
天爾遠波の古代日本をめぐる旅

第3回 アテルイとモレを探して~胆沢城跡・古戦場・出羽神社他~
1.はじめに
アテルイという蝦夷のリーダーの名前を聞いたことがあるだろうか。歴史の教科書に記載があったと記憶している人もいるかもしれない。しかし、盟友モレの名や彼らの功績を正確に述べることができる人はきっと少ないのではないかと思う。
その理由としては、第1回にも述べたが、アテルイとモレが敗者であったことが挙げられる。また、蝦夷は文字を持たない種族であったため、歴史を辿ろうにも大きな制約がある。
実際に、アテルイに関する歴史資料は少ししか残っていない。歴史の資料にアテルイの名前が登場する箇所は、たったの三つしかない。モレについて二つだ。
そこで今回は、アテルイとモレに所縁のある地を訪れ、その地域の文化や遺跡を調べながら二人の生きた時代とその足跡に光を当てていきたい。
2.奥州市を目指して
(1)アテルイとモレに関連する史跡
アテルイとモレに関連する史跡を調べていて、真っ先に思い出したのが、私自身が過去に何度も訪れている京都の清水寺である。
清水寺の境内にはアテルイとモレの名前が刻まれた石碑があったと記憶していため、確認したところ、間違いではなかった。
石碑は、比較的新しく、平安遷都1200年を記念して、平成6(1994)年に建立されたものであった。「関西アテルイ・モレの会」という団体が発願し、清水寺の貫主の了解を経て建立したものらしい。「関西アテルイ・モレの会」の公式ホームページを拝見すると、関西在住の岩手県出身者が中心となって活動しているようで、毎年慰霊供養も行っている。石碑は人々の思いと共に、大切に受け継がれていることが分かった。
その他に、アテルイとモレに関する史跡としては、大阪府枚方市にある首塚が挙げられる。
アテルイとモレは最期、処刑されたと記録が残っているのだが、その場所が河内国、今の枚方市だ。
こちらの石碑もかなり最近のもののようで平成19(2007)年に建立されていた。ただし、アテルイとモレの最期の場所については、地元の人でも信じていない方もいるようだ。実際、こちらの首塚は、市の史跡にも登録されていない。そのため、この石碑も有志で建立に至ったのだろうと推測するが、それは伝承を語り継ぐべきと考えたからであろう。
(2)アテルイとモレの生きた世界
アテルイとモレを顕彰する石碑の一つは、二人のライバル・坂上田村麻呂が寄進した清水寺に、もう一つは、非業の死を遂げた場所にあると判明した。二つは後世に生きる人々が、二人の功績を語り継いできた証だろうと思う。
私はアテルイ・モレの足跡を調べているうちに、二人の生きた世界を見てみたくなった。もちろん、タイムマシーンに乗って古の世界に行くことなどはできないが、二人の故郷について知りたくなった。アテルイとモレが命を懸けて守りたかった場所とは、どんな場所なのか、この目で見て見たくなったのだ。
アテルイとモレは古代の胆沢(現在の岩手県奥州市水沢区)を本拠地として活躍したことが分かっている。そのため、今回の旅は、水沢江刺周辺の遺跡や関連施設を巡ることに決めた。
(3)旅の救世主「プレミアムタクシー」
さて、奥州市に行くことが決まったが、どのように回ろうかと考えあぐねていた際に、耳より情報を獲得した。中学時代の恩師から、「奥州プレミアムタクシー」なるものが存在すると聞いたのだ。
調べてみたところ、この観光タクシーには、いくつかのコースが用意されているのだが、その中に「アテルイの里歴史巡り」というコースがあった。何でも、所縁の地を回ってくれるらしい。しかも説明には、認定添乗員が「郷土愛とおもてなしの心を持って地域の魅力を案内」してくれると記載がある!
