
天爾遠波の古代日本をめぐる旅

第2回 坂上田村麻呂に会いに行く~達谷窟毘沙門堂~
1.はじめに
坂上田村麻呂は、我が国最初の征夷大将軍となった人物だ。
田村麻呂は、東北を征伐し、蝦夷の族長アテルイとその盟友モレを降伏させた。
田村麻呂に関する様々な伝説を耳にしたことがあるという人もいるだろう。田村麻呂は古くから、武将としての名声が高い。
一方で、田村麻呂については、分かっていないことも多くある。その多くは出自に関することだ。田村麻呂は、帰化人の子孫ではないかという説や実は蝦夷の出身ではないかという説もある。
果たして、東北征伐において最大の功労者である坂上田村麻呂とは、どのような人物なのだろうか。
今回は、後世に残された無数の伝説の中から、坂上田村麻呂が創建したと伝えられる達谷窟毘沙門堂に出かけ、その生涯と後世に残した影響を考えてみたいと思う。
2.坂上田村麻呂とは
(1)出生
坂上田村麻呂についての研究資料・書籍は膨大にある。しかし、私は歴史の専門家ではないので、それらに手を出すのは、敷居が高く感じていた。
そこで思いついたのが、児童書だ。子供向けに書いているものならば読みやすいだろうと私は考え、さっそく図書館に行って田村麻呂関連の書物を探した。
すると、ちょうど良い本を見つけた。一色悦子氏による『子供を抱く坂上田村麻呂』という本だ。
私はさっそく読み始めたのだが、途中から違和感を抱くようになっていた。それは何故か。
児童書のなかで、田村麻呂が福島県の出身として描かれていたためだ。
正直な話、私の頭の中のイメージでは、田村麻呂がどうしても福島県出身だとは思えないのだった。
本の中では、田村麻呂について、奥州田村庄(福島県郡山市田村町)の出身と考えているようであった。
しかし、私にはにわかに信じがたいと思っていた。
なぜなら、田村麻呂は異例の速さで出世した人物だ。
地方で生まれ育ち、年頃になって中央に出向いたとして、出世できるだろうか。ただ単に「田村」という名称が偶然にも一致したため、後世の人が考え付いたものではないか。
児童書は読み物としては面白く、好奇心は掻き立てられた。しかし、私は史実が気になって、結局、専門書も紐解いた。
坂上田村麻呂は、天平宝字2(758)年に生まれた。父は苅田麻呂、当時31歳。
しかし、母親については、一切不明である。
生まれた場所についても、明らかにされていないようであった。
出生地を奥州田村庄と考える説は、古くからあり、御伽草子の『田村草紙』や浄瑠璃の『田村三代記』にも見られるようだ。しかし、いずれも根拠としては頼りなく、伝説の域を出ない。
また、その他にも、実は蝦夷の出身だったという説もある。この説によると、田村麻呂は東北の出身だったため、蝦夷の心が分かり、平定できたと考えるらしい。
しかし、出世のスピードを考えても、私は平城京の周辺で生まれ育ったと考えるほうが自然ではないかと思う。
「田村」という地名にちなんだ命名だとすれば、平城京田村里(奈良市尼辻町付近)が有力な候補地であるとされているようで、私には、その説のほうが納得できるように感じた。
(2)風貌と人柄
当たり前のことだが、古代の人物は写真などがないので、どんな人物だったのかは記述に頼らざるを得ない。
田村麻呂については、漢文体の伝記『田邑麻呂伝記』に幸いにも風貌についての記載が残っているため、ご紹介したい。
「大将軍は、身長五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸、向かひて視れば偃するが如く、背より視れば附するが如し。目は蒼鷹(しらたか)の眸を写し、鬢は黄金の縷(いと)を繋ぐ」
つまり、身長は約1メートル80センチ、胸の厚さは36センチ。前から見ると、のけぞっているかのように見え、背中から見ると、俯いているかのようだという。随分と細かく記載されているという印象を受けるが、がっちりした体つきだったことは分かる。
また、次のような記述もある。
「怒りて眼(まなこ)を廻らせれば猛獣も忽ち斃れ、咲ひて眉をゆるめれば稚子も早(すみやか)に懐く」
一般に伝記なるものは、実際の人物よりも良く書こうという意思が働く。その考慮を差し引いても、少々オーバーな記述ではないかと感じる。さすがに目を怒らせただけでは猛獣は倒れないだろう。しかし、強き者には強く、弱き者には優しい人柄として後の世に伝えられ、受け入れられてきたことは確かなのだろう。
3.いざ、達谷窟毘沙門堂へ!
