

征夷大将軍として多賀城に赴任していた坂上田村麻呂は、ある日、菅野(すがや)村の宮門長者の屋敷に立ち寄った。
長者夫妻は大変感激し、阿久玉(あくたま)と呼ばれる美少女を接待役とした。
田村麻呂は度々長者の屋敷を訪れ、阿久玉とは次第に相愛の仲となった。
数年が経過し、大任を果たした田村麻呂は都へ帰ることになった。阿久玉とも別れる時がやってきた。
将軍は別れの記念に白羽の鏑矢と一振りの短刀、観世音尊像を阿久玉に贈った。
この時、阿久玉は田村麻呂の子を宿していた。延暦8(789)年8月1日、阿久玉は男児を産んだ。この男児は千熊丸と名付けられて立派に育った。

ちなみに、田村麻呂の子息には、延暦8(789)年に生まれた男の子がいるそうだ。
「信じるか、信じないかは、あなた次第。でも、それっぽいでしょ」と、ガイドさんは明るく仰っていた。
田村麻呂伝説は、全国各地に残されている。調べてみたところ、東北地方にも多いようだ。
しかし、私が不思議に思ったのは、東北地方において侵略者であるはずの坂上田村麻呂が、悪い描き方をされていない点である。これはひとえに、彼が歴史の勝者であったからと結論づけて良いのだろうか。私は田村麻呂伝説が気になり始めていた。

5.小括 多賀城を訪ねて

古くから周辺に住んでいた蝦夷たちは、国家の威信をかけて、広大な土地に築いた多賀城を見て、何を思っただろうか。
また、呰麻呂の乱において、呆気なく焼け落ちた様子を見て、どう感じたのだろうか。
古の面影を多く残した多賀城は、私の想像力を掻き立てるには充分だった。
圧倒的な力を持って制圧しようとした律令国家。
呰麻呂の乱をきっかけに、一つにまとまった蝦夷たち。
今では心地よい風の吹く丘の上で、私は古代東北で起きた戦について、もっと詳しく知りたいと感じた。
また、一方で心を揺さぶったのは、田村麻呂の伝説だ。語り継がれる伝説の主人公・坂上田村麻呂とは、どのような人物だったのだろうか。
古代東北地方において、戦いの火蓋が切られた経緯は分かった。
次の旅路は坂上田村麻呂の伝説が語り継がれている場所にしよう。
新しい出会いに胸をときめかせながら、私は東京へと戻っていった。

参考文献

『多賀城焼けた瓦の謎』石森愛彦・絵 工藤雅樹・監修(文藝春秋)
パンフレット『重要文化財 多賀城碑』(編集発行:多賀城市教育委員会)
パンフレット『特別史跡多賀城跡附寺跡』(編集発行:多賀城市教育委員会)
パンフレット『古今往来 多賀城人物伝』(編集:多賀城市教育委員会、発行:多賀城市文化遺産活用活性化実行委員会)

協力
史都多賀城観光ボランティアガイドの皆様