恩師は「迷いながら行くのも楽しいよ」と言って下さったのだが、何を隠そう、ズバ抜けて方向音痴の私なので、迷わずタクシーを予約した。一人で地図や書籍と睨めっこしながら歩き回るより、土地勘のある人に、地元の話を聞いてみたかったという気持ちもある。
タクシー会社の窓口の方は、丁寧な口ぶりだが、隠し切れない方言のイントネーションが混ざっていた。私は「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」という石川啄木の短歌を思い起こした。確か、啄木も岩手県出身であったか。独特の訛りは、既に旅のワクワク感を掻き立てていた。
3.見どころたっぷり、奥州市を行く
アテルイやモレに関連する場所を調べて行く中で、どうしても行ってみたい施設が出てきた。奥州埋蔵文化財調査センターだ。
公式ホームページを確認してみたところ、常設展示には「蝦夷の紹介コーナー」の他に、「アテルイコーナー」もあると判明した。ホームページ内を見れば見るほど、「ここは絶対に行くしかない!」と思わせる内容なのだ。
しかも奥州埋蔵文化財調査センターの目の前は坂上田村麻呂が築いたとされる胆沢城である。という訳で、奥州埋蔵文化財調査センターと胆沢城は外せないスポットとして、真っ先に向かうことにした。
(1)奥州埋蔵文化財調査センター
奥州埋蔵文化財調査センターは、水沢江刺駅からタクシーで15分ほどの場所に開館している。
受付でチケットを購入し、1階の展示を見てみると、さっそく「アテルイコーナー」だった。
インターネットで具に調べていた私は興奮した。アテルイコーナーには、「アテルイの履歴」や「アテルイの郷探訪マップ」といった面白いパネルの他、ショートムービーが流れており、1階を観覧するだけでも、充分な価値があった。
しかし、2階はもっと素晴らしかった。何と言っても入口から壮観だ。
2階の展示室は中央にシアターがあり、『古代東北蝦夷の世界』というムービーが定期的に上映されていた。このムービー、年季が入っている感じはあった。しかし、非常に分かりやすく、古代東北のエッセンスが詰め込まれており、私のような初心者にはピッタリの内容だった。
訪れてみた感想を一言で述べるならば、「行って良かった! だけど圧倒的に見る時間が足りなかった!」である。
タクシーの運転手さんには、「ほかの場所にも行きたいので、30分程度で見てきます~!」とお伝えしていたのに、そもそもムービーが30分もあるのだから、全然時間が足りなかった。
見どころが沢山あるので、行ってみようと思われた方は、ゆっくりと時間をかけられるように調整していただきたい。
(2)胆沢城跡
奥州埋蔵文化財調査センターを出ると、目の前が胆沢城跡である。
胆沢城の全体の面積は、およそ46万平方メートルもあるという。これは、東京ドームが9つ入る大きさだ。奥州埋蔵文化財調査センターでは、「いさわのまほろば 胆沢城を歩く」というパンフレットを手に入れたが、とても歩いている時間はなかったので、タクシーで外周を回っていただいた。
胆沢城跡は、「跡」というだけあって、築地塀が少し復元されているのみだ。タクシーの運転手さんは、「お金があれば、もっと色々と復元できるのでしょうけど」と仰っていたが、私は、これはこれで良いのではないかと思った。手つかずの自然が残った胆沢城跡に歴史的建造物はなくとも、風景などは当時の面影を留めているのではないか。
訪れたのは4月の終わりだったので、水田には水が張られていた。本当に、爽やかで、のどかな場所である。ところどころに白い花の咲く木があったので訊ねると、運転手さんは、林檎の木だと教えてくださった。私は九州出身なので、林檎の木を見たのは初めてだった。豊かな自然に育まれた林檎を、アテルイやモレも食べたのだろうか。ふと、そんなことを考えていた。
(3)古戦場
①延暦八年の戦い
アテルイは歴史のなかで突如現れる。書物の中で「アテルイ」がどのように記述されているのかを今一度、見てみよう。