(1)田村麻呂伝説
坂上田村麻呂については、様々な伝説が流布されているが、一つの特徴がある。それは、田村麻呂が創建に関わったとされる寺が多くある点である。
最も多いのは観音堂であるが神社や毘沙門堂も数多く存在する。秋田県、山形県、宮城県、岩手県、福島県など、東北地方に多く存在するが、とりわけ有名なのは、京都にある清水寺だろう。
田村麻呂は十一面千手観世音菩薩を御本尊として清水寺を建立し、羽音の滝の清らかさから「清水寺」と命名したと言われている。
(2)達谷窟毘沙門堂をめぐる
今回の旅では、坂上田村麻呂が創建にかかわったとして有名な達谷窟毘沙門堂を訪ねた。
なぜ数多ある寺社仏閣の中から達谷窟毘沙門堂を選んだのかと問われれば、蝦夷征伐の伝説の中でも、最も古い言い伝えが残されていると聞いたためだ。
達谷窟毘沙門堂は、東北本線の平泉駅から西南西へ5~6キロの場所に位置する。奥羽山脈の麓とは言え、山深い場所なので、公共交通機関で行くことは難しい。平泉駅からタクシーで行くこともできるが、私は一ノ関でレンタカーを借りた。この周辺は移動に小回りの利く車が便利のように感じたためだ。
実際に車で行く人が多いためか、駐車場は広かった。また山と反対側に小川があり、長旅の心も束の間癒された。
達谷窟毘沙門堂の入口に立つと「ここはお寺なのか? 神社なのか?」という疑問が湧いてくる。入口に鳥居が立っているためだ。この質問は多いらしく、公式ホームページにも掲載されているが、いわゆる神仏習合の地なのだろう。
神仏習合とは、日本において古代よりあった神様に対する信仰と大陸から伝来した仏教が融合した現象を指す。
神社の境内にある仏堂や、寺院の中にある境内社を見たことはないだろうか。まさにあの光景が神仏習合の例である。
神仏習合の起原は、8世紀頃。大分県の宇佐・国東半島周辺が発祥の地とも言われている。その後、全国各地に広がっていった。
しかし千年余り続いた神仏習合の時代は明治の廃仏毀釈という仏教排斥運動により終わりを迎える。明治政府が神道を国教化しようとし、その過程において神仏分離令が出されたためだ。
しかし、この機運は数年のうちに終息を迎える。神仏習合の史跡は今日も、全国各地に息づいている。
以下、順路に沿って紹介していきたい。
①毘沙門堂
鳥居をくぐって進んで行くと、荒々しい断崖に優美なお堂が見えてくる。
毘沙門堂に関しては達谷窟毘沙門堂縁起に下記のように記述されている。
延曆廿年(八〇一年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、惡路王・赤頭・髙丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。
大将軍は、戦勝は毘沙門様の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を模して九間四面の精舎を建て、百八体の毘沙門天を祀り、鎮護国家の祈願所とし、窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けた。
―達谷窟毘沙門堂別當達谷西光寺 公式HPより
「毘沙門堂は、何かに似ているな」と考えていた私も、縁起を読んで合点が行った。京都の清水寺を模しているのである。
また、この縁起の前後のストーリーを簡単に紹介すると「人々に悪さをしていた悪路王を田村大将軍がやっつけた」という展開である。この手のお話は、どこかで聞いたことがないだろうか。
よくよく思い起こしてみると、鬼退治と同様のストーリー展開なのである。
ここに記載されている「悪路王」については、蝦夷の族長アテルイの語が訛ったものではないかと考える人がいる一方で、悪霊を神に祀ったものではないかという考えもあるようだ。しかしいずれにせよ、田村麻呂が何らかの悪者を退治するという物語は、今でいうところの「鬼退治」と何ら変わりない。東北征伐が、いつの間にか、鬼退治に脚色されたのだろうか。調べてみたところ、世阿弥の作と言われる謡曲『田村』では悪魔退治の話になっており、『田村草紙』では鬼神を討っていることが判明した。
少し逸れたが、毘沙門堂に話を戻そう。
崖沿いにある急な階段を上っていくと、お堂の中に入ることができる。
お堂の内部については、撮影は一切禁止であったため、残念ながら写真を掲載することはできないが、今でもその光景は目に焼き付いている。
まず、お堂の窓からは境内を一望できる。お堂の中にある、向かって右の柱には「田村将軍創建」、左の柱には「桓武天皇」の名が書かれており、所縁の地であることがよく分かった。
お堂の奥には靴を脱いで上がり、目の前に毘沙門天を拝むことができた。
坂上田村麻呂を征夷大将軍として任命した桓武天皇とは、どんな人物だったのだろうか。
桓武天皇と言えば、「鳴くよウグイス平安京で」という語呂合わせを思い起こす人もいるかもしれない。桓武天皇が軍事と造作をライフワークとしていたことは、広く知られている。軍事とは東北の平定、造作とは平安京造営を指す。
ではなぜ、桓武天皇は軍事と造作に力を入れたのだろうか。
桓武天皇はもともと天皇になる予定ではなかった。それは、桓武天皇の母が、百済系渡来人の血統であったためだ。桓武天皇の父である光仁天皇には、9人の妃がいたが、皇后となったのは、聖武天皇の娘・井上内親王だった。本来は、この井上内親王の子・他戸親王が世継ぎとなる予定であった。
しかし、桓武天皇の父・光仁天皇が即位したことによって、宝亀4(773)年に皇太子となる。相対的に地位の低かった桓武天皇が皇太子となったのには、訳がある。それは、藤原氏を巻き込んだ政争の中で、井上内親王と他戸親王が亡くなったためだ。
桓武天皇は即位後、延暦4(785)年、皇太子としていた弟の早良親王について、藤原種継の死に関与したとして廃位する。早良親王は幽閉された後、流刑中に亡くなってしまう。その後、桓武天皇の親族には不幸が立て続けに起こる。桓武天皇は、早良親王の怨霊によるものと考え、祟りを恐れた。
桓武天皇はこのままでは政治に支障をきたすとして、遷都を決意する。
桓武天皇の皇位は、親族の死によって成立したものだった。桓武天皇が軍事と造作に力を入れたのは、このような背景による。特に東北征伐は、歴代の天皇が実現できなかった一大事業だった。桓武天皇は、自身の基盤をより強固なものにする必要があったのだ。
最強のお札「牛玉寳印(ごおうほういん)」
お堂の中では、最強のお札として知られる「牛玉寳印」を求めることができる。このお札は、元旦から8日の加持祈祷を経たお札で、1月8日から11月22日までの間に販売していると某旅雑誌に記載されていた。私が参拝に訪れたのは4月末だったので、もう売り切れているだろうと半ば諦めていたが、まだストックが積まれていた! 何と言ってもこのお札、貼れば悪鬼を払い、福を招くと言われているのだとか。
②岩面大佛
毘沙門堂を出て、階段を降りていくと、右側は岸壁が続いている。その岸壁の上部に、磨崖佛が刻まれている。
大佛の高さは16.5メートルにも及び、顔の長さだけでも3.6メートルほどある。全国でも五本の指に入るほどの大像で、「北限の磨崖佛」として名高いそうだ。
③蝦蟆ヶ池辯天堂
毘沙門堂の目前には蝦蟆ヶ池と呼ばれる池があり、辯天様が祀られている。仲の良い男女は共に参詣しないようにという趣旨の看板が立っていた。