賊帥阿弖流為が居に至る比(ころおい)、賊徒三百許人有りて迎へ逢ひて相戦ふ。
(中略)前軍、賊の為に拒まれて進み渡ること得ず。是れに賊衆八百許人、更に来りて、拒(ふせ)ぎ戦ふ。その力太だ強くして、官軍綃(やや)く退任くとき、賊徒直に衝けり。更に賊四百許人有りて、東山より出でて官軍の後を絶てり。前後に敵を受けたり。賊衆奮ひ撃ちて、官軍排さる。
『続日本紀』による。一部改変。
何とも息を吞む描写である。続きが気になる方は、是非『続日本紀』をお読みいただきたい。
これは、アテルイが歴史上はじめて登場する、「延暦八年の戦い」の記述だ。
第1回で少し触れたが、呰麻呂の乱後、蝦夷と朝廷との軋轢は高まっていた。桓武天皇は、延暦八年の戦いに、並々ならぬ強い意志を持っていた。しかし、アテルイ側の見事な作戦により、朝廷軍は大敗してしまう。
奥州市出身の人物と言えば、今やアテルイよりも野球選手の大谷翔平選手のほうが有名かもしれない。
巣伏の古戦場を一望できる物見櫓では、毎年、田んぼアートを見ることができるそう。田んぼアートとは、水田をキャンパスに見立てて色の異なる稲を使って、強大な絵を作り出すこと。
私が訪れたのは4月末。田植えも始まっておらず、何も見られなかったが、今年は大谷選手のWBCでの功績を描くそう。いや~、見たかった!
②延暦十三年の戦い
延暦8(789)年の5年後、延暦13(794)年に第二次征夷が行われる。
桓武天皇は、絶対に負けられない戦いとして、軍勢を大幅増員する。この時の軍勢は10万人とも言われた。さらには東北地方の蝦夷を手なずけたり、食糧や武器などを十分に準備したりと、次々と必勝作戦を実行していった。平安京遷都の年に征夷をぶつけた点にも、桓武天皇の自信が読み取れるように感じる。
結果として、延暦十三年の戦いは、官軍側の勝利に終わる。桓武天皇にとって、この勝利は、自らの権威を高める、一定の効果があったように思う。しかし、東北地方では、アテルイはまだ降伏していなかった。そのため、戦いは持ち越されることになる。
③延暦二十年の戦い
延暦二十年の戦いで征夷大将軍として任命された人物。それこそが、坂上田村麻呂だ。しかし、延暦二十年の戦いについては、充分な記述が残っておらず、その実態についてはあまり明らかにされていない。
ただし、坂上田村麻呂が、延暦十三年の戦いの時点において、副将軍として現地入りしていたことは分かっている。また延暦十三年の戦い後、数年の間、田村麻呂は帰降した蝦夷たちに対して、優遇施策を実施した資料が残っている。
そのため坂上田村麻呂は戦わずして勝ったとか、懐柔策のみ使用したため、東北の人々にも英雄として受け入れられたなどという説があるようだ。
延暦二十年の戦い後、アテルイとモレは500人を率いて降伏する。坂上田村麻呂は、アテルイとモレを連れて都へ帰り、二人の助命嘆願を申し出るが、聞き入れられることはなかった。アテルイとモレは、先に述べたように河内国で斬首に処せられる。
ここで三つの疑問が浮かぶ。
一つは、なぜ坂上田村麻呂は、二人の助命嘆願を申し出たのだろうか、という疑問である。考えられる理由として、田村麻呂は、アテルイ・モレの度量を認めていたのではないか。また、田村麻呂は実際に現地入りし、蝦夷の生活を間近で見ることによって、都で言われているほど蝦夷が野蛮な種族ではないことを肌で感じていたのではないだろうか。
もう一つの疑問は、アテルイとモレの処刑後、東北地方において弔い合戦などの戦が見当たらない点である。田村麻呂の助命嘆願が聞き入れられなかったのは、公卿たちが蝦夷を恐れていたためだ。彼らはアテルイやモレを東北に帰してしまうと、蝦夷が再結集するのではないかと恐れた。つまり、まだ東北の地に燻りの火種は残っていたのだろうと思う。
しかし、実際には反乱はもう起こらなかった。なぜか。それは、アテルイ本人が残った蝦夷たちを説得していたからではないだろうか。自身の命と引き換えに東北を守る、と。
三つ目の疑問は、なぜ助命嘆願したとわざわざ記述したのかという問題だ。アテルイやモレは朝敵であったので、ただ処刑したと記載すれば済む話だ。しかしわざわざ助命嘆願したと記載したからには、もしかすると、桓武天皇自身も、一定の理解を示していたのかもしれないとさえ思う。
(4)出羽神社
プレミアムタクシーでは、行き先はある程度融通を利かせてもらうことができる。もともと「アテルイの里コース」では、金ヶ崎町にも立ち寄ることになっている。が、私自身はアテルイの情報収集に全集中したかったため、金ヶ崎町の施設には寄らないことにした。
運転手さんに意向を告げると、出羽神社には、アテルイとモレの慰霊碑が建っていることを教えて下さったので、是非行ってみようという話になった。
出羽神社があるとされるのは、羽黒山というお山の上だ。
羽黒山の麓には、「アテルイ・モレの里」「羽黒山 出羽神社」と書かれた大きな看板が出ており、参道の入口に鳥居があった。鳥居から少し先には石段が見えたが、道のりは、完全に登山だった。そのため、今回は、タクシーで山道を登っていただいた。道は細く、車体ぎりぎりという感じであるので、運転が苦手な人には、あまりオススメできない道だった(かといって、歩いて行くのも大変そうではあるが)。
①出羽神社の歴史
境内に掲げられていた由来を見ると、坂上田村麻呂は山形県の羽黒権現に立願し、東北を平定したとある。
その後、鎮護のため、激戦が繰り広げられたこの場所に、羽黒権現を勧請したとされている。安永2(1773)年の風土記には、羽黒山羽黒権現という名前で記されているが、明治の神仏分離により出羽神社と改められたそうだ。
②アテルイとモレの慰霊碑
羽黒山は、巣伏の戦いにおいて、アテルイが伏兵を潜ませ朝廷軍を撃退した「東山」ではないかという説もあるようだ。なるほど、山道は鬱蒼としており、伏兵を潜ませるにはピッタリだと思えた(逆に、不慣れな人がさまよえば、何も仕掛けなくても遭難しそうだ)。
拝殿から、更に200メートル先に進むとアテルイとモレの慰霊碑が建立されてあった。調べてみたところ、平成17(2005年)地元有志によって建立されたものらしい。毎年9月の第2土曜日に慰霊祭が行われているそうだ。
清水寺の石碑も、平成19(2007)年であることを鑑みると、その年の前後に何かの機運があったのだろうかと気になった。調べてみたところ、平成14(2002)年がアテルイ没後1200年とのことで、地元の岩手県を中心にアテルイブームが起きていたようである。シンポジウムや企画展・講演会などの開催が相次いだほか、高橋克彦氏の「火怨―北の燿星アテルイ」(講談社、1999刊)が吉川英治文学賞を受賞するなど、話題に事欠かなかったようである。
しかし、ブームから20年ほど経った今、アテルイの名はまた静かに忘れ去られているのではないかというほど、出羽神社は静まり返っていた。
4.小括
以上、奥州市水沢江刺区周辺を訪ね歩きながら、アテルイやモレが生きた日々に思いを巡らせた。
インターネットが便利に利用できるようになった今、情報収集は画面上で容易くできる。しかし、実際に自らの手足を使って、その場を訪れて感じることは、ネットで出回っている情報に比べて、量も質も上回ると確信した。
私はやっぱり、行ってみて良かったと思った。
東北の風景は、私の生まれ故郷である九州とは全く違った。遠くの山には、白く雪が積もっていた(九州では、雪は冬しか積もらない)。足元では、タンポポの花の形でさえ異なっていた。違いの一つ一つは些細なものかもしれないが、全体としては大きな違いになるのだと思う。冬に行けばもっと差が出てくるだろうとも思った。
同じ日本で、情報や物の行き来が活発になされる時代でも、こんなに違うのだから、古代はもっと心理的な距離があったに違いない。しかし、その違いを認めず、支配しようというのは、一方的な言い分だし、野蛮な行為だと思う。