この池は神様の池であり、ここに棲む生きとし生ける者は、辯天様のお使いとされているらしい。最も尊いものは蛇だと言い、辯天堂にもお祀りされていた。
④姫待不動堂
姫待不動堂に関しては、公式HP下記のような記述がある。
惡路王等は京から拐って来た姫君を窟上流の「籠姫」に閉じ込め、「櫻野」で暫々花見を樂しんだ。
逃げようとする姫君を待ち伏せした瀧を人々は「姫待瀧」、再び逃げ出せぬよう姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪を掛けた石を「髢石」と呼んだ。
姫待不動は智證大師が達谷西光寺の飛地境内である姫待瀧の本尊として祀ったものを、藤原基衡公が再建した。
―達谷窟毘沙門堂別當達谷西光寺 公式HPより
悪路王はこうした傍若無人な振舞いにより、田村麻呂に討たれてしまうのだが、境内全体にそうしたエピソードが散りばめられているのだと感じた。
⑤金堂
タイミングの良いことに、私が訪れた4月下旬、不動堂の修覆工事に伴い、金堂内において秘仏の特別公開を行っていた。そのため、金堂内に靴を脱いで上がり、私は秘仏と対面することができた。秘仏は、平安時代末期の十一面観世音菩薩立像と聖観世音菩薩立像であった。
4.小括~達谷岩谷毘沙門堂を訪ねて
坂上田村麻呂に関連する伝説は多いが、伝説には二つのタイプがあることが分かった。一つは寺社仏閣の創建に関する言い伝えであり、もう一つは東北征伐から形を変えて、鬼退治に結びつく物語だ。達谷窟に関しては、その二つを網羅した場所であると考えられる。
伝説の地は津々浦々に渡っている。しかし、私が思うに、秋田県や山形県などの地域について、坂上田村麻呂は東北征伐で訪れていないのではないかと思う。またそのように考え始めると、田村麻呂が実際に戦勝祈願で訪れた寺社仏閣がどの程度あったかどうかですら、怪しく思えてしまう。
しかし、一方で言い伝え自体は真のこととして、脈々と語り継がれてきた。その理由は何故なのか。
一つには、人々が強い英雄を希求していたからではないかと思う。
坂上田村麻呂について考える時、対比として思い起こされるのが、菅原道真だ。菅原道真は学問の神様として、後に天神信仰と結びついた。伝説は、信仰と結びつくことで、より強固なものになるのではないだろうか。
激しい戦が繰り返される中で、田村麻呂が戦勝祈願に訪れたとされる寺社仏閣の存在意義は、むしろ戦後だったのではないか。戦が終わった後、平和な世になるよう人々が心の拠り所としたかったのではないだろうか。多くの殺生があり、血が流れた後で、人々は救いを求めたのではないか。もちろん、生死観については現在とは異なるだろう。しかし、強いリーダーを求めて、平和な世の中を祈願する人々の姿が、私は目に浮かぶような気がするのだ。
今回は伝説の地を訪れ、言い伝えなどを考察することによって、坂上田村麻呂という人物と古代日本の姿を振り返った。
しかし、坂上田村麻呂最大の功績である、東北征伐については少し手薄になった感も否めない。
次の旅路は、坂上田村麻呂の生涯のライバル・アテルイとモレについて、その実像を追いながら、古代東北で繰り広げられた戦について考えてみたい。
『多賀城焼けた瓦の謎』石森愛彦・絵 工藤雅樹・監修(文藝春秋)
『子供を抱く坂上田村麻呂』一色悦子(歴史春秋出版株式会社)
『坂上田村麻呂』高橋崇(吉川弘文館)
達谷窟毘沙門堂 綠起|達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺 (iwayabetto.com)
- 第1回 古代東北 始まりの地
~多賀城~ - 第2回 坂上田村麻呂に会いに行く
~達谷窟毘沙門堂~ - 第3回 アテルイとモレを探して
~胆沢城跡・古戦場・出羽神社他~