今日でも、都には多くの人が集まる。当然、お金も集まる。政治的な機能も集中する。しかし、人々の暮らしや文化は、どちらが優れているか、とか、良し悪しでは比べられないのではないか。
東北に咲くタンポポの花は、この場所が一番私に合っている、と思ったら、咲いているのだ。これを無理やり違う場所に持って行ったら、咲かないかもしれない。
違いを認め合うことは、なかなか難しい。でも、直接のふれあいを持つことで、生まれる感情があるように思う。
坂上田村麻呂が東北を平定できたのは、彼自身が東北に行ったからではないか。
そんなことさえ、思った。
5.おわりに
何かに導かれるかのように、東北への旅に出た。しかし、その正体とは、何だったのだろうか。
私は物事全てには意味があると考える性格だ。だから、なぜ今、坂上田村麻呂に心動かされたのだろうか、と思った。そして、どうしてこれほどまでに、アテルイやモレに引き付けられたのかについて考えた。
そんな疑問を抱いている時に、下記の文と出会った。
「東夷の中、日高見の国あり。其の国人男女並びに椎結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人となり勇悍(いさみたけ)し。是をすべて蝦夷と日(い)う。亦(また)土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取るべし」
―『日本書紀』による。一部改変。
私は「土地沃壌えて曠し。撃ちて取るべし」という部分に目が釘付けになり、あることに気が付いて、胸が震えた。
「肥沃な土地」と聞いたとき、皆さんはどんな国や場所を想像するだろうか。
私はといえば――ウクライナを思った。
ウクライナは土壌の6割がチェルノーゼムと呼ばれる黒い土だ。黒い土は、生産性が高く、「土の皇帝」とも呼ばれている。この土のおかげで、ウクライナは麦やトウモロコシ、油の原料となるヒマワリの種の世界有数の産地として知られていた。しかし、今はどうだろうか。
おそらく今の子供たちに「ウクライナって、どんな国?」と問えば、思いつくのはヒマワリ畑でも、小麦でもなく、ロシアとの戦争なのではないかと思う。日本でも、この戦争のニュースは日々報道されている。私の娘は、爆弾で燃えるウクライナの街を見ながら、「どうしてロシアは爆弾を落としているのか?」と真顔で聞いてきた。ロシアがどこにあるかも分かっていない、五歳の娘が、だ。
正直な話、私もロシアに訊いてみたいくらいなのだが、古代東北の歴史に思いを巡らせるとき、私は今のウクライナ情勢を憂えた。
歴史は繰り返されると言うが、「ウクライナVSロシア」の構図は「古代東北VS朝廷」と類似点があるように思えてならない。歴史は常に「侵略する者」と「される者」の戦いを孕んできた。今だって、例外ではないのだろう。
しかし、だとすればこの戦は遅かれ早かれ、いずれ終焉を迎えるはずだ。
坂上田村麻呂とアテルイ・モレは、それぞれ置かれた場所が違った。異なる立場があった。しかし、降伏した経緯とその後を見てみると、両者の間には深い理解があったように思えてならない。それぞれのリーダーは、お互いの度量を認め合ったうえで、争いのない世の中を願ったのではないだろうか。
アテルイやモレが命を懸けてまで守った東北の地では、今でも水田に水が張られている。秋になれば稲穂が垂れ、あたりは黄金色に輝くのだろう。雪解けの水は、山菜を育み、北上川は今日もごうごうと流れている。人々は今でも、豊かな自然の中で暮らしを続けている。
『アテルイと東北古代史』熊谷公男(高志出版)
『田村麻呂と阿弖流為 古代国家と東北』新野直吉(吉川弘文館)
『阿弖流為-夷俘と号すること莫かるべし-』樋口知志(ミネルヴァ日本評伝選)
奥州市埋蔵文化財調査センターのホームページ(公式)(oshu-bunka.or.jp)
- 第1回 古代東北 始まりの地
~多賀城~ - 第2回 坂上田村麻呂に会いに行く
~達谷窟毘沙門堂~ - 第3回 アテルイとモレを探して
~胆沢城跡・古戦場・出羽神社